【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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夫は目を覚ましてからカニンガム公爵邸に戻って来た。
階段から落ちる原因となったご令嬢たちは、城で起きた事件なので王太子殿下によって処罰されるそうだ。王太子殿下と仲の悪い王弟殿下寄りの貴族たちだったのも影響している。
夫が帰って来てもエルシャの一日は変わらない。
庇ってもらったため手伝いはしようと思っていたが、夫の記憶が真っ白なのだからエルシャが側にいても怪訝な顔をされるだけだろう。妻だった時でさえ避けられていたのに、今の夫にとってエルシャはどこの馬の骨とも分からぬ女だ。
どうせいい嫁は終了したのだ。夫とは極力会わないように生活しよう。家令には「できることがあれば声をかけて欲しい。回せる仕事は割り振って欲しい」と伝えてある。
その思いも虚しく、二日後には夫と会ってしまった。なんという遭遇率だろう。
いつもなら夫は絶対に家にいるはずのない時間であったし、怪我をしているのだから部屋で食事を摂るのだとばかり思っていたので、エルシャはダイニングルームで夫の姿を認めた瞬間足を止めていた。
夫も入って来たエルシャを認めて一瞬食事の手を止めたが、すぐに何でもないように振舞う。
記憶喪失になっても変わらない夫に苦笑しながら、エルシャが今更出て行くのも不自然なので離れた席で朝食を摂ることにした。
無言の空気がダイニングを支配する。
いい嫁を継続していたエルシャであれば、ここでも頑張って夫に話しかけていただろう。しかし、もうそんな無駄な努力はしない。
しばらく目の前の料理を美味しくいただき、夫の存在を忘れかけてうっかり顔を上げた。いつも一人で食事を摂っていたのと、あまりに音がしないものだから使用人と自分だけだと錯覚したのだ。
夫の朝食メニューは、利き腕を骨折しているため食べやすいように工夫されていた。
一口サイズのサンドイッチを食べる夫は、今までの所業があっても綺麗だった。もともと綺麗な顔立ちなのだ。腕を骨折していようが、足を捻挫していようが、記憶がなかろうが綺麗だ。
お飾りの契約妻など庇わなければ良かったのに。
そうしたらそんな難しい表情で利き腕ではない腕で、食事をしづらそうにしなくて良かったのに。
エルシャは視線を落として食事を再開しようとしたが、夫の口の端に食べカスがついているのを発見して衝撃を受けた。いつも完璧で弱点なんてありませんなんて気取っている夫が、である。これはあくまでエルシャから見た直近の夜会での夫の話だ。思いっきり夫の口の端を見てしまった。
エルシャは現在公爵夫人であるが、元は四人の弟妹がいる貧乏伯爵家の長女だ。弟や妹たちが小さい時に、ふくふくの頬に食べカスをつけていたことを思い出す。可愛かった、あれは。食べカスならまだいい方だ。口の周りをベタベタにしながら食べていて、エルシャはそれを頑張って拭いながら全員に食事を摂らせていたこともある。
あ、まずい。手が、手が震え始めた。なんでかしら。慌ててぎゅっとスカートを掴んで耐えるが、夫から目が離せない。こんなことは初めてだ。全然タイプじゃないのに。タイプどころかときめいたこともないのに。
夫はエルシャの鬱陶しい視線に気づいたらしい。一瞬だけ視線が絡んだものの、すぐに外された。エルシャとしては視線が合う・合わないはどうでもいい。ただ、あの食べカスもといパンくずが気になる。さらっと落としたい。どうしてあんな取れやすそうな位置にあるのに、ずっと食べカスは張り付いているのだろうか。
どうしよう、なんだか動悸がしてきた。手も震えているし。夫から目が離せないし。
私、おかしくなったのかしら。とにかく、あの食べカスを何とかしたい。
夫はサンドイッチを食べるのをやめて、今度はスープを飲み始める。やはり、利き腕ではないから飲みづらそうだ。給仕の使用人が介助を申し出たが、夫はさらりと断っている。
慣れない手つきで難しい表情をしながらスープを飲む夫。やっぱり目が離せないエルシャ。
視界に入る使用人が「奥様は大丈夫だろうか」という表情で先ほどから視線をチラチラ送ってくる。どうやら異様な雰囲気をエルシャは放ってしまっているようだ。手の震えは頑張って我慢しているが、夫から視線が逸らせない。夫はエルシャの方は頑なに見ようとしない。
夫がとうとうスープを口に含む寸前で零してしまった。
トマトをベースにした赤いスープがつぅっと夫の唇や白い肌に垂れる。なんだかこちらが恥ずかしくなる光景だった。思わず、エルシャはごくりと唾を飲み込んだ。
夫はナプキンですぐに口を拭くが、それを逃れた僅かなスープは首に伝っていた。しかも、食べカスはそのままだ。
あぁぁもう、我慢できない……!
