反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~
9
喋るなんて、やけに生々しい幻だ。エーファは何度か瞬きした。
その間にリヒトシュタインはエーファの片手を押さえつける。さらに顔が近づいてきて、唇が塞がれる。感触まで生々しい。でも、幻ならエーファの好きにしていいはずだ。
押さえられていない自由な片手を彼の首の後ろに添える。しばらく目も閉じずにキスをして、やっとリヒトシュタインが離れた。走馬灯の割にはいつもよりリヒトシュタインに余裕がない。
「幻の割に妙に生々しいんだけど」
走馬灯でも見たい記憶はあまりない。スタンリーや家族のことも思い出したくない。ギデオンのことなんて言わずもがな。となると見るのはリヒトシュタインとの記憶か。
幻の割にはキスで息が苦しいので、思わず再度近付いてくる彼の胸元をゆっくり押し返す。
「現実だからな」
「どういうこと?」
会話もしっかりできるのか。そこで初めて体の違和感に気付いた。魔力の流れがこれまでと違う。血を吐いた時はもっと、いろんな場所に抵抗を感じたはずだ。
「何、これ」
しかも手の甲に浮き出ていたはずの鱗がない。動揺するエーファをよそにリヒトシュタインは首筋に顔を寄せてキスを続ける。
「ちょっと! くすぐったい」
「そう、その反応だ」
なぜか嬉しそうにリヒトシュタインは顔を上げる。彼の髪の毛を引っ張って、頬をつまむ。どうやら幻ではないらしい。
「一体、何をしたの。私の魔力の流れがおかしいし、そもそも死にかけてたはず」
「おかしくはない。俺の魔力に対抗しようとして最近エーファの魔力量は増えていた。それで衝突が起きやすくなったのが今はスムーズになっただけだ。俺の心臓を半分、エーファに渡したからな」
「はい?」
理解が出来ず、彼の頬から手を放した。リヒトシュタインはさっさとエーファの胸に耳を寄せる。
「ちょっと!」
「良かった。きちんと鼓動している」
耳を胸に当てたまま安心したように深く息を吐くので、エーファはそれ以上の抗議の言葉を飲み込むしかなかった。彼の頭の重みを胸で感じながら、しばらくお互いの息遣いだけが聞こえる。
何なのだ、この恥ずかしい訳の分からない状況は。そもそも心臓を半分渡したって? 魔力で人間の心臓が耐え切れないから? 心臓を半分? 一体リヒトシュタインは何を考えているのか。
「先代王妃が資料を見つけてきた。昔、死にかけた仲良しの人間を助けるために心臓を半分差し出した竜の話を」
「心臓半分差し出したら死ぬんじゃない?」
「それには他の竜人の助けが必要だった。失敗していたら死んでいた。アヴァンティアが俺の心臓を取り出してオレンジ髪の竜人に限界まで治癒魔法を使わせたから、兄がそれはそれは怒っている。後で謝らなければいけない」
「オレンジ髪……オルタンシア様ね」
エーファが考え込んで抗議しないのをいいことに、胸に耳を当てたままリヒトシュタインの手が腰を撫でたので叩く。
「寝込んでいた割に元気だな」
「そうじゃなくて。そもそも、どうして心臓なんて差し出したの」
「そうしたかったからだ」
「バカじゃないの。死ぬかもしれなかったし、心臓半分にしたらいろいろ不便でしょ」
「エーファが死んだら俺もすぐ死ぬくらいだな。逆もそうだ。何せもともとは一つの心臓だったから。どちらかが動きを止めたらもう一つの心臓も止まる。殺されたらもう一方も死ぬ」
悔しくて唇を噛んだ。どうして目の前のこの竜人は、心臓を半分差し出すのが普通であるかのように話しているのか。エーファのことなんて見殺しにすれば良かったのに。
リヒトシュタインにはもう傷ついて欲しくなどなかったのに。彼の心も体も。
「リヒトシュタインはいくらでも……何百年でも生きられるでしょ。私が死んでも。私だけ死なせたら良かったのに」
やっとリヒトシュタインが胸から耳を離した。彼は起き上がってエーファの頬をゆっくり撫でる。まるで壊れ物のように扱われているので非常に居心地が悪い。
「俺に一人で生きろと言うのか」
「他の竜人に番紛い飲ませたらいいじゃない。そうしたら一人じゃない。でも、人間相手はやめてよね」
