【11月5日書籍発売】さようなら、私の白すぎた結婚~契約結婚のキレイな終わらせ方~
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リヒターはイライラしていた。
執務室に居座る異物である、書類上の妻に。
朝から彼女にペースを乱されているので、昼食は絶対に邪魔されないように隠れて食べる羽目になった。なにが悲しくて公爵である自分がこんなにコソコソしないといけないのか。
しかし、あの女はさらに危険だった。
昼食から戻ると、あの女はやたらとこちらを見てきた。殺気がこもっていると言ってもいい強い視線だ。あれは絶対に好意ではない。
袖口についていたソースが原因だったが、あの女は嬉々としてリヒターの服を脱がせて着替えさせた。ボタンに平気で手をかけていて、素肌が見えたはずなのに顔を赤らめもせず、やけに慣れた手つきだった。嫌らしい手つきでもなかったが、調査書には男性との付き合いは一切ないと書いてあった。本当なのか?
記憶がないのがもどかしい。なんであんな女と契約結婚なんてしたんだ? 全く意味が分からない。いや、あの女が金銭援助目的ということは分かっているが……それならなぜ私の執務室で仕事を手伝っているんだ? そんなことは契約内容に入っていない。公爵夫人として最低限つとめてくれればいいだけなのに。
援助のほかに公爵夫人としての金も渡しているのだから、適当に出かけるなりなんなりすればいいのに。
イライラして執務室でのあの女の存在をないものと扱っていたが、やはり目に入るとペースを乱されるので追い出そうとするが巧妙に家令リチャードに止められる。
「大奥様は手を怪我されていらっしゃいますし、旦那様のお仕事を手伝ってくださっているのです。そもそも、旦那様は奥様をご令嬢たちから庇って怪我をされたのですよ? 奥様は責任を感じていらっしゃるのです。仕事も溜まっていますし、いいではありませんか」
なぜ庇ったかも覚えていないのに? いや、いくら女性が嫌いでも目の前で傷ついたり、死んだりしていいということにはならない。庇ったのは妻だからではない。普通のことで常識の範囲内だ。
しかし、結果はこのザマだ。利き腕と片足が使えないとこんなにも不便だとは。
「それに、奥様の家に契約結婚を持ち掛けたのは旦那様です。この家から追い出すことなどお考えになりませんよう」
ぼんやり考えていたことにもしっかり釘を刺された。
「金銭援助が目的なら、こちらから慰謝料を大目に払えばいいだろう」
正論を返したはずなのに「人の心はあるのですか?」という視線を返された。
「記憶が戻ってから考えても良いのではないでしょうか。どのみち奥様と離婚したところで、またご令嬢方が押しかけてくるだけですので」
家令リチャードの言うこともっともで、黙るしかなかった。
「食べにくいからもう少し細かく切ってくれないか」
あの女相手にコソコソするのも面倒で、料理人にも手間をかけるので仕方なく夕食はダイニングに向かった。
「申し訳ございません。料理人が手を痛めたようで」
リヒターの目の前には普段よりもやや大ぶりに切られた肉がある。一口で入れるには大きい。給仕に頼むと申し訳なさそうに断られた。今朝から手の怪我が多くないか? 確か母も突き指だとか。
それならと給仕に頼むと、なぜか恐縮して震えている。どこの新人だ? もう勤めて長いだろうに。
給仕がリヒターから視線を外して、顔を輝かせた。
なんだか、嫌な予感がする。
執務室から出てきた時はまだあの女は手紙の最終確認をしていたところだったはず。
「私がやります!」
どこの活気のある店だ、と突っ込みたくなるような明るい声が側で聞こえた。
嫌な予感が体中に張り付いたまま、反対側に首を向ける。
なんだ、その手は。
両手の指をワキワキと怪しく動かしながら、書類上の妻が思いのほか近くに立っていた。思わずのけぞったが、彼女の目は爛々としている。
「奥様、どうかよろしくお願いします! 私は肉を切るのが世界で一番苦手なのです!」
お前が決めるな。それに肉も切れなくてどうする。
そう言おうとしたが、母がダイニングルームの入り口でチラチラ頭をのぞかせながらこちらを見ているのに気付き、口をつぐんだ。
母の仕業か。あの人は孫が欲しいと嘆いていたからな。では、突き指も料理人が手を痛めたというのも全部嘘だな。
リヒターが黙っていると、書類上の妻はさっさと側に座って肉を切り分けて口元に差し出してくる。そこまで頼んでいない。
「自分で食べる。あなたの分の料理が冷めるだろう」
「大丈夫です、公爵邸のお料理は冷めてもとっても美味しいので!」
この女、会話が通じないのか? 空気を読め。貴族だろう。
「これお好きですよね。さぁ、どうぞ!」
確かにこの肉料理は好物だ。口元に押し付けられ、腹が減っていたので嫌々食べる。
この女を撃退するまでにどれほどの時間がかかるか分からない。この押しの強さである。「めっ」だの「ばんざーい」だのまたおかしなことを言われてもストレスだ。
結局あの女は最後までリヒターに食べさせ、自分の分は後回しにしていた。
このおかしな女を一体どこで見つけてきたのか。
食事をさせたら満足!とばかりに離れて行った書類上の妻を見て、首をかしげたくなる。
振り回され続けたからか、夜は嫌な夢を見た。
亡くなる前の父の夢だ。
リヒターが「父なんて死ねばいい」と思ってしまったから、やっぱり父は死んだのだろうか。
夢はあの日、リヒターが目撃したあの場面から始まった。
「大丈夫だ、君のことは私が何とかする。家を用意しよう」
「旦那様……」
泣くメイドの肩に手を添えてさする父。距離が近すぎる。リヒターはあの日、自慢だったはずの父を初めて汚いと思った。
執務室に居座る異物である、書類上の妻に。
朝から彼女にペースを乱されているので、昼食は絶対に邪魔されないように隠れて食べる羽目になった。なにが悲しくて公爵である自分がこんなにコソコソしないといけないのか。
しかし、あの女はさらに危険だった。
昼食から戻ると、あの女はやたらとこちらを見てきた。殺気がこもっていると言ってもいい強い視線だ。あれは絶対に好意ではない。
袖口についていたソースが原因だったが、あの女は嬉々としてリヒターの服を脱がせて着替えさせた。ボタンに平気で手をかけていて、素肌が見えたはずなのに顔を赤らめもせず、やけに慣れた手つきだった。嫌らしい手つきでもなかったが、調査書には男性との付き合いは一切ないと書いてあった。本当なのか?
記憶がないのがもどかしい。なんであんな女と契約結婚なんてしたんだ? 全く意味が分からない。いや、あの女が金銭援助目的ということは分かっているが……それならなぜ私の執務室で仕事を手伝っているんだ? そんなことは契約内容に入っていない。公爵夫人として最低限つとめてくれればいいだけなのに。
援助のほかに公爵夫人としての金も渡しているのだから、適当に出かけるなりなんなりすればいいのに。
イライラして執務室でのあの女の存在をないものと扱っていたが、やはり目に入るとペースを乱されるので追い出そうとするが巧妙に家令リチャードに止められる。
「大奥様は手を怪我されていらっしゃいますし、旦那様のお仕事を手伝ってくださっているのです。そもそも、旦那様は奥様をご令嬢たちから庇って怪我をされたのですよ? 奥様は責任を感じていらっしゃるのです。仕事も溜まっていますし、いいではありませんか」
なぜ庇ったかも覚えていないのに? いや、いくら女性が嫌いでも目の前で傷ついたり、死んだりしていいということにはならない。庇ったのは妻だからではない。普通のことで常識の範囲内だ。
しかし、結果はこのザマだ。利き腕と片足が使えないとこんなにも不便だとは。
「それに、奥様の家に契約結婚を持ち掛けたのは旦那様です。この家から追い出すことなどお考えになりませんよう」
ぼんやり考えていたことにもしっかり釘を刺された。
「金銭援助が目的なら、こちらから慰謝料を大目に払えばいいだろう」
正論を返したはずなのに「人の心はあるのですか?」という視線を返された。
「記憶が戻ってから考えても良いのではないでしょうか。どのみち奥様と離婚したところで、またご令嬢方が押しかけてくるだけですので」
家令リチャードの言うこともっともで、黙るしかなかった。
「食べにくいからもう少し細かく切ってくれないか」
あの女相手にコソコソするのも面倒で、料理人にも手間をかけるので仕方なく夕食はダイニングに向かった。
「申し訳ございません。料理人が手を痛めたようで」
リヒターの目の前には普段よりもやや大ぶりに切られた肉がある。一口で入れるには大きい。給仕に頼むと申し訳なさそうに断られた。今朝から手の怪我が多くないか? 確か母も突き指だとか。
それならと給仕に頼むと、なぜか恐縮して震えている。どこの新人だ? もう勤めて長いだろうに。
給仕がリヒターから視線を外して、顔を輝かせた。
なんだか、嫌な予感がする。
執務室から出てきた時はまだあの女は手紙の最終確認をしていたところだったはず。
「私がやります!」
どこの活気のある店だ、と突っ込みたくなるような明るい声が側で聞こえた。
嫌な予感が体中に張り付いたまま、反対側に首を向ける。
なんだ、その手は。
両手の指をワキワキと怪しく動かしながら、書類上の妻が思いのほか近くに立っていた。思わずのけぞったが、彼女の目は爛々としている。
「奥様、どうかよろしくお願いします! 私は肉を切るのが世界で一番苦手なのです!」
お前が決めるな。それに肉も切れなくてどうする。
そう言おうとしたが、母がダイニングルームの入り口でチラチラ頭をのぞかせながらこちらを見ているのに気付き、口をつぐんだ。
母の仕業か。あの人は孫が欲しいと嘆いていたからな。では、突き指も料理人が手を痛めたというのも全部嘘だな。
リヒターが黙っていると、書類上の妻はさっさと側に座って肉を切り分けて口元に差し出してくる。そこまで頼んでいない。
「自分で食べる。あなたの分の料理が冷めるだろう」
「大丈夫です、公爵邸のお料理は冷めてもとっても美味しいので!」
この女、会話が通じないのか? 空気を読め。貴族だろう。
「これお好きですよね。さぁ、どうぞ!」
確かにこの肉料理は好物だ。口元に押し付けられ、腹が減っていたので嫌々食べる。
この女を撃退するまでにどれほどの時間がかかるか分からない。この押しの強さである。「めっ」だの「ばんざーい」だのまたおかしなことを言われてもストレスだ。
結局あの女は最後までリヒターに食べさせ、自分の分は後回しにしていた。
このおかしな女を一体どこで見つけてきたのか。
食事をさせたら満足!とばかりに離れて行った書類上の妻を見て、首をかしげたくなる。
振り回され続けたからか、夜は嫌な夢を見た。
亡くなる前の父の夢だ。
リヒターが「父なんて死ねばいい」と思ってしまったから、やっぱり父は死んだのだろうか。
夢はあの日、リヒターが目撃したあの場面から始まった。
「大丈夫だ、君のことは私が何とかする。家を用意しよう」
「旦那様……」
泣くメイドの肩に手を添えてさする父。距離が近すぎる。リヒターはあの日、自慢だったはずの父を初めて汚いと思った。