反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~
2
ルカリオンを説得しに行こうと決めていたその日に、エーファは起き上がれなかった。リヒトシュタインに手を持ってもらって起き上がる。
「体が熱いぞ」
「どうりで。頭痛い。気持ち悪い」
「珍しいな」
ドラクロアに来てから体調を崩したことなどなかった。崩している暇などなかったという方が正しいか。いや、これまでだってあまり体調を崩すことはなかった。
リヒトシュタインの手が額に当たる。
「熱い。今日は寝ておけ」
「ん~」
再度ベッドに横たわる。
「何か欲しいものはあるか」
「お水くらいかな」
目を開けていると天井が回るので目を閉じる。リヒトシュタインがしばらく側にいた気配がしたが、うとうと眠ってしまった。
疲れていたのか最悪な夢を見た。スタンリーに裏切られた時の夢だった。
***
体調を崩したエーファを初めて見た。母はほぼずっと体調が悪かったが、エーファの弱弱しい姿を見るのは珍しい。虹の谷に連れて行った時くらいではないだろうか。
「……ス、タンリー」
水と果物をもらって部屋に帰ってくるとエーファの呟きが聞こえて、リヒトシュタインは思わず足を止めた。
スタンリーとは、嘘つきで情けない男の名前ではなかったか。
遠目で確認すると、エーファは眠ったまま難しそうな顔をして上掛けを掴んでいる。険しい顔に安堵してテーブルにそれらを置いた。汗をかいているだろうと濡らしたタオルを絞ってから近付く。
「んんっ」
うなされているらしい。首を何度か振って枕に広がった黒髪も一緒について乱れる。その様子をぼんやりと追ってしまった。我に返ってタオルを額に当てて滲んだ汗を拭う。
「こんなに近くにいるのに、遠く感じるのはどうしてだろうか」
エーファは単純な性格のはずなのによく分からない。表情にすぐ出るから何を考えているか分かりやすいはずなのに、それでもよく分からない時が多々ある。
彼女が母の側に座って無理矢理話を合わせているのを見ていた時の方が、エーファのことをよく分かっていた気がする。
「エーファのことはよく分からない」
近付くとわずかに彼女の体は震える。キスしようとすると、毎回怯えたようにまつ毛が震えてやがて諦めたように目を閉じる。
命懸けで愛せと番紛いを飲ませて生きながらえさせたくせに、愛されることを最も恐れているのはエーファだ。
「ん……スタンリー」
また、嘘つきで情けない男の名前を呼んだ。思わず強く首筋の汗を拭うと、うめき声を上げてエーファが目を開けた。
「ん……」
「悪い。目が覚めたか」
タオルを見せるために手を上げると、いつもよりも弱弱しい様子で腕を伸ばしてきた。
「どうした」
「のど乾いた。腰痛い」
「水と果物ならもらってきた」
「食べる」
「持ってくるか?」
両手を伸ばしたまま首を振るので、抱えあげた。やけに素直に体を預けて来る。
テーブルまで連れて行きながら、ふと頭を過ぎる。嘘つきで情けない男にもこんな姿を見せたのだろうか、と。面白くない。
ぼんやりした顔をしているので、膝の上に抱えたまま水を飲ませる。普段なら膝の上に乗せると緊張するのに、今日はそんなことはなくぐったり体重を預けてくる。
「あれ食べたい」
オレンジを指差すので、剥いて口元まで持っていくと素直に口を開けた。
「やな夢見た」
オレンジが咀嚼されて喉が上下するのを見ていると、エーファが怠そうに話す。
「うなされていた」
「今度は叩いてでも起こして」
「いつも俺を叩いているのはエーファだが」
催促してくるので、オレンジをさらに口元に持っていく。口を開けて何のためらいもなく食べる様子に思わず笑う。
「なに」
「可愛い」
エーファのグレーの目が途端に呆れを含んだ。エーファが何か言おうとしたが、その前にまたオレンジを口元に持っていくと大人しく食べた。
「やっぱり可愛い」
エーファはムッとしたようでリヒトシュタインの胸元に顔を隠した。口をすりつけているので、オレンジの果汁を服で拭っているのだろう。顔を離したエーファはいたずらが成功したような顔をしている。
「そんなことをしても余計に可愛いだけだ」
肩にぷすっと指が突き付けられた。
「また眠るからベッドに運んで」
「仰せの通りに」
口調はしっかりしてきたが、エーファの体はまだいつもより熱い。平気で腕を首に回してくるので抱えあげてベッドまで運ぶと、エーファは礼も言わずにさっさと横になって目を閉じた。
「薬は飲まなくていいのか」
「傷薬しかない」
竜人のための解熱剤など存在しないので、エーファに飲ませる薬がない。人間はすぐ薬を飲むものだ。母のために父は取り寄せていた。
「寝てれば治る。ちょっと疲れただけ」
根性で治す気だろうか。少しの間悩んでいると、すぐにエーファは寝息を立て始めた。
エーファのことは本当によく分からない。いつもはふてぶてしく、リヒトシュタインの手など不要とばかりに一人で強がって突っ立っているのに。そして近付くと震える癖に、今日のような日には平気で甘えてくる。ニセモノの番だと言っていた癖に。
番ったのに分からないことが増えるなど、どうかしている。体温も髪の匂いも見えないほくろの位置も知ったのに、まだ分からないことがある。
エーファの目にリヒトシュタインへの熱がほとんどないのは知っている。あるのは、生意気にも見えるほどの意志の強さと自由の渇望、そして愛と裏切りへの恐怖。
彼女は想像もしないのだろう。何十年も生きている竜人が、噓つきで情けない男への嫉妬で身を焦がしていることなど。
番紛いを飲まされる前から、彼女は平気でリヒトシュタインの心の中に入り込んできた。母以外でリヒトシュタインに深く関わる唯一の人だった。あの時の彼女はいつもセミみたいに必死で、命を燃やして生きていた。
知らなかった。世界で最も孤独を感じた瞬間は母が亡くなった時だと思っていた。全く違った。彼女の隣にいて、彼女の心が見えない時にこんなに孤独を感じるなど知らなかった。一人でいる時ではなく、二人でいる時に孤独を感じるなんて。知らなかったんだ。
「体が熱いぞ」
「どうりで。頭痛い。気持ち悪い」
「珍しいな」
ドラクロアに来てから体調を崩したことなどなかった。崩している暇などなかったという方が正しいか。いや、これまでだってあまり体調を崩すことはなかった。
リヒトシュタインの手が額に当たる。
「熱い。今日は寝ておけ」
「ん~」
再度ベッドに横たわる。
「何か欲しいものはあるか」
「お水くらいかな」
目を開けていると天井が回るので目を閉じる。リヒトシュタインがしばらく側にいた気配がしたが、うとうと眠ってしまった。
疲れていたのか最悪な夢を見た。スタンリーに裏切られた時の夢だった。
***
体調を崩したエーファを初めて見た。母はほぼずっと体調が悪かったが、エーファの弱弱しい姿を見るのは珍しい。虹の谷に連れて行った時くらいではないだろうか。
「……ス、タンリー」
水と果物をもらって部屋に帰ってくるとエーファの呟きが聞こえて、リヒトシュタインは思わず足を止めた。
スタンリーとは、嘘つきで情けない男の名前ではなかったか。
遠目で確認すると、エーファは眠ったまま難しそうな顔をして上掛けを掴んでいる。険しい顔に安堵してテーブルにそれらを置いた。汗をかいているだろうと濡らしたタオルを絞ってから近付く。
「んんっ」
うなされているらしい。首を何度か振って枕に広がった黒髪も一緒について乱れる。その様子をぼんやりと追ってしまった。我に返ってタオルを額に当てて滲んだ汗を拭う。
「こんなに近くにいるのに、遠く感じるのはどうしてだろうか」
エーファは単純な性格のはずなのによく分からない。表情にすぐ出るから何を考えているか分かりやすいはずなのに、それでもよく分からない時が多々ある。
彼女が母の側に座って無理矢理話を合わせているのを見ていた時の方が、エーファのことをよく分かっていた気がする。
「エーファのことはよく分からない」
近付くとわずかに彼女の体は震える。キスしようとすると、毎回怯えたようにまつ毛が震えてやがて諦めたように目を閉じる。
命懸けで愛せと番紛いを飲ませて生きながらえさせたくせに、愛されることを最も恐れているのはエーファだ。
「ん……スタンリー」
また、嘘つきで情けない男の名前を呼んだ。思わず強く首筋の汗を拭うと、うめき声を上げてエーファが目を開けた。
「ん……」
「悪い。目が覚めたか」
タオルを見せるために手を上げると、いつもよりも弱弱しい様子で腕を伸ばしてきた。
「どうした」
「のど乾いた。腰痛い」
「水と果物ならもらってきた」
「食べる」
「持ってくるか?」
両手を伸ばしたまま首を振るので、抱えあげた。やけに素直に体を預けて来る。
テーブルまで連れて行きながら、ふと頭を過ぎる。嘘つきで情けない男にもこんな姿を見せたのだろうか、と。面白くない。
ぼんやりした顔をしているので、膝の上に抱えたまま水を飲ませる。普段なら膝の上に乗せると緊張するのに、今日はそんなことはなくぐったり体重を預けてくる。
「あれ食べたい」
オレンジを指差すので、剥いて口元まで持っていくと素直に口を開けた。
「やな夢見た」
オレンジが咀嚼されて喉が上下するのを見ていると、エーファが怠そうに話す。
「うなされていた」
「今度は叩いてでも起こして」
「いつも俺を叩いているのはエーファだが」
催促してくるので、オレンジをさらに口元に持っていく。口を開けて何のためらいもなく食べる様子に思わず笑う。
「なに」
「可愛い」
エーファのグレーの目が途端に呆れを含んだ。エーファが何か言おうとしたが、その前にまたオレンジを口元に持っていくと大人しく食べた。
「やっぱり可愛い」
エーファはムッとしたようでリヒトシュタインの胸元に顔を隠した。口をすりつけているので、オレンジの果汁を服で拭っているのだろう。顔を離したエーファはいたずらが成功したような顔をしている。
「そんなことをしても余計に可愛いだけだ」
肩にぷすっと指が突き付けられた。
「また眠るからベッドに運んで」
「仰せの通りに」
口調はしっかりしてきたが、エーファの体はまだいつもより熱い。平気で腕を首に回してくるので抱えあげてベッドまで運ぶと、エーファは礼も言わずにさっさと横になって目を閉じた。
「薬は飲まなくていいのか」
「傷薬しかない」
竜人のための解熱剤など存在しないので、エーファに飲ませる薬がない。人間はすぐ薬を飲むものだ。母のために父は取り寄せていた。
「寝てれば治る。ちょっと疲れただけ」
根性で治す気だろうか。少しの間悩んでいると、すぐにエーファは寝息を立て始めた。
エーファのことは本当によく分からない。いつもはふてぶてしく、リヒトシュタインの手など不要とばかりに一人で強がって突っ立っているのに。そして近付くと震える癖に、今日のような日には平気で甘えてくる。ニセモノの番だと言っていた癖に。
番ったのに分からないことが増えるなど、どうかしている。体温も髪の匂いも見えないほくろの位置も知ったのに、まだ分からないことがある。
エーファの目にリヒトシュタインへの熱がほとんどないのは知っている。あるのは、生意気にも見えるほどの意志の強さと自由の渇望、そして愛と裏切りへの恐怖。
彼女は想像もしないのだろう。何十年も生きている竜人が、噓つきで情けない男への嫉妬で身を焦がしていることなど。
番紛いを飲まされる前から、彼女は平気でリヒトシュタインの心の中に入り込んできた。母以外でリヒトシュタインに深く関わる唯一の人だった。あの時の彼女はいつもセミみたいに必死で、命を燃やして生きていた。
知らなかった。世界で最も孤独を感じた瞬間は母が亡くなった時だと思っていた。全く違った。彼女の隣にいて、彼女の心が見えない時にこんなに孤独を感じるなど知らなかった。一人でいる時ではなく、二人でいる時に孤独を感じるなんて。知らなかったんだ。