反番物語~エーファは反溺愛の狼煙を上げる~
3
天空城全体にピリピリした雰囲気が漂っている。
「番紛いは飲ませたのか」
「うん、一昨日」
「効果がいつ出るかは個体によって違うが、一週間あればもう確実だろう。楽しみだな」
「へぇ。ねぇ今日何かあるの? 空気違うんだけど」
「あぁ、人間は感じないか。これは死の臭いだ」
「誰か亡くなったの?」
「いいや、これからだ。一週間というところか。死が確実に近づいてきている臭い。お前の薬がきくのとどっちが早いかだな」
リヒトシュタインは眠る自分の母親の手を取って覗き込む。最近はエーファが訪れても、彼女が起きているのが珍しいくらいになってしまった。
「もう、そんなに近いの?」
「あぁ。他の竜人と竜たちも感じているくらいだ。この部屋には死の臭いが充満している。他の奴らは竜王陛下の死期を悟って次期竜王の座をめぐる争いでピリピリしているだけだがな」
「そういえば、ルカリオン殿下は最近全く見ないね」
「もともとあいつは王妃殿下がここに顔を出さない限りは寄りつかない。弱い人間が嫌いだからな。それに王妃を追いやったうちの母を憎んでいる」
「竜王陛下が亡くなったらどうなるの?」
「下界はどうもならない。しばらく上空で竜人同士の争いがあるくらいだ。最も強い竜人を決めるために。王座をめぐる戦いだな。竜王が亡くなるたびに毎回行われてきた。戦って最も強い竜人が王座を手に入れるわけだ」
「竜人同士が決闘したら国がなくなるんじゃないの?」
「だからここよりもさらに上空でやるんだ」
死の臭いはよく分からないが、竜王陛下の番様はもういつ死んでもおかしくない状況だった。こう見ると、マクミラン公爵夫人はまだ元気なのかもしれない。
うっかりこの前の公爵夫人の様子を思い出す。彼女が苦しそうにしながらも必死にパクパクと開けていた口の形。まさか、あれは……。
「それにしても。お前。使用人の髪の毛を入れたのか。ギデオンにやり返されるなよ」
「どういうこと?」
「使用人に火傷を負わせたんだろう? そいつを番に仕立て上げるわけだから、そいつが調子に乗ってギデオンに泣きついたら番を傷つけたって面倒なことになると思わなかったのか?」
「そんなにうまくいくならこれ以上心配しなくていいんだけど。オオカミ獣人は番を間違えたことがないって聞いてるから固執されないかだけが心配。もしそうなったとしても番と間違って他国の人間連れてきたことより大きな問題とも思えない」
「ははっ。それもそうだ。さらに慰謝料でも分捕りそうな勢いだな」
「お金は大事。そういえばこの国でも夜会ってあるのね。一昨日言われてびっくりした」
「竜人はそんなことはしないが、獣人や鳥人はするんだな」
「リオル家の夜会らしいから私は行かない方がいいと思うんだけどね」
「あいつか。もう治ったのか、しぶといな」
「いや、治ってないって聞いてる」
一昨日、番紛いをギデオンの料理に混ぜて素知らぬ顔で出したつもりだった。ギデオンから見てエーファの態度は少しおかしかったらしい。だが、それは公爵夫人に会ったからだといい意味で誤解をしてくれた。
そして励ましなのか何なのか、三週間後に開催されるリオル公爵家の夜会の話をされたのだ。エーファのドレスは勝手に用意されていた。ギデオンとしてはサプライズのつもりだったようだが、エーファの顔は確実に引きつっていた。
「三週間後ならドレスが無駄になっていいじゃないか。その頃にはもういないだろう」
「そう願ってるんだけどね」
「