【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~

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「あなたは私を離さないと言いながら、離婚してくれと言う」
「……キオクニゴザイマセン」
「言った」
「言ってません」
「叫んでいた」
「叫んでません」

 少し沈黙が落ちる。
 夫は引き続きエルシャの涙を拭ってくれていた。

「旦那様だって私に離婚しようって言いました。二回も」
「あなたを守るには、ああするしかないと思っていた。だが、できなかった。離婚の書類を準備すればいいだけなのに、それができなかった」

 ぴゅうっと冷たくなった風が吹く。
 先ほどまで適した気温だったのに、太陽が雲で隠れて肌寒くなってくる。エルシャが少し身を震わせると、夫が抱きしめてきた。
 強くではない。ほんの少しの力で、包むくらいに。そして夫の手は震えてはいなかった。

「あなたは平気で私の世界に鍵を持ってズカズカ入って来て、壊すだけ壊して出て行くのだろうか。平気な顔で近付いてきて食事を食べさせて、着替えと仕事まで手伝って、夜通し看病して子守歌まで歌って、私を捨てるのか」

 その前半と最後の表現はどこの夜盗だ。
 しかし、羅列されてみるとエルシャは結構なことをやっている。特に無理矢理着替えさせたところなんて。今では恥ずかしくて絶対にできない。よくもまぁあんなことができたものだ、それだけ夫のことを意識していなかったということか。

「仕方がないじゃないですか」
「何が仕方ないんだ?」
「だって、私。このままだとバクスター公爵夫人のようになっちゃいます」
「それは……想像できないな」

 エルシャだってそうだ。自分はあんな風にならないと胸を張って言えるはずだった。でも、バクスター公爵夫人の気持ちが痛いほど分かってしまったのだ。

 あれほど愛して尽くした相手から同じものが返ってこない、それより虚しいことがあるだろうか。しかも「情けない姿を晒すな」なんて言われ、王太子やその部下の一部からは「あぁ、これだから女はヒステリックで面倒なんだ」という視線を向けられる。彼女は王弟が愛を返さなかったせいで段々壊れていっただけなのに。

 バクスター公爵夫人は、恋愛結婚はもって三年だと言った。エルシャは契約結婚して二年が過ぎた。何もしていないから、真っ白な結婚だから子供だっていない。
 父の言う通り、夫がエルシャを要らないと判断したら子供ができないことを理由にしてでもすぐに離婚になるだろう。そんなことになったらエルシャは耐えられない。それなら、先に離婚しておく方が絶対にマシだ。

 そうすれば、エルシャは夫に情けないつまらない姿を見せなくて済む。誕生日を忘れられてヒステリーを起こすこともなく、高熱で夫が帰ってこないことに絶望することもない。未熟で未完成な自分には、結婚は早かったのだ。

「情けない姿を見せてしまって、旦那様は私に失望するはずです」
「私は散々情けない姿をあなたに見せてしまったが、あなたは私に失望したのか。守ると言って守れていないから」

 エルシャの額は夫の肩あたりにひっついている。エルシャは夫の服の肩部分についている飾りに額が当たるのも構わずに首を横に振った。

「そんなことはありません。旦那様が一人で苦しんで傷ついてきたことはちゃんと誇りに変わります」
「あなたはそう言ってくれるのに、私はあなたの情けない姿を見て失望する心の狭い人間だと言いたいのだろうか」

 エルシャはちょっと考えた。考えたが、夫の言い方はやや回りくどい。夫の肩に額をくっつけてエルシャは混乱した。

「旦那様はどうして離婚したくないんですか。また女性に群がられるのが嫌なだけですか?」

 夫は少しばかり体を強張らせた。女性に群がられる自分を想像でもしたのだろうか。

「これまでずっと公爵家と母のために生きてきたようなものだった。これから自分のためにも生きるとなってくると、あなたがいないのは嫌だと思った」

 今度はエルシャの体が緊張した。なぜだか心臓がうるさい。ちょうど夫の胸に手をついていたので、心臓の辺りに手を当てる。夫の鼓動も早かった。

「離婚しましょうと言われて、初めて嫌だと思った。そこまで言われないと分からない私は愚か者だが……。あなたが構ってくれるのもお世話してくれるのもくすぐったくて、記憶が戻っていても記憶のないフリをした。これから生きていくのにあなたと一緒がいいと思った」

 夫は女性嫌いでクールなはずだが非常に口が上手い、エルシャにとってはだが。
肌寒くなったはずなのになんだか熱い。

「あなたは嫌だろうか。あなただってこれまでずっと家族と家のために生きてきた。私と一緒に自分のために生きることは考えられないだろうか」
「だって、私たち契約結婚じゃないですか。こんなの、契約結婚じゃないです」

 こんなの、恋愛結婚のようなものではないか。お互い好きなようで、愛しているようで。

「契約には例外もあるし、変更もある。とても不思議だ。父が浮気していると誤解した件も王太子に脅された件もなければ、あなたとこうやって結婚することはなかった」

 夫はエルシャの腰から手を離すと、今度は両頬を包んできた。おそらく、エルシャの顔は今リンゴよりも赤いはずだ。

「私と本当の夫婦になって欲しい、エルシャ」

 うわぁ、この人。ここで名前を呼んできた。
 ズルい。よく分かっている。何も分かっていないのに、使いどころをよく分かっている。

「返事がイエスなら、目を閉じて欲しい」

 うわぁ……。エルシャは心の中で盛大に枕でも投げていた。そうでもしないと、この未体験の甘い雰囲気に耐えられないからだ。

 知らなかったのだ、愛することがこんなに怖くて甘くてドキドキするものだなんて。
 エルシャはしばらく百面相したのち、夫が吹き出す前に目を閉じた。結婚式ではギリギリでしなかった口付けが降って来る。

 本当に白くない結婚になってしまったとエルシャは感じた。


「風で葉が舞ってロマンチックで、結婚式みたいねぇ」
「寒くなってきたのでお二人を撤収しましょう。お風邪を召されてしまいます」
「あら、大丈夫よ。アツアツじゃない」

 リチャードは少しばかり呆れた視線を先代公爵夫人に向けた。

「もうあの二人、早く結婚しちゃえばいいのに」
「大奥様、お二人は夫婦です」
「そういえば、そうだったわね。あぁ、領地の使用人たちにボーナスを考えないと」
「私にもくださいませ。さきほど慌てて回収したのでモノクルにひびが入りまして」
「いいわよ」

 カニンガム公爵家は平和だった。
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