【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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エルシャは朝食の続きを食べながらご機嫌だった。
手の震えも止まっている。
まさかの発見である。意外と夫は可愛かった。
弟や妹たちが無防備に小さな口を開き、与えた食事を食べる様子はとんでもなく可愛かったが、成人男性にも可愛いと思うなんて。
最初はやや抵抗して目には怯えが混じっていたものの、夫が薄い唇を開いてスープを飲み込み喉仏が上下していた様子を思い出す。食べカスもしっかり取れた。
どうして差し出した餌を食べている様子って可愛いのかしら。無防備だから? 信頼を感じるから?
スープを数滴零してしまった時の夫の動揺も可愛かった。わずかではあったが、明らかに「あ」という顔をして目には申し訳なさそうな色があった。
どんな時もクールな夫だと思っていたが、側で見ていたら意外と表情は豊かであった。
「奥様」
食事が終わるのを見計らったように家令のリチャードが声をかけてくる。
さすが公爵家の家令だけあって、モノクルをかけたロマンスグレーの隙のない男性だ。天井から一本の糸で吊られているかのようにピシリとした立ち姿。蓄えた白髭には気品しかない。
「旦那様への見舞いの手紙がたくさん届いておりまして返信をしなければなりません、しかし……」
あぁ、なるほど。夫はお城で怪我したから多くの人が知っているものね。
「旦那様は利き手が使えませんし、大奥様も本日指を痛めておられまして。お手伝いをいただけないでしょうか」
「え、お義母さまが?」
「はい。どうやら突き指のようです」
そうだったのか。突き指はしばらく痛いから、そんな義母に手紙を書かせるわけにはいかない。
「わかったわ。では、私の部屋に持ってきてくれる?」
「恐れながら。私も旦那様の側からなかなか離れられず……手紙も大量にありますので良ければ旦那様の執務室で業務を行っていただけないでしょうか」
「え、それは旦那様が嫌がるでしょう?」
「しかし……奥様の分からないことは聞いていただかないとなりませんし。それならば、旦那様の執務室で行っていただくのが奥様に逐一お手間もかけずに最も効率的かと」
やや縋るような視線を向けられる。
付き合いのある家には夫か義母かエルシャが手紙を書いた方がいいだろう。明らかな代筆では失礼だ。
しかし、場所が場所だ。今までエルシャを頑なに避け続けた夫の執務室。
朝食は調子に乗って、いや耐え切れずに介助してしまったが、あれはこれから一日会わないと思ったからであって……あ、いやそこまで考えてなかったわ。
「実は旦那様の介助ですが、私も歳のせいか腰にきております」
え、そんなにピシリと姿勢よく立っているのに?
「奥様にもお手伝いいただけると大変助かります。奥様はご家族が多いので慣れていらっしゃるご様子。あのまま無理に怪我した手足を酷使すれば治りも遅くなります。どうか」
家令に縋られてエルシャは承諾した。
案の定、夫の執務室に入ると夫はエルシャを見て固まった。そして手に持っていた書類を引き出しに隠して、ダイニングの時と同様に逃げようとした。怪我をしているのでそんなに素早く動けないから家令に止められている。
そんな夫の邪魔にならないよう、離れた机でエルシャは手紙を確認し始めた。
しばらく、夫の困惑したような雰囲気が流れていたがエルシャが何も話しかけずに黙々と手紙を書いているので何も言わないことにしたらしい。多分、置物だと思って諦めたのだろう。
昼食の時間になると、夫はどこかへ行った。
ダイニングに下りてみたがいなかった。あの手足の怪我では外出しないと家令が言っていたから、来客でもあるのだろうか。
昼食を食べ終わって、夫の執務室で手紙をひたすら丁寧に書く。なるべく優美な字を書かねばならない。
エルシャが手紙と格闘している最中に、夫が戻って来た。
チラリと見えた袖口にソースか何かがついている。あんなに近くにいるのだから家令が気付くだろうと思ってしばらく手の休憩とばかりに見ていた。
しかし、家令は老眼で気付いていないのか何も言わない。夫の手が書類に伸びたので慌ててエルシャは叫んだ。
「あぁぁ、待ってください!」