「俺の番は酷い女だ。一緒に生きろと裏切るなと俺に番紛いを飲ませて、俺の魔力のせいで血を吐いて失明しながらも俺の番で良かったと言い、さっきは俺に触れて誘惑しながらもっと一緒に生きたいと言ったその口で見殺しにして他を見繕えと」
「だって、仕方がないでしょ」
至近距離にある金色の目を精一杯睨む。周囲はリヒトシュタインの黒髪で覆われていて、またあの時の感覚と同じだ。番紛いをリヒトシュタインに飲ませた時のように、世界に二人だけのような錯覚を起こしそうだ。
「私は未来を全く考えずにあなたに番紛いを飲ませてしまった。自分の方が先に死ぬだろうとか、魔力の衝突で血を吐くなんて何にも考えずに。でも、あんなことが起きて結局番紛いを飲ませた。だから、あなたにはもう傷ついて欲しくなかった。エリス様の時のように傷ついて欲しくなかったのに」
「俺はエーファが死にかけただけで傷ついた。俺も死にたくなるほど。エーファが俺の世界からいなくなると思ったら世界の色が全部消えるくらいに」
唇を無意識に噛んでいたらしい。リヒトシュタインの指が頬から顎に移動すると顔をそむけることもできずにまたキスされた。こんな好き勝手にキスされるのは組み敷かれているようなこの体勢が悪い。
息が上がりかけたところでやっと離れる。
「死にたかったのか」
「死ぬと思ったから、あなたに愛してるって伝えなかった。伝えたらリヒトシュタインを縛ってしまうと思ったから」
「俺にあれほど縋りついておきながら、縛りたくはないのか。いつもニセモノの番だとしか言わなかったから、もっとその言葉を聞きたかった」
死の間際にいる時は簡単に素直になれた。目が見えなくてもあれが最後かもしれないと感じたから。でも、今はまた訳が分からない。
黙ってリヒトシュタインの鎖骨を撫でる。すると耳の後ろに触れられて思わず体が跳ねた。
この妙に真剣で艶めかしい空気とこの体勢はマズイ。絶対にリヒトシュタインに流される。
「私たち、全然ロマンチックじゃない。殺せって言ってみたり、心臓を半分にしてみたり」
「命を懸けて愛してくれと言ったのはエーファだ」
「心臓半分差し出せなんて言ってない!」
「いい加減、俺を信用できたか。俺にはこれが命懸けの選択だった。最後まで裏切らないでほしいとエーファは言った」
「それでも……心臓まで差し出すなんて。裏切らないでっていうのは私が死んでから新しい人探してって意味だったのに。私のために心臓半分も差し出すなんてバカのやることよ、本当にバカ。なんで自分を犠牲にしたの。そんなことして欲しくなかった。私のために傷ついて欲しくなかったのに」
リヒトシュタインの服を掴んで引き寄せて顔を埋める。泣きそうだから顔を見られたくない。またブスって言われるに違いない。
「それは俺を愛してると言ってるのか?」
「言ってない」
「言葉では言っていないが、言葉から感じるエネルギーはそう聞こえるが」
「耳がおかしいんじゃないの」
今度は起き上がろうとリヒトシュタインの胸を強く押し返したが、びくともしない。しかも彼が笑っている気配がある。
「もう俺の心臓の半分はエーファに渡してしまった。戻すのは無理だ」
「私にくれたなら心臓返せって脅しても返さないから」
「返せと言う気はない。俺の願いは俺をもう一人にしないでほしいということだ。これなら確実にエーファと一緒に生きて一緒に死ねる。エーファに死んでほしくなかった」
リヒトシュタインが上からどく。きっと今エーファの顔は赤いはずだ。リヒトシュタインと視線を合わさないように起き上がって乱れた服を直す。
「そういえば、私の心臓はどうしたの?」
「見るか? 保存してあるがすでに影響が出ていたからあまり状態はよくない」
「見たら吐くかもしれないから後にする」
「そうか」
抱き上げられて膝の上に乗せられた。顔を見られたくないのに、顎を掴まれてリヒトシュタインの方を向かされる。
「それで? エーファは俺と一緒に生きてくれるのか? 俺をもう一人で孤独にしないのか?」
「心臓半分私に入れといてそれを聞くの?」
「エーファだって俺にやったことだ。いや、そもそも番紛いを騙して飲ませて俺に決断しろと命令した。だから今度はエーファが俺に応える番だ」
反論したいが、心当たりが大いにあるのでできない。何から言えばいいのか分からず口を少し開いて、すぐ閉じる。リヒトシュタインは急かすわけでもなく黙って待っているが、頬や耳を撫でるので集中できない。