エルシャは思わず立ち上がる。拍子にカランとエルシャのフォークが床に落ちた。びくりと使用人の肩が跳ねるが、フォークを振り返りもせずにエルシャは夫の元に早足で近付いた。
視線がまた絡み、夫の青い目が大きく開かれた。
こんなに近くで視線が合ったのは初めてかもしれない。
階段から落ちる原因となったご令嬢たちは、城で起きた事件なので王太子殿下によって処罰されるそうだ。王太子殿下と仲の悪い王弟殿下寄りの貴族たちだったのも影響している。
夫が帰って来てもエルシャの一日は変わらない。
庇ってもらったため手伝いはしようと思っていたが、夫の記憶が真っ白なのだからエルシャが側にいても怪訝な顔をされるだけだろう。妻だった時でさえ避けられていたのに、今の夫にとってエルシャはどこの馬の骨とも分からぬ女だ。
どうせいい嫁は終了したのだ。夫とは極力会わないように生活しよう。家令には「できることがあれば声をかけて欲しい。回せる仕事は割り振って欲しい」と伝えてある。
その思いも虚しく、二日後には夫と会ってしまった。なんという遭遇率だろう。
いつもなら夫は絶対に家にいるはずのない時間であったし、怪我をしているのだから部屋で食事を摂るのだとばかり思っていたので、エルシャはダイニングルームで夫の姿を認めた瞬間足を止めていた。
夫も入って来たエルシャを認めて一瞬食事の手を止めたが、すぐに何でもないように振舞う。
記憶喪失になっても変わらない夫に苦笑しながら、エルシャが今更出て行くのも不自然なので離れた席で朝食を摂ることにした。
無言の空気がダイニングを支配する。
いい嫁を継続していたエルシャであれば、ここでも頑張って夫に話しかけていただろう。しかし、もうそんな無駄な努力はしない。
しばらく目の前の料理を美味しくいただき、夫の存在を忘れかけてうっかり顔を上げた。いつも一人で食事を摂っていたのと、あまりに音がしないものだから使用人と自分だけだと錯覚したのだ。
夫の朝食メニューは、利き腕を骨折しているため食べやすいように工夫されていた。
一口サイズのサンドイッチを食べる夫は、今までの所業があっても綺麗だった。もともと綺麗な顔立ちなのだ。腕を骨折していようが、足を捻挫していようが、記憶がなかろうが綺麗だ。
お飾りの契約妻など庇わなければ良かったのに。
そうしたらそんな難しい表情で利き腕ではない腕で、食事をしづらそうにしなくて良かったのに。
エルシャは視線を落として食事を再開しようとしたが、夫の口の端に食べカスがついているのを発見して衝撃を受けた。いつも完璧で弱点なんてありませんなんて気取っている夫が、である。これはあくまでエルシャから見た直近の夜会での夫の話だ。思いっきり夫の口の端を見てしまった。
エルシャは現在公爵夫人であるが、元は四人の弟妹がいる貧乏伯爵家の長女だ。弟や妹たちが小さい時に、ふくふくの頬に食べカスをつけていたことを思い出す。可愛かった、あれは。食べカスならまだいい方だ。口の周りをベタベタにしながら食べていて、エルシャはそれを頑張って拭いながら全員に食事を摂らせていたこともある。
あ、まずい。手が、手が震え始めた。なんでかしら。慌ててぎゅっとスカートを掴んで耐えるが、夫から目が離せない。こんなことは初めてだ。全然タイプじゃないのに。タイプどころかときめいたこともないのに。
夫はエルシャの鬱陶しい視線に気づいたらしい。一瞬だけ視線が絡んだものの、すぐに外された。エルシャとしては視線が合う・合わないはどうでもいい。ただ、あの食べカスもといパンくずが気になる。さらっと落としたい。どうしてあんな取れやすそうな位置にあるのに、ずっと食べカスは張り付いているのだろうか。
どうしよう、なんだか動悸がしてきた。手も震えているし。夫から目が離せないし。
私、おかしくなったのかしら。とにかく、あの食べカスを何とかしたい。
夫はサンドイッチを食べるのをやめて、今度はスープを飲み始める。やはり、利き腕ではないから飲みづらそうだ。給仕の使用人が介助を申し出たが、夫はさらりと断っている。
慣れない手つきで難しい表情をしながらスープを飲む夫。やっぱり目が離せないエルシャ。
視界に入る使用人が「奥様は大丈夫だろうか」という表情で先ほどから視線をチラチラ送ってくる。どうやら異様な雰囲気をエルシャは放ってしまっているようだ。手の震えは頑張って我慢しているが、夫から視線が逸らせない。夫はエルシャの方は頑なに見ようとしない。
夫がとうとうスープを口に含む寸前で零してしまった。
トマトをベースにした赤いスープがつぅっと夫の唇や白い肌に垂れる。なんだかこちらが恥ずかしくなる光景だった。思わず、エルシャはごくりと唾を飲み込んだ。
夫はナプキンですぐに口を拭くが、それを逃れた僅かなスープは首に伝っていた。しかも、食べカスはそのままだ。
あぁぁもう、我慢できない……!
エルシャは思わず立ち上がる。拍子にカランとエルシャのフォークが床に落ちた。びくりと使用人の肩が跳ねるが、フォークを振り返りもせずにエルシャは夫の元に早足で近付いた。
視線がまた絡み、夫の青い目が大きく開かれた。
こんなに近くで視線が合ったのは初めてかもしれない。