夫の手が大げさなほどビクリと震える。割と大声で叫んでしまったのに、家令は耳でも遠いのか大して驚いていない。
素早く夫の机に近付いて書類が汚れていないか確認する。セーフであった。
「旦那様、今すぐ脱いでください」
「……は?」
「袖口にソースがついているので書類にも付着します」
夫は言われて初めて利き手ではない方の腕を上げて見てハッとする。
「着替えをお持ちします」
「いや、まくってやるからいい」
夫の言葉もむなしく、家令はさっさと部屋から出て行ってしまった。
「放置すると汚れが落ちなくなるので着替えましょう」
こんなに白いシャツの汚れを放置していては大変だ。大事な書類に汚れが付いてしまうかもしれない。
エルシャは弟や妹を着替えさせるのと同様に、夫のシャツのボタンに手をかける。夫は緊張したようでまたびくりと体が跳ねた。
「はい、ばんざーいしてください。あ、間違えました。えっと、旦那様はそのままで。腕を怪我されてますからね。私がやります」
夫が訳も分からず「ばんざい?」と言いながら固まっている間にさっさとシャツを脱がすと、家令の持って来た替えのシャツを着せる。ついでに袖口は折っておいた。
「さぁ、綺麗になりました! これで汚れませんね!」
「素晴らしい手際でございますね、奥様」
達成感で夫に笑いかけてしまったが、返ってきたのは困惑気味の表情だった。家令が褒めてフォローしてくれる。
手紙が小山になっている机に戻って、エルシャは自分の心が高揚していることに気付いた。
あぁ、私ってそういえば。公爵夫人に急になってお勉強も忙しくて考える暇もなかったけど。
お世話されるよりする方が好きなのね! どうりで傅かれる公爵夫人は居心地が悪かったわけだわ!
手の震えも止まっている。
まさかの発見である。意外と夫は可愛かった。
弟や妹たちが無防備に小さな口を開き、与えた食事を食べる様子はとんでもなく可愛かったが、成人男性にも可愛いと思うなんて。
最初はやや抵抗して目には怯えが混じっていたものの、夫が薄い唇を開いてスープを飲み込み喉仏が上下していた様子を思い出す。食べカスもしっかり取れた。
どうして差し出した餌を食べている様子って可愛いのかしら。無防備だから? 信頼を感じるから?
スープを数滴零してしまった時の夫の動揺も可愛かった。わずかではあったが、明らかに「あ」という顔をして目には申し訳なさそうな色があった。
どんな時もクールな夫だと思っていたが、側で見ていたら意外と表情は豊かであった。
「奥様」
食事が終わるのを見計らったように家令のリチャードが声をかけてくる。
さすが公爵家の家令だけあって、モノクルをかけたロマンスグレーの隙のない男性だ。天井から一本の糸で吊られているかのようにピシリとした立ち姿。蓄えた白髭には気品しかない。
「旦那様への見舞いの手紙がたくさん届いておりまして返信をしなければなりません、しかし……」
あぁ、なるほど。夫はお城で怪我したから多くの人が知っているものね。
「旦那様は利き手が使えませんし、大奥様も本日指を痛めておられまして。お手伝いをいただけないでしょうか」
「え、お義母さまが?」
「はい。どうやら突き指のようです」
そうだったのか。突き指はしばらく痛いから、そんな義母に手紙を書かせるわけにはいかない。
「わかったわ。では、私の部屋に持ってきてくれる?」
「恐れながら。私も旦那様の側からなかなか離れられず……手紙も大量にありますので良ければ旦那様の執務室で業務を行っていただけないでしょうか」
「え、それは旦那様が嫌がるでしょう?」
「しかし……奥様の分からないことは聞いていただかないとなりませんし。それならば、旦那様の執務室で行っていただくのが奥様に逐一お手間もかけずに最も効率的かと」
やや縋るような視線を向けられる。
付き合いのある家には夫か義母かエルシャが手紙を書いた方がいいだろう。明らかな代筆では失礼だ。
しかし、場所が場所だ。今までエルシャを頑なに避け続けた夫の執務室。
朝食は調子に乗って、いや耐え切れずに介助してしまったが、あれはこれから一日会わないと思ったからであって……あ、いやそこまで考えてなかったわ。
「実は旦那様の介助ですが、私も歳のせいか腰にきております」
え、そんなにピシリと姿勢よく立っているのに?
