反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~
3
「にんしん? 妊娠って言った? にんじんじゃなくて」
「えぇ」
ミレリヤはふっと笑う。その笑みがドラクロアの道中よりもはるかに大人びて見えて、寒気がした。
「だ、だっておかしくない? 一年たってから結婚のはずだよね?」
ミレリヤは目を伏せている。寒気はさらにひどくなる。
「相手はカナンってことだよね?」
「うん」
急にステージが進んで発情期になったということ?
「確定じゃないよ。カナンにもまだ言ってないし。医者にも診せてない。でも、そんな気がするの。私の勘ってよく当たるから」
「そういうこと、もうカナンとしたってこと……?」
ドラクロアに来て一カ月余り。まだ一カ月。エーファにとってはもう一カ月。ドラクロアまでの道中を合わせたらもっと日数が経っている。
「カナンはオシドリの鳥人。オシドリって毎年番を変えるの、知ってた?」
「毎年? オシドリ夫婦って言うくらいなのに? それに鳥って一夫一婦制が多いよね……?」
「オシドリは毎年番を変えるだけで、番がいる間はその番だけに寄り添うの。だから一夫多妻制でも一妻多夫制でもないよ」
「あ、うん」
「オシドリの鳥人は、最初の番を見つけないと他の誰とも番うことができないらしいの。獣人から見ると特殊みたい。最初の番を見つけていなければ、番じゃない相手と結婚して子供を作るってできないんだって。だから、カナンはわざわざ人間の国まで最初の番を探しに来たのよ」
ミレリヤは妊娠を勘だと言いながらお腹に手を当てている。もちろんミレリヤの腹は平だ。
「でも、一年待つはずじゃ……」
「一年経ったらカナンは違う番を見つけるから。そう言われて私は、一年待たなくていいよって言ったの」
「そんなのって……ひどすぎる」
「大丈夫。最初の番はカナンにとっても特別だから追い出されることはないの。だから大丈夫。期間が過ぎても私を一生子爵家に置いてくれるって。面倒みてくれるって」
「もって……まさか……ミレリヤ?」
カナンの家が獣人と違って特殊なのは分かった。今の子爵夫人ってまさか現子爵の最初の番ってこと?
いろいろ考えていたが、エーファは大事な部分は聞き逃さない。
「あはは」
ミレリヤは笑いながら、泣いていた。エーファも意味が分かって泣きたくなった。マルティネス様が足と心を折られた時に出たのは怒りだったが、今は心が痛い。
「おかしいよね。最初からそういうこと、言っといてもらえたら心を預けなかったはずなのに」
「ねぇ……あの、カナンを好きなの?」
「だって。私、伯爵家で気にされたことなかったから。あんなに大切にされて話聞いてもらったことなかったから。簡単に人を信用しちゃいけない、心を預けちゃいけないって分かってたのに」
ミレリヤの目からぽたぽた涙が落ちる。
「継母と義妹からかばってくれた。一緒にご飯食べてて楽しかった。腹黒い所もあるけど……でも、私のことちゃんと見てくれた」
「……うん」
「だから、チョロい女って言われるだろうけど。全部初めてだったからすぐ好きになっちゃったの」
「うん」
「でも、来年にはもう次の番を見つけるって言われて。それが習性だからって。子供をたくさん作らないといけないのは分かるんだけどっ」
「いいよ、ミレリヤ。分かったから。無理して喋らないで」
ミレリヤの栗色の髪が差し込む夕日に透けている。泣いているミレリヤは今まで見た彼女よりも年相応だった。
「マルティネス様の前で言えなかったの……羨ましくって。だって、マルティネス様はあんなことがあっても、ただ一人の番としてちゃんと愛されてるから……いいなって。私は……一夫多妻制でもないし、乱婚もないし……鳥人って乱婚のとこもあるんだって……それはいいけど……でも」
エーファはもう口を挟めなかった。ミレリヤは吐き出してしまいたいんだろう。
「でもやっぱりただ一人として愛されたいなぁ。一年経って追い出されはしないけど、カナンが他の女の人と一緒にいるのを見るのはやだなぁ。でも、私は国に帰りたくないし行くあてもない。自立して生活していけるとも思えない」
「うん……うん」
「だからね、エーファ。あなたは絶対に逃げてね」
「え?」
「私みたいにチョロい女になっちゃだめだよ? 見ている限り、ギデオン様のこと徹底的に嫌ってるから大丈夫だと思うけど」
折り合いをつけるのが大変な状況だろうに他人に心を配るミレリヤに言葉を失ってしまう。
「エーファくらい強い意志があれば、絶対に帰れるから。幼馴染さんと幸せになってね」
ミレリヤになんと言葉を返したか、よく覚えていない。休みの時は遊びに行くとは言ったはずだ。
「遅かったな」
公爵邸に到着して馬車から下りると、ギデオンが待っていた。抱きしめられて頭にギデオンの鼻がくっつくのが分かる。エーギルの臭いがついていないか確認しているのだろう。
「どうした?」
何も言わずに俯いているエーファを不審に思ったのか、ギデオンが聞いてくる。
「カナンの家のことを聞いたのか」
咎めるわけではなく、淡々とした口調だ。エーファはゆっくり頷いた。
「あー、その、なんだ」
落ち込んでいて目線を上げるのも億劫だ。ギデオンと目を合わせたら絶対に八つ当たりする自信がある。なんでカナンの家の番について教えてくれなかったのかと掴みかかるだろう。
「カナンの家は俺たちから見ても特殊だ。その……カナンの番は大丈夫だったか」
この人、一応人を気遣う心はあるんだ。
「泣いてた」
「カナン。あいつは女たらしだからな……だが、最初の番は番の中でも特別だ。追い出されることはない」
「それは聞いた」
「そうか……悪い。何と言ったらいいのか分からない。俺たちオオカミ獣人は一夫一妻制が普通だからな。種族が違うから仕方がないと言われても、毎年違う番というのは受け入れがたいだろう」
ギデオンは歯切れが悪い。エーファが目に見えるほど落ち込んでいるからなのか、それともカナンの家のことだから言いづらいのか。
「アザール家にもまた行っていいですか。彼女が不安定なので……」
「あぁ、もちろんだ。今日の晩餐は、その、どうする? 部屋で食べるか?」
いつも厨房で作って部屋で食べてますから。使用人たちへの抗議の意味を込めて。
「今日は自分で作って食堂で食べます」
「そうか!」
食堂で一緒に食べるという意味で言ったのでギデオンは嬉しそうだ。エーファの手を勝手に取って手をつないでくる。されるままにエーファは公爵邸に入った。
ミレリヤのことで思った以上に心にダメージを負っている。ギデオンが話しかけてくることに生返事をしながら、ギデオンがいてくれて良かったとエーファは思った。
だって、こんなに手をつないでいるだけで気持ち悪いんだから。絶対にこいつらは許せないと再認識させてくれるんだから。
許せない。絶対に許せない。
マルティネス様を壊したエーギルも、ミレリヤを傷つけたカナンも。私からスタンリーとの将来を奪ったギデオンも。
ミレリヤの前では我慢していた涙がぽろっと地面に落ちる。彼女はもう番ってしまった。番紛いを作って飲ませても意味がない。
エーファは別れ際に憎んだ両親と兄を思い出す。
私は、ちゃんと家族から愛されていた。ギデオンに番認定される前まではそれが分かっていたのに。家族に愛されていなかったら、うっかりギデオンを好きになってしまっていたかもしれない。伯爵家で愛されなかったミレリヤが優しくしてくれたカナンを好きになってしまったように。
私は絶対に許さない。ギデオンを殺してでも、たとえ刺し違えてでも、私はここから逃げてやる。
「えぇ」
ミレリヤはふっと笑う。その笑みがドラクロアの道中よりもはるかに大人びて見えて、寒気がした。
「だ、だっておかしくない? 一年たってから結婚のはずだよね?」
ミレリヤは目を伏せている。寒気はさらにひどくなる。
「相手はカナンってことだよね?」
「うん」
急にステージが進んで発情期になったということ?
「確定じゃないよ。カナンにもまだ言ってないし。医者にも診せてない。でも、そんな気がするの。私の勘ってよく当たるから」
「そういうこと、もうカナンとしたってこと……?」
ドラクロアに来て一カ月余り。まだ一カ月。エーファにとってはもう一カ月。ドラクロアまでの道中を合わせたらもっと日数が経っている。
「カナンはオシドリの鳥人。オシドリって毎年番を変えるの、知ってた?」
「毎年? オシドリ夫婦って言うくらいなのに? それに鳥って一夫一婦制が多いよね……?」
「オシドリは毎年番を変えるだけで、番がいる間はその番だけに寄り添うの。だから一夫多妻制でも一妻多夫制でもないよ」
「あ、うん」
「オシドリの鳥人は、最初の番を見つけないと他の誰とも番うことができないらしいの。獣人から見ると特殊みたい。最初の番を見つけていなければ、番じゃない相手と結婚して子供を作るってできないんだって。だから、カナンはわざわざ人間の国まで最初の番を探しに来たのよ」
ミレリヤは妊娠を勘だと言いながらお腹に手を当てている。もちろんミレリヤの腹は平だ。
「でも、一年待つはずじゃ……」
「一年経ったらカナンは違う番を見つけるから。そう言われて私は、一年待たなくていいよって言ったの」
「そんなのって……ひどすぎる」
「大丈夫。最初の番はカナンにとっても特別だから追い出されることはないの。だから大丈夫。期間が過ぎても私を一生子爵家に置いてくれるって。面倒みてくれるって」
「もって……まさか……ミレリヤ?」
カナンの家が獣人と違って特殊なのは分かった。今の子爵夫人ってまさか現子爵の最初の番ってこと?
いろいろ考えていたが、エーファは大事な部分は聞き逃さない。
「あはは」
ミレリヤは笑いながら、泣いていた。エーファも意味が分かって泣きたくなった。マルティネス様が足と心を折られた時に出たのは怒りだったが、今は心が痛い。
「おかしいよね。最初からそういうこと、言っといてもらえたら心を預けなかったはずなのに」
「ねぇ……あの、カナンを好きなの?」
「だって。私、伯爵家で気にされたことなかったから。あんなに大切にされて話聞いてもらったことなかったから。簡単に人を信用しちゃいけない、心を預けちゃいけないって分かってたのに」
ミレリヤの目からぽたぽた涙が落ちる。
「継母と義妹からかばってくれた。一緒にご飯食べてて楽しかった。腹黒い所もあるけど……でも、私のことちゃんと見てくれた」
「……うん」
「だから、チョロい女って言われるだろうけど。全部初めてだったからすぐ好きになっちゃったの」
「うん」
「でも、来年にはもう次の番を見つけるって言われて。それが習性だからって。子供をたくさん作らないといけないのは分かるんだけどっ」
「いいよ、ミレリヤ。分かったから。無理して喋らないで」
ミレリヤの栗色の髪が差し込む夕日に透けている。泣いているミレリヤは今まで見た彼女よりも年相応だった。
「マルティネス様の前で言えなかったの……羨ましくって。だって、マルティネス様はあんなことがあっても、ただ一人の番としてちゃんと愛されてるから……いいなって。私は……一夫多妻制でもないし、乱婚もないし……鳥人って乱婚のとこもあるんだって……それはいいけど……でも」
エーファはもう口を挟めなかった。ミレリヤは吐き出してしまいたいんだろう。
「でもやっぱりただ一人として愛されたいなぁ。一年経って追い出されはしないけど、カナンが他の女の人と一緒にいるのを見るのはやだなぁ。でも、私は国に帰りたくないし行くあてもない。自立して生活していけるとも思えない」
「うん……うん」
「だからね、エーファ。あなたは絶対に逃げてね」
「え?」
「私みたいにチョロい女になっちゃだめだよ? 見ている限り、ギデオン様のこと徹底的に嫌ってるから大丈夫だと思うけど」
折り合いをつけるのが大変な状況だろうに他人に心を配るミレリヤに言葉を失ってしまう。
「エーファくらい強い意志があれば、絶対に帰れるから。幼馴染さんと幸せになってね」
ミレリヤになんと言葉を返したか、よく覚えていない。休みの時は遊びに行くとは言ったはずだ。
「遅かったな」
公爵邸に到着して馬車から下りると、ギデオンが待っていた。抱きしめられて頭にギデオンの鼻がくっつくのが分かる。エーギルの臭いがついていないか確認しているのだろう。
「どうした?」
何も言わずに俯いているエーファを不審に思ったのか、ギデオンが聞いてくる。
「カナンの家のことを聞いたのか」
咎めるわけではなく、淡々とした口調だ。エーファはゆっくり頷いた。
「あー、その、なんだ」
落ち込んでいて目線を上げるのも億劫だ。ギデオンと目を合わせたら絶対に八つ当たりする自信がある。なんでカナンの家の番について教えてくれなかったのかと掴みかかるだろう。
「カナンの家は俺たちから見ても特殊だ。その……カナンの番は大丈夫だったか」
この人、一応人を気遣う心はあるんだ。
「泣いてた」
「カナン。あいつは女たらしだからな……だが、最初の番は番の中でも特別だ。追い出されることはない」
「それは聞いた」
「そうか……悪い。何と言ったらいいのか分からない。俺たちオオカミ獣人は一夫一妻制が普通だからな。種族が違うから仕方がないと言われても、毎年違う番というのは受け入れがたいだろう」
ギデオンは歯切れが悪い。エーファが目に見えるほど落ち込んでいるからなのか、それともカナンの家のことだから言いづらいのか。
「アザール家にもまた行っていいですか。彼女が不安定なので……」
「あぁ、もちろんだ。今日の晩餐は、その、どうする? 部屋で食べるか?」
いつも厨房で作って部屋で食べてますから。使用人たちへの抗議の意味を込めて。
「今日は自分で作って食堂で食べます」
「そうか!」
食堂で一緒に食べるという意味で言ったのでギデオンは嬉しそうだ。エーファの手を勝手に取って手をつないでくる。されるままにエーファは公爵邸に入った。
ミレリヤのことで思った以上に心にダメージを負っている。ギデオンが話しかけてくることに生返事をしながら、ギデオンがいてくれて良かったとエーファは思った。
だって、こんなに手をつないでいるだけで気持ち悪いんだから。絶対にこいつらは許せないと再認識させてくれるんだから。
許せない。絶対に許せない。
マルティネス様を壊したエーギルも、ミレリヤを傷つけたカナンも。私からスタンリーとの将来を奪ったギデオンも。
ミレリヤの前では我慢していた涙がぽろっと地面に落ちる。彼女はもう番ってしまった。番紛いを作って飲ませても意味がない。
エーファは別れ際に憎んだ両親と兄を思い出す。
私は、ちゃんと家族から愛されていた。ギデオンに番認定される前まではそれが分かっていたのに。家族に愛されていなかったら、うっかりギデオンを好きになってしまっていたかもしれない。伯爵家で愛されなかったミレリヤが優しくしてくれたカナンを好きになってしまったように。
私は絶対に許さない。ギデオンを殺してでも、たとえ刺し違えてでも、私はここから逃げてやる。