反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~

10

 ドラクロアとギデオンから逃れたら、自由があると信じていた。
 ドラクロアから逃れても、ギデオンは追ってきた。ギデオンは殺したけどスタンリーの心はもうエーファにはなかった。
 エーファだけが命を懸けて約束を守ろうとしていただけだった。エーファの心の中にあった自由と愛なんて幻想でしかなかった。

 愛が執着に変わったのか、もとから執着だったのか、最初から愛ですらなかったのか。認めたくない。これまでのエーファのすべての人生を否定される気がするから。

 情けなくて泣きたくなった。少しでも下を見たら泣く、妙な自信がある。
 リヒトシュタインの手を見たら涙が零れそうだったので、まっすぐ前を見ながら手を借りた。若干思っていた位置と手を置いた位置がずれたが不自然ではないはず。

「もう出て行くのか?」
「はい」
「新しい身分証くらいなら用意できる。スタンリー・オーバンとは異なる勤務地にもできるし、君の領地からも遠いところにもできるんだが残らないのか。せっかく命懸けで帰ってきたのだし」
「私の顔を知っている人もいるでしょう。私がドラクロアに連れて行かれたことはあまりにも知られています。それに、愛がない男にもう用はありません」
「女性はいざとなると思い切りがいいな。男性ならメソメソして決められない。さっきのスタンリー・オーバンのように」

 局長はいろいろ質問してくるものの、大して興味はなさそうだ。この人が今最大に興味があるのはリヒトシュタインだけだ。

「エーファ。あの人間とちゃんと話し合った方がいいんじゃないか」

 後ろからエーギルの戸惑った声が聞こえる。振り返ると、彼は予想よりも神妙な顔をしていた。さっきまで舌打ちしていたからもっと怒っているのかと思ったのに。

「エーギルがそんなこと言うなんて意外。セレンの恋人を殺して、セレンの足を折ったのに」
「だから、だ。ちゃんと会話していればあんなことは起こらなかったかもしれない」
「でも、エーギルはセレンが誰かと体の関係まで持っていたら許さなかったはずよ。そうでしょ? 番が他の誰かと関係を持っていたら嫌じゃない」

 話し合ってもどうせ憎しみしか出てこない。エーギルは視線を彷徨わせてから目を伏せた。それが彼の答えでエーファのものと同じ。
 良かった、これ以上説明が要らなくて。エーファは正直、息を吸うのも億劫なほど疲れていた。魔法をたくさん使ったせいもあるが精神的な要因も大きい。地面につけた足もすでに重い。

「そんな相手をどう信頼するの? どうやって許すの。私は許せない。もし表面上で許したとしても絶対にいつか浮上してくる。心から許せる日は来ない。彼は私のことを私と同じくらい愛してないって疑い続けなきゃいけない」

 もしこの先スタンリーと一緒にいて喧嘩した時、あるいは疑わしいことが起きた時、必ず私は今日のことを蒸し返す。

 ギデオンに殺されておいて欲しかった、番だったらこんなことが起きなかったなんて思ってしまったくらいだ。あんなにギデオンも番も嫌いだったのに。そうしたらこんな思いをしなくて済んだのに。

「今からでも殺しておこうか?」
「別に、いい。エーギルがわざわざそんなことをする価値はないから」

 物騒だが、話し合いを促すよりもエーギルらしい。どうでもいいと手を振ると、視界が回った。なぜか目の前にリヒトシュタインの顎のラインがある。

「くだらない話は終わったか」

 妙な浮遊感。肩に当たるしっかりした感触。リヒトシュタインに横抱きにされている。

「くだらなくはないけど、もう終わった」
「じゃあ、イーリスを見に行こう」
「疲れてるから寒い場所に行きたくない」

 何を言い出すのかと視界に入ったリヒトシュタインの黒く長い髪を引っ張るが、ツルツルサラサラなのが確認できただけだった。

「虹の谷は寒くない。そこに行くまでが寒いだけだ」
「やっぱり寒いんでしょ。寒いのは嫌い」
「セミが珍しくジタバタせずに落ち込んでいるからな。瀕死なのか? 寒いと死ぬのか」
「当たり前でしょ。私は命を懸けたのが無駄で独りよがりだったって知ったんだから」
「エーファのせいではない。何かに命を懸けた者は敬意を表されるべきだ。セミだって命懸けで鳴いている」
「いい加減、セミ扱いはやめてくれる?」

 横抱きにされたまま言い合いをするが、体勢と同じで自分の心に安定感がないので以前のように会話ができていない気がする。

「セミの鳴き声には風情がある」

 エーファは疲れて大きくため息をついた。反論する元気もない。立って歩いて出て行く気力もないのでリヒトシュタインに体を預けたままにしておいた。さすがに落とされることはなさそうだ。

「イーリスの花畑は母に見せられなかったからな。ちょうどいいから代わりにエーファに見せよう」

 セミの話さえなければ、今の言葉が最初に来ていたならすぐ頷いたのに。
 だがほんの少しだけ気が楽になったので頷いて目を瞑った。
 愛についてもう考えたくなかった。セミ扱いなのか、リヒトシュタインの気遣いなのか。どちらにしろ何かに全力で寄りかかりたかった。それが今はリヒトシュタインであるだけだ。
< 102 / 132 >

この作品をシェア

pagetop