「奥様にもお手伝いいただけると大変助かります。奥様はご家族が多いので慣れていらっしゃるご様子。あのまま無理に怪我した手足を酷使すれば治りも遅くなります。どうか」
家令に縋られてエルシャは承諾した。
案の定、夫の執務室に入ると夫はエルシャを見て固まった。そして手に持っていた書類を引き出しに隠して、ダイニングの時と同様に逃げようとした。怪我をしているのでそんなに素早く動けないから家令に止められている。
そんな夫の邪魔にならないよう、離れた机でエルシャは手紙を確認し始めた。
しばらく、夫の困惑したような雰囲気が流れていたがエルシャが何も話しかけずに黙々と手紙を書いているので何も言わないことにしたらしい。多分、置物だと思って諦めたのだろう。
昼食の時間になると、夫はどこかへ行った。
ダイニングに下りてみたがいなかった。あの手足の怪我では外出しないと家令が言っていたから、来客でもあるのだろうか。
昼食を食べ終わって、夫の執務室で手紙をひたすら丁寧に書く。なるべく優美な字を書かねばならない。
エルシャが手紙と格闘している最中に、夫が戻って来た。
チラリと見えた袖口にソースか何かがついている。あんなに近くにいるのだから家令が気付くだろうと思ってしばらく手の休憩とばかりに見ていた。
しかし、家令は老眼で気付いていないのか何も言わない。夫の手が書類に伸びたので慌ててエルシャは叫んだ。
「あぁぁ、待ってください!」
夫の手が大げさなほどビクリと震える。割と大声で叫んでしまったのに、家令は耳でも遠いのか大して驚いていない。
素早く夫の机に近付いて書類が汚れていないか確認する。セーフであった。
「旦那様、今すぐ脱いでください」
「……は?」
「袖口にソースがついているので書類にも付着します」
夫は言われて初めて利き手ではない方の腕を上げて見てハッとする。
「着替えをお持ちします」
「いや、まくってやるからいい」
夫の言葉もむなしく、家令はさっさと部屋から出て行ってしまった。
「放置すると汚れが落ちなくなるので着替えましょう」
こんなに白いシャツの汚れを放置していては大変だ。大事な書類に汚れが付いてしまうかもしれない。
エルシャは弟や妹を着替えさせるのと同様に、夫のシャツのボタンに手をかける。夫は緊張したようでまたびくりと体が跳ねた。
「はい、ばんざーいしてください。あ、間違えました。えっと、旦那様はそのままで。腕を怪我されてますからね。私がやります」
夫が訳も分からず「ばんざい?」と言いながら固まっている間にさっさとシャツを脱がすと、家令の持って来た替えのシャツを着せる。ついでに袖口は折っておいた。
「さぁ、綺麗になりました! これで汚れませんね!」
「素晴らしい手際でございますね、奥様」
達成感で夫に笑いかけてしまったが、返ってきたのは困惑気味の表情だった。家令が褒めてフォローしてくれる。
手紙が小山になっている机に戻って、エルシャは自分の心が高揚していることに気付いた。
あぁ、私ってそういえば。公爵夫人に急になってお勉強も忙しくて考える暇もなかったけど。
お世話されるよりする方が好きなのね! どうりで傅かれる公爵夫人は居心地が悪かったわけだわ!