反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~

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 セイラーン側もこの音は予想外だったようだ。皆、思わずといった形で音の発生源である後方を振り返る。

 エーファは彼らより先に音の正体を見ていた。呆けかけたものの、すぐに足を動かして首に刃がほぼ食い込んでいる隊長に手を伸ばす。風魔法で移動させたら隊長の首が切れるかもしれないから使えない。

 相手の手足は凍らせていたものの、接近に気付いた年かさの兵士が抵抗して隊長に刃を近付けようとする。思わずエーファは刃を素手でつかんだ。

 他の兵士が放った矢を結界が弾く音がする。

「隊長を離してっ!」

 なんという腕力だろう。エーファは身体強化をかけており、相手の手足は凍っているのに刃は隊長の首付近から動かない。
 結界を張り直す余裕がないので、周囲の兵士に向かって氷魔法を適当に放った。

「なぜ! ドラクロアの味方をする」

 名前も知らない年かさの兵士は口元を震わせながら、隊長を離そうとしない。

 エーファとしてはドラクロアの味方であるわけではない。ハンネス隊長は助けたいとか、ミレリヤには危ない目に遭って欲しくないいとか。ルカリオンに流された形だが、エーファのそういった自己中心的な願望があるだけだ。そしてオウカにはあまり恩を感じていないのも大きい。

「あなたこそ何でさっさとドラクロアに攻め込まなかったの。もっと早く来ていればオウカは殺されなかったかもしれないのに!」

 オウカの元婚約者はスタンリーとは違うとさっきは考えた。でも、結局彼の行動は間に合っていない。オウカは死んだ、それが事実だ。
 余裕がないので先生という敬称もつけずに叫ぶと、彼の腕の力が少し緩んだ。その隙をついてハンネス隊長のモサモサした重い体を奪い取るが、同時に結界が割れる音がした。

 ハンネス隊長の重さで体が引っ張られそうになりながら、腕を大きく振った。使わないように注意していた火魔法だ。

 エーファたちのところに走って向かってきていたセイラーンの兵士が火にのまれるのが見えた。焦げる異臭がして魔物とは違うそれに、エーファは一瞬怯んだ。
 多くの魔物やギデオンは殺した。でも、人間を魔法で殺したのは初めてだった。

 唇を引き結んでもう一度腕を振ろうとすると、乾いた音が響いて木の上にいた兵士が落下した。そして青い何かが視界に走る。エーファが認識できた頃には、エーギルが片手で矢を掴んでいた。

 知らないうちに詰めていた息を吐いた。また彼に庇われたようだ。

「うえー、エーギル。もういい加減にして、そんな捨て身のやり方」
「小さい怪我ならすぐ再生する」
「だーかーらー、自己犠牲やめてってば。見てるだけで痛々しいから」

 やや高めの声が上から降ってくるのと同時に銃声が響いて、残っていたセイラーンの兵士たちが次々に倒れていく。上空にいたのは銃を構えたカナンで、ぽいっと何かを投げてよこした。エーギルが受け取ると隊長を拘束していた年かさの兵士に向ける。カナンが投げてよこしたのは銃だった。

「待って。殺す前に情報を聞き出して!」

 兵士の手足はエーファが凍らせたままだが、何とか動かそうと抵抗して震えている。

「なぜ」
「なぜって。いろいろ聞くことあるでしょ、魔物の数とか。どうして今侵攻したかとか」
「魔物は大方目途がついた。後ろのセイラーンの軍勢はリヒトシュタイン様が吹き飛ばしたから魔物と森に入って来た兵士たちに我々は集中できる」
「それは分かってるけど。この匂いを吸った人がどうやれば治るかとか」
「研究班がすでに始めている」
「そうだけど……少しでも分かったら対策が早いでしょ」
「どうせ後で尋問する」

 空を悠々と舞う黒い竜と軍勢を飲み込む大きな竜巻。竜巻は現在セイラーンの方向へ向かって行く。見た時は幻かと思って呆けかけた。リヒトシュタインのあれほど大掛かりな魔法は初めて見たが、彼ほど魔力量が豊富なら可能だろう。

「ははっ。はははは」

 兵士が急に壊れたように笑い出した。エーギルが再度銃を突きつけるが彼はひるまずに笑い続ける。

「ドラクロアに、この戦いで勝てるとは思っていない。だが、近い将来ドラクロアは滅びるだろう」

 笑いすぎたのか息が切れている。

「ブラックバードも調教したが、まさか竜人にまっすぐ向かって行くとは。薬のせいで恐怖心がなくなったのか、竜の幼体を好む本能なのか」
「エーギル。面倒だからもうそいつここで殺してよ。勝ったも同然でしょ」

 カナンは上空から周囲を警戒しながら軽々しく言う。

「教えてくれ。殿下は、私のことを何と?」

 兵士の琥珀色の目がエーファをまっすぐ見つめていた。

「さっきお伝えした通りです。心は婚約者に渡した、と。きっとあなたをマキシムス伯爵から守るために最後の最後にしか口にされなかったのだと思います」
「殿下は……本当は殺されたのか?」
「先に私の質問に答えてください。なぜもっと早く侵攻しなかったんですか」

 エーギルが横から咎めるような視線を送ってくる。

「殿下からの情報をもとにした魔物の調教が間に合わなかった。そして今撒いている粉もだ。これは殿下の願いだ。これ以上、誰もドラクロアのせいで被害者が出ないように」

 兵士は存外すらすら答えてくれた。

「粉は番と似たような匂いなんですか?」
「人間には分からない匂いだ。人間よりも鼻のいい種族にのみ効くようにしてある。一定量以上嗅げば酩酊状態に陥り、解毒剤を飲ませない限り症状はそのままだ」

 なんだ。オウカは番紛いについて教えろと言っておきながらすでにそんな開発を進めていたのか。粉の開発が遅れていたから番紛いについて知りたがったのかもしれない。

 エーファはハンネス隊長の状態が気になってちらりと確認した。

「そのハイエナはこれだけ撒いたのに珍しく動いていた。だから粉を付着させた矢を放った。直接体内に取り込ませれば簡単に効いた。この方法が一番良かったのかもしれないが矢が届く距離まで近づく必要があるから危険だな」
「嘘……」

 ハンネス隊長は解毒剤を飲ませるまでこのままってこと? このままで死なない?

「解毒剤は?」
「さぁな。人間には全く効果がないからそれほど作っていないんじゃないか。人間の血が少しでも入ったドラクロア人に効いていないのは、残念だ」
「じゃあ……今回は軍勢を引き連れてこずに魔物と、この粉を撒くだけで良かったじゃないですか」
「そんなことでこれまでの憎しみがおさまるのか? オウカ殿下の遺体も返してもらえず、勝手に燃やしたと言われ遺品の一つさえない扱いだ。挙句の果てにあのゾウ獣人とは違う獣人が性懲りもなくセイラーンにやって来て、自分の番だと主張して既婚女性をドラクロアに連れ去ろうとしたのに?」

 事の発端がオウカの遺体の返却以外にもあったと聞き、うんざりしてエーギルに視線を移すと「ライオン獣人だろう」と呟かれた。

「殿下は自ら犠牲になった。セイラーンを守るために。だが、殿下に対してあのような仕打ちを……力があれば何をしてもいいのか。婚約者のいる人間を、すでに結婚している人間を番だと攫うように連れて行っていいのか。それなら、我々が憎しみをもってこの国に侵攻するくらいどうってことはない。おかしな粉を使って獣人の大半が狂おうと我々には何の問題もない」

 皮肉だ。ドラクロアが他国に対してこれまでしてきたことが何倍かになって返ってきたのだ。
 エーファみたいにギデオンから逃げて、追ってこられたから仕方なく殺したという規模ではない。しかもこの場にいるのがエーギルとカナン、そしてエーファであるのも皮肉だ。

「調教したブラックバードが真っ先に竜人を攻撃したことだけは誤算だった。竜人さえ出てこなければ軍に大きな被害はなかったが……ここまで竜人が出てくるのが遅いなら、竜人にも粉は効いたようだな。朗報だ」

 頭上がバサバサと騒がしくなる。鳥人たちが集まってきていた。顔見知りだったカラスの鳥人の姿も見える。
 兵士も空を見てから、穏やかに笑った。もう凍った手足を動かそうとはしていない。

「オウカ先生は反抗したので伯爵に殺されました。伯爵のことを愛したことなどないと明言したからかもしれません」
「……君はドラクロアが憎くないのか」

 鳥人たちが続々と地面に下り立つ中で、穏やかな表情の兵士はエーファをまっすぐに見つめる。

「私を番だと言っていた獣人は殺しましたから。今は私を信じて待っていてくれなかった元婚約者と、簡単に私をドラクロアに渡した家族が憎いです。少なくとも、あなたはオウカ先生を信じていたんですね。そこだけは羨ましいです」

 今日エーファは選択を何個間違ったのか、いくつ正しかったのかもわからない。エーファの立場ならセイラーンに味方していても良かったはず。

 恩のあるハンネス隊長を助けるように動いたことも、どうにかして隊長を奪い返そうとしたことも。セイラーンに投降しなかったことも。
 今日のことを後悔したくなかった。リヒトシュタインに番紛いを飲ませたことと、今日のことだけは正しいと信じたい。

「各国に今日セイラーンが行うことは知らせてある。戦闘不能な獣人たちが多い中で今日のことを知った他国が攻めてきたら、いよいよドラクロアは滅びるだろう。そうなったら私は……やっと殿下にあの世で顔向けできる。愛の被害者をこれ以上出さなくていいのだから」

 兵士の言葉で鳥人たちに緊張が走った。皆あり得ないほどの角度で首を回して兵士を見ている。

「振り回されるな。早く連れて行って尋問しろ。医療班もまだ来ないならハンネス隊長も運べ」

 エーギルが急かして、皆再び動き始める。
 顔見知りの鳥人もいるのにドラクロアでは死んだはずのエーファのことを誰も奇異の目で見ないので、エーギルが説明しているのかもしれない。

 ハンネス隊長が運ばれていくのを見送ってからやっと緊張が解ける。エーファは軽く咳き込んだ。

 口に当てていた手を何気なく見ると、血がべっとりついていた。
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