リヒトシュタインが死を願った時、エーファは彼に死んでほしくないと思った。エーファが血を吐いた時はリヒトシュタインに会いたいと願った。
「全て預けると言いながら実際に差し出したのが心臓半分では俺のことが信じられないか?」
緩く首を横に振って、リヒトシュタインに触れて心臓がある位置を探し当てた。鼓動を手のひらでしばらく感じる。
「また裏切られるのが怖かった」
「知っている」
リヒトシュタインはエーファの髪を触って耳にかけ、顎のラインを辿る。彼の指は冷たいはずなのに触れられたところは熱を持っている。
「まだ怖いか?」
「怖くない」
「ならいい」
「リヒトシュタインは後悔しない? 私に心臓を渡したこと」
「しない。あんな思いはもう二度したくない」
リヒトシュタインは言い切るとエーファの手を勝手に取ってまた唇を寄せる。
「どうした。大人しいな」
「病み上がりどころか死にかけてたみたいだから」
金色の目がエーファを見た。まだ視線を合わせられない。相変わらず、勝手なキスは続いている。
「俺をもう一人にしないと誓ってくれ」
エーファは体が震えたのかと思った。でも、心も一緒に震えたようだった。
リヒトシュタインの言葉の響きが、エーファの「命懸けで愛して」と「裏切らないで」と言ったあの時と共鳴した。
「なぁ、俺が愛を乞うてはいけないのか? 心臓の半分を捧げて、一人にしないでくれとみっともなく縋って一緒に生きてくれと愛を乞うてはいけないのか?」
「そうじゃ、なくって」
なかなか声が出せないエーファに向かって、リヒトシュタインは拗ねた口振りだ。
「俺に愛を出し惜しみしていないか。エーファはケチだな。エーファが死にかけて俺はあれほど絶望したのに。これはエーファが始めた俺との物語じゃないのか」
「リヒトシュタインだって合意したでしょ」
「狼煙を上げたのはエーファだ」
金色の目とやっと視線が合った。口調は拗ねていたのに、恐ろしいほど真剣な光が宿っている。もう、誤魔化すことはできなかった。
「何があっても、リヒトシュタインをもう一人にしない」
リヒトシュタインが無言でエーファの指に彼の指を絡めてくる。
「だってもうリヒトシュタインは私の一部なんだから」
絡めた指をほどいて背筋を伸ばし、リヒトシュタインの首に片手を回す。自然とエーファが彼を見下ろす形になった。もう片手は彼の心臓の位置を撫でる。
結局、二人だけの同じ痛みを分かち合うことになった。リヒトシュタインは死のうとして、エーファは死にかけた。二人とも死が近づかないと分からなかった。でも、その度にお互いの下した決断は同じだった。
リヒトシュタインに顔を近付ける。金色の目が面白がるように光って、すぐに閉じた。
「痛っ」
「キスが驚くほど下手くそだ」
勢い余って歯が当たった。口を覆って身を引く。リヒトシュタインは肩を震わせて笑った。
「本当にムードがないな」
「わざとじゃないんだけど」
「これからいくらでも機会はある」
口を覆った手を引っ張られる。拗ねて尖らせた唇になだめるようなキスが降ってきた。愛していると口にするのは簡単で、でも難しい。今もリヒトシュタインに「愛している」と言おうか迷ったが、その言葉はそぐわない気がした。
想像していたよりも愛を得る過程はさっきのキスみたいにみっともなかった。むしろお互い死にかけた。
「もし私が逃げても追いかけてくれるんでしょ?」
「俺をどれだけみっともない竜人にしたいんだ。今回のように俺はエーファだけは諦めるつもりはない」
「愛している」の響きよりもこっちの言葉の方がエーファには嬉しかった。
「リヒトシュタインがまた死にたがっても死なせてあげないから」
「もう死にたくなる予定はない。そもそも死ぬ時は一緒だ」
「だから、心臓は大切にして。私と同じくらい自分を大切にして。大切にしないなら私がもらうから」
「それはいいな。だがエーファは俺の歯を大切にしてくれ。キスのたびに当たっていたらいよいよ折れそうだ」
歯は折れるわけないという抗議はキスで飲み込まれて言わせてもらえなかった。
ドラクロアに連れてこられてからこんな結末になるなんて、ひとかけらも考えていなかった。
どのくらい時間が経過したのか、部屋に夕陽が差し込んでいる。その茜色がこれまで見たどの色よりも美しいのを確認してからリヒトシュタインの胸に頭を完全に預けた。
その間にリヒトシュタインはエーファの片手を押さえつける。さらに顔が近づいてきて、唇が塞がれる。感触まで生々しい。でも、幻ならエーファの好きにしていいはずだ。
押さえられていない自由な片手を彼の首の後ろに添える。しばらく目も閉じずにキスをして、やっとリヒトシュタインが離れた。走馬灯の割にはいつもよりリヒトシュタインに余裕がない。
「幻の割に妙に生々しいんだけど」
走馬灯でも見たい記憶はあまりない。スタンリーや家族のことも思い出したくない。ギデオンのことなんて言わずもがな。となると見るのはリヒトシュタインとの記憶か。
幻の割にはキスで息が苦しいので、思わず再度近付いてくる彼の胸元をゆっくり押し返す。
「現実だからな」
「どういうこと?」
会話もしっかりできるのか。そこで初めて体の違和感に気付いた。魔力の流れがこれまでと違う。血を吐いた時はもっと、いろんな場所に抵抗を感じたはずだ。
「何、これ」
しかも手の甲に浮き出ていたはずの鱗がない。動揺するエーファをよそにリヒトシュタインは首筋に顔を寄せてキスを続ける。
「ちょっと! くすぐったい」
「そう、その反応だ」
なぜか嬉しそうにリヒトシュタインは顔を上げる。彼の髪の毛を引っ張って、頬をつまむ。どうやら幻ではないらしい。
「一体、何をしたの。私の魔力の流れがおかしいし、そもそも死にかけてたはず」
「おかしくはない。俺の魔力に対抗しようとして最近エーファの魔力量は増えていた。それで衝突が起きやすくなったのが今はスムーズになっただけだ。俺の心臓を半分、エーファに渡したからな」
「はい?」
理解が出来ず、彼の頬から手を放した。リヒトシュタインはさっさとエーファの胸に耳を寄せる。
「ちょっと!」
「良かった。きちんと鼓動している」
耳を胸に当てたまま安心したように深く息を吐くので、エーファはそれ以上の抗議の言葉を飲み込むしかなかった。彼の頭の重みを胸で感じながら、しばらくお互いの息遣いだけが聞こえる。
何なのだ、この恥ずかしい訳の分からない状況は。そもそも心臓を半分渡したって? 魔力で人間の心臓が耐え切れないから? 心臓を半分? 一体リヒトシュタインは何を考えているのか。
「先代王妃が資料を見つけてきた。昔、死にかけた仲良しの人間を助けるために心臓を半分差し出した竜の話を」
「心臓半分差し出したら死ぬんじゃない?」
「それには他の竜人の助けが必要だった。失敗していたら死んでいた。アヴァンティアが俺の心臓を取り出してオレンジ髪の竜人に限界まで治癒魔法を使わせたから、兄がそれはそれは怒っている。後で謝らなければいけない」
「オレンジ髪……オルタンシア様ね」
エーファが考え込んで抗議しないのをいいことに、胸に耳を当てたままリヒトシュタインの手が腰を撫でたので叩く。
「寝込んでいた割に元気だな」
「そうじゃなくて。そもそも、どうして心臓なんて差し出したの」
「そうしたかったからだ」
「バカじゃないの。死ぬかもしれなかったし、心臓半分にしたらいろいろ不便でしょ」
「エーファが死んだら俺もすぐ死ぬくらいだな。逆もそうだ。何せもともとは一つの心臓だったから。どちらかが動きを止めたらもう一つの心臓も止まる。殺されたらもう一方も死ぬ」
悔しくて唇を噛んだ。どうして目の前のこの竜人は、心臓を半分差し出すのが普通であるかのように話しているのか。エーファのことなんて見殺しにすれば良かったのに。
リヒトシュタインにはもう傷ついて欲しくなどなかったのに。彼の心も体も。
「リヒトシュタインはいくらでも……何百年でも生きられるでしょ。私が死んでも。私だけ死なせたら良かったのに」
やっとリヒトシュタインが胸から耳を離した。彼は起き上がってエーファの頬をゆっくり撫でる。まるで壊れ物のように扱われているので非常に居心地が悪い。
「俺に一人で生きろと言うのか」
「他の竜人に番紛い飲ませたらいいじゃない。そうしたら一人じゃない。でも、人間相手はやめてよね」
「俺の番は酷い女だ。一緒に生きろと裏切るなと俺に番紛いを飲ませて、俺の魔力のせいで血を吐いて失明しながらも俺の番で良かったと言い、さっきは俺に触れて誘惑しながらもっと一緒に生きたいと言ったその口で見殺しにして他を見繕えと」
「だって、仕方がないでしょ」
至近距離にある金色の目を精一杯睨む。周囲はリヒトシュタインの黒髪で覆われていて、またあの時の感覚と同じだ。番紛いをリヒトシュタインに飲ませた時のように、世界に二人だけのような錯覚を起こしそうだ。
「私は未来を全く考えずにあなたに番紛いを飲ませてしまった。自分の方が先に死ぬだろうとか、魔力の衝突で血を吐くなんて何にも考えずに。でも、あんなことが起きて結局番紛いを飲ませた。だから、あなたにはもう傷ついて欲しくなかった。エリス様の時のように傷ついて欲しくなかったのに」
「俺はエーファが死にかけただけで傷ついた。俺も死にたくなるほど。エーファが俺の世界からいなくなると思ったら世界の色が全部消えるくらいに」
唇を無意識に噛んでいたらしい。リヒトシュタインの指が頬から顎に移動すると顔をそむけることもできずにまたキスされた。こんな好き勝手にキスされるのは組み敷かれているようなこの体勢が悪い。
息が上がりかけたところでやっと離れる。
「死にたかったのか」
「死ぬと思ったから、あなたに愛してるって伝えなかった。伝えたらリヒトシュタインを縛ってしまうと思ったから」
「俺にあれほど縋りついておきながら、縛りたくはないのか。いつもニセモノの番だとしか言わなかったから、もっとその言葉を聞きたかった」
死の間際にいる時は簡単に素直になれた。目が見えなくてもあれが最後かもしれないと感じたから。でも、今はまた訳が分からない。
黙ってリヒトシュタインの鎖骨を撫でる。すると耳の後ろに触れられて思わず体が跳ねた。
この妙に真剣で艶めかしい空気とこの体勢はマズイ。絶対にリヒトシュタインに流される。
「私たち、全然ロマンチックじゃない。殺せって言ってみたり、心臓を半分にしてみたり」
「命を懸けて愛してくれと言ったのはエーファだ」
「心臓半分差し出せなんて言ってない!」
「いい加減、俺を信用できたか。俺にはこれが命懸けの選択だった。最後まで裏切らないでほしいとエーファは言った」
「それでも……心臓まで差し出すなんて。裏切らないでっていうのは私が死んでから新しい人探してって意味だったのに。私のために心臓半分も差し出すなんてバカのやることよ、本当にバカ。なんで自分を犠牲にしたの。そんなことして欲しくなかった。私のために傷ついて欲しくなかったのに」
リヒトシュタインの服を掴んで引き寄せて顔を埋める。泣きそうだから顔を見られたくない。またブスって言われるに違いない。
「それは俺を愛してると言ってるのか?」
「言ってない」
「言葉では言っていないが、言葉から感じるエネルギーはそう聞こえるが」
「耳がおかしいんじゃないの」
今度は起き上がろうとリヒトシュタインの胸を強く押し返したが、びくともしない。しかも彼が笑っている気配がある。
「もう俺の心臓の半分はエーファに渡してしまった。戻すのは無理だ」
「私にくれたなら心臓返せって脅しても返さないから」
「返せと言う気はない。俺の願いは俺をもう一人にしないでほしいということだ。これなら確実にエーファと一緒に生きて一緒に死ねる。エーファに死んでほしくなかった」
リヒトシュタインが上からどく。きっと今エーファの顔は赤いはずだ。リヒトシュタインと視線を合わさないように起き上がって乱れた服を直す。
「そういえば、私の心臓はどうしたの?」
「見るか? 保存してあるがすでに影響が出ていたからあまり状態はよくない」
「見たら吐くかもしれないから後にする」
「そうか」
抱き上げられて膝の上に乗せられた。顔を見られたくないのに、顎を掴まれてリヒトシュタインの方を向かされる。
「それで? エーファは俺と一緒に生きてくれるのか? 俺をもう一人で孤独にしないのか?」
「心臓半分私に入れといてそれを聞くの?」
「エーファだって俺にやったことだ。いや、そもそも番紛いを騙して飲ませて俺に決断しろと命令した。だから今度はエーファが俺に応える番だ」
反論したいが、心当たりが大いにあるのでできない。何から言えばいいのか分からず口を少し開いて、すぐ閉じる。リヒトシュタインは急かすわけでもなく黙って待っているが、頬や耳を撫でるので集中できない。
リヒトシュタインが死を願った時、エーファは彼に死んでほしくないと思った。エーファが血を吐いた時はリヒトシュタインに会いたいと願った。
「全て預けると言いながら実際に差し出したのが心臓半分では俺のことが信じられないか?」
緩く首を横に振って、リヒトシュタインに触れて心臓がある位置を探し当てた。鼓動を手のひらでしばらく感じる。
「また裏切られるのが怖かった」
「知っている」
リヒトシュタインはエーファの髪を触って耳にかけ、顎のラインを辿る。彼の指は冷たいはずなのに触れられたところは熱を持っている。
「まだ怖いか?」
「怖くない」
「ならいい」
「リヒトシュタインは後悔しない? 私に心臓を渡したこと」
「しない。あんな思いはもう二度したくない」
リヒトシュタインは言い切るとエーファの手を勝手に取ってまた唇を寄せる。
「どうした。大人しいな」
「病み上がりどころか死にかけてたみたいだから」
金色の目がエーファを見た。まだ視線を合わせられない。相変わらず、勝手なキスは続いている。
「俺をもう一人にしないと誓ってくれ」
エーファは体が震えたのかと思った。でも、心も一緒に震えたようだった。
リヒトシュタインの言葉の響きが、エーファの「命懸けで愛して」と「裏切らないで」と言ったあの時と共鳴した。
「なぁ、俺が愛を乞うてはいけないのか? 心臓の半分を捧げて、一人にしないでくれとみっともなく縋って一緒に生きてくれと愛を乞うてはいけないのか?」
「そうじゃ、なくって」
なかなか声が出せないエーファに向かって、リヒトシュタインは拗ねた口振りだ。
「俺に愛を出し惜しみしていないか。エーファはケチだな。エーファが死にかけて俺はあれほど絶望したのに。これはエーファが始めた俺との物語じゃないのか」
「リヒトシュタインだって合意したでしょ」
「狼煙を上げたのはエーファだ」
金色の目とやっと視線が合った。口調は拗ねていたのに、恐ろしいほど真剣な光が宿っている。もう、誤魔化すことはできなかった。
「何があっても、リヒトシュタインをもう一人にしない」
リヒトシュタインが無言でエーファの指に彼の指を絡めてくる。
「だってもうリヒトシュタインは私の一部なんだから」
絡めた指をほどいて背筋を伸ばし、リヒトシュタインの首に片手を回す。自然とエーファが彼を見下ろす形になった。もう片手は彼の心臓の位置を撫でる。
結局、二人だけの同じ痛みを分かち合うことになった。リヒトシュタインは死のうとして、エーファは死にかけた。二人とも死が近づかないと分からなかった。でも、その度にお互いの下した決断は同じだった。
リヒトシュタインに顔を近付ける。金色の目が面白がるように光って、すぐに閉じた。
「痛っ」
「キスが驚くほど下手くそだ」
勢い余って歯が当たった。口を覆って身を引く。リヒトシュタインは肩を震わせて笑った。
「本当にムードがないな」
「わざとじゃないんだけど」
「これからいくらでも機会はある」
口を覆った手を引っ張られる。拗ねて尖らせた唇になだめるようなキスが降ってきた。愛していると口にするのは簡単で、でも難しい。今もリヒトシュタインに「愛している」と言おうか迷ったが、その言葉はそぐわない気がした。
想像していたよりも愛を得る過程はさっきのキスみたいにみっともなかった。むしろお互い死にかけた。
「もし私が逃げても追いかけてくれるんでしょ?」
「俺をどれだけみっともない竜人にしたいんだ。今回のように俺はエーファだけは諦めるつもりはない」
「愛している」の響きよりもこっちの言葉の方がエーファには嬉しかった。
「リヒトシュタインがまた死にたがっても死なせてあげないから」
「もう死にたくなる予定はない。そもそも死ぬ時は一緒だ」
「だから、心臓は大切にして。私と同じくらい自分を大切にして。大切にしないなら私がもらうから」
「それはいいな。だがエーファは俺の歯を大切にしてくれ。キスのたびに当たっていたらいよいよ折れそうだ」
歯は折れるわけないという抗議はキスで飲み込まれて言わせてもらえなかった。
ドラクロアに連れてこられてからこんな結末になるなんて、ひとかけらも考えていなかった。
どのくらい時間が経過したのか、部屋に夕陽が差し込んでいる。その茜色がこれまで見たどの色よりも美しいのを確認してからリヒトシュタインの胸に頭を完全に預けた。