反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~

10

 呆然と手のひらを見る。
 どこか怪我をしていただろうかと体を見回すが何も異常はない。

「エーファ。俺たちも戻るぞ」
「あ、うん。ねぇ、私どこか怪我してない?」

 近付いてきたエーギルに尋ねると、彼は全身を眺めてから怪訝な顔をした。

「顔に……」
「何かついてる?」
「それは鱗か?」
「え?」
「目の下のあたりだ」

 血のついていない方の手で顔を触ってみても分からない。

「あれ?」

 手の甲に見覚えのないゴミのようなものが目に入る。
 何かついたのかと思って払ったが取れない。しかもゴミではない。黒い鱗のようだ。爪でひっかいても簡単に取れず、皮膚の一部のようになっている。

「え、剥がれない。何これ」

 ドクンと心臓が掴まれたように痛くなる。胸も押しつぶされたように痛くなった。何かが内部から上がって来て思わず咳き込んだ。口に当てた手に先ほどよりもべっとり血がついて、驚いて手とエーギルを交互に見遣る。エーギルもギョッとした表情だ。

「お、落ち着け。一体何が……血を吐いてるのか? 矢でも刺さったのか? まさか毒?」

 怪我はしていないはずなのに。混乱しながらまた咳き込んで血が出た。真っ青になったエーギルに両肩を掴まれる。彼の手が震えているのか、自分の体が震えているのかも分からない。

 喉に血が引っかかって上手くしゃべれないので、エーギルに向かって怪我はしていないはずだと必死に首を横に振った。毒でも吸ったのだろうか。でもエーファに効くなら同じところにいたセイラーンの兵士たちにも症状が出ていたはず。

「エーファ!」

 エーギルの視線がエーファから上に移動する。
 その声を聞いた時にエーギルに支えられながら深く安堵した。この数カ月毎日聞いていた声だ。いつもはありがたみを感じないのに僅かな時間を離れただけでこんなに嬉しい。

 声のした方向を振り返る。体を動かしたことでまた血が口の端から出てきた。さらにせり上がって来る感覚に耐え切れずに再度ゲホッと吐いてしまう。今度は土が血に染まった。

 こちらに向かって飛んでくるリヒトシュタインの姿を見て、口を拭いながら安心したと同時にエーファは後悔した。先ほど後悔したくないと思ったばかりなのに後悔した。
 彼のあんな表情を見たかったわけではないのに。リヒトシュタインは珍しく焦った表情をしていた。あれほど表情を変えた彼を見たことがない。

 番紛いを彼に飲ませてしまったことをエーファはたった今、本気で後悔した。

 あなたにそんな顔をさせるつもりは決してなかった。そう伝えたい。
 彼の名前を呼びたいが、ぼたぼた血ばかりが出てきて肝心の言葉が出ない。番紛いを飲ませていなければ、なぜ起こっているのか分からないエーファのこの状態に対してリヒトシュタインがこんな反応をしなかったはずだから。

 スタンリーとの恋愛は終わり方以外に痛みは全くなかった。小さい頃から一緒にいてお互いのことをよく知っていて気楽で、たまの喧嘩以外感情の起伏なんてほとんどなく、恋愛で感情が揺り動かされて愚かにそして弱くなることなんてなかった。

 リヒトシュタインとの関係は全然違う。彼のことを大して知らないのに番紛いを使ってしまった。一緒にどれほど過ごしても彼はつかみどころがないし、全然分かった気がしない。

 また誰かを愛してしまうのは怖かった。裏切られて絶対に後悔するから。
 どうせニセモノの番でリヒトシュタインに本当は私は必要ないのではないかと頭をよぎるのも怖くて心が痛かった。

 ほら、もうこんなに後悔してる。こんな状況で気付きたくなかった。自分が誰かに縋ってこんなに弱くて愚かな存在になり果てるなんて。

「エーファ!」

 きっと彼は母親とエーファを重ねているのだろう。
 こんな風に血を吐いて弱弱しい死にそうな姿を見せて、彼をどれほど傷つけてしまうか。彼にどれほど嫌な記憶を思い出させてしまうだろうか。そういえば、スタンリーの時はこんなこと考えなかった。

 エーギルに支えられて立っている状態だったが、リヒトシュタインに思い切り手を伸ばす。

 言葉を発しようとしてまた血に阻まれた。
 血を吐きながら最後の言葉のように何か言われたら、彼は受け入れざるを得なくなってしまうから喋れなくてもいいだろう。

「一体何が……どこかに怪我が……」

 地面に下り立った彼が伸ばした手を握ってくれた。
 彼の少しひんやりする体温を感じて、エーファは人生で一番自分が嫌いになりそうだった。リヒトシュタインが泣きそうになっていて、その原因が自分だからだ。

 口を押えながらもう片手で彼に縋りつく。
 一生気付かないでいれば良かった。一体どうしてこのタイミングなのか。

 愛しているなんて言ってはいけない。重くなるから。
 あなたに会いたかったくらいは言ってもいいだろうか。無能な女だと思われないだろうか。でも、その前に彼の名前を呼びたい。

 この状況で会いたいと思ったのはスタンリーじゃなかった。
 命を懸けて愛して欲しいという無茶苦茶な願いをリヒトシュタインに言った覚えがある。でも、命を懸けなければ愛が分からないのはエーファの方だった。スタンリーとの関係はやっぱり愛ではなかった。

 必死に名前を呼ぶ彼の声を聞きながら、視界が暗くなった。
 もしも次に目を覚まして彼にまた会えたなら、その時は名前を呼びたい。
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