さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
第二章 豹変した妻

1

 リヒターはその女性を見て、逃げなければいけないと本能で感じた。数日前に、見覚えもないのに妻だと紹介されたエルシャという女性から。

 なぜって彼女は鬼気迫る様子でリヒターのところに近付いてくるからだ。危害を加えられるに違いない。
 記憶喪失になって妻となった女性のことをすっかり忘れたからだろうか? それは仕方がない。だってこの約二年の記憶はすっぽり抜け落ちているのだから。
 そもそもリヒターは、彼女を庇って階段から落ちたらしい。意味が分からない。なぜ目の前のこの女を庇う必要があったのかさえも分からない。

 昨日、契約結婚の書類を家令から見せられたが本当に自分がこんなことを考えたのか疑った。これでは、金で彼女を買ったに等しいではないか。彼女の実家に援助をするから公爵夫人を演じろと言っているようなものだった。
 いくら女性が苦手でもこれは……。確かにパーティーで令嬢たちに群がられて大変だったが……そんなに二年前の自分は困っていたのか?

 慌てて立ち上がろうとして、怪我をしていたことをすっかり頭から飛ばしていて足の痛みに顔をしかめる。

 顔をしかめて視線を上げると、その女性はスカートをきつく握りしめながらもう目の前に立っていた。彼女の手は震えている。
 殴りたいのを我慢しているのだろうか。それともこれから罵詈雑言が飛んでくるのだろうか。

 思わず唾を飲み込んだ。
 彼女の腕が伸びてナプキンを掴む。
 あれを使って何かするのだろうか。首を絞めるには少々長さが足りないだろう。

 片足と片腕がいつものように使えないのと記憶を失っているのとで、彼女の動きを慎重に追うとナプキンをリヒターの首に押し付けてきた。急に距離を詰められたので思わず息が止まりかける。

 首からナプキンがすぐに離れて、今度は口を塞がれた。
 窒息でもさせるつもりだろうか。使用人の前だぞ? すぐ止められるのではないか? 恐る恐る彼女を見ると、とんでもなく笑顔でナプキンをリヒターの口から放したところだった。

「やっと取れました!」

 彼女はナプキンを放して、一番近くのイスにどっかり腰を下ろし今度はリヒターのスープの皿を手元に引き寄せた。ナプキンにはスープの色らしき赤がついている。

 夜会でワインをかける嫌がらせがあるそうだが、彼女はスープでそれをやるつもりだろうか。ちょうど赤いし。

 戦々恐々としながら見ていると、スープをすくって口元に差し出される。
 訳も分からず、スープと彼女を交互に見た。

「どうぞ!」

 ものすごい笑顔でぐいぐいスープの入ったスプーンを口元に押し付けられた。
 なんなんだ、この女は。書類上の妻であるらしいことは分かっているのだが。

 女性嫌いのリヒターでも分かる。パーティーで寄って来る女と目の前の彼女の違いくらいは。だって、彼女の目にはリヒターへのギラギラした好意がないのだ。爵位や金目当ての媚を含んだギラギラの光が。

 あまりにグイグイ押し付けられるのと、「飲め!」と言わんばかりの圧力がすごいので恐る恐る口を開ける。
 スプーンがするりと入って来て、続いてスープが口の中に入って来た。呼吸が合わずにスープが数滴垂れたが、それは彼女の手のひらの上に零れた。

「はい、どうぞ!」

 零したことを謝ろうとすると、さらにズズイとスプーンを口元に差し出された。なんという素早さでスープをすくったのか。

 リヒターは困って、一番近くに立っていた給仕を見た。しかし、給仕は明後日の方向を向いていて使い物にならない。
 今度は違う給仕を見たが、誰とも目が合わない。しかもダイニングの入り口に母と家令のリチャードが立っているのが見えた。二人ともコソコソと頭だけダイニングに入れている。

 付き合いの長い家令リチャードはリヒターに向かって深く深く頷いた。あの頷きはどういう意味なんだ?

 そして母は。手を口に当ててキラキラとした目でこちらを見ている。なんだ、あの期待したような目は。何を期待しているんだ。

「お腹いっぱいですか? 食べませんか?」

 目の前の妻という名の生物が心配そうに口を開いた。彼女はスープをすくったスプーンを手に持ったままだ。

「早く治すには栄養をたくさん摂らないと、めっですよ」

 なんだ? めっ? 何歳児扱いされているんだ?
 スプーンをグイグイ近付けてくるので、仕方なく口を開けてスープを飲む。それを微笑ましく見守る妻らしき女性。

 結局、そのままスープをすべて飲んでしまった。最後にまた妻らしき女性はナプキンでリヒターの口の周りを拭くと非常に満足げに立ち上がろうとした。リヒターは思わずその動きを目で追う。

 視線に気づいた彼女がリヒターを見た。彼女は髪こそどこにでもいそうな明るい栗色だが、目は綺麗なグリーンだった。そして、その目には相変わらずリヒターへのギラギラした好意や欲はない。

「? あ、他にも何か召し上がりますか? 執務室まで介助します?」

 ブンブンと首を横に振ると、彼女は満足げに食事を摂っていた席に戻って行った。彼女は食事の途中だったのだ。

 狐につままれた気分で、介助されて執務室まで戻る。
 なんなんだ、あの女は。

 引き出しに入っている契約結婚の書類を取り出してもう一度眺める。そして結婚前に行った彼女の調査書も。その日いくら書類を読んでも、彼女に関する記憶は戻らなかった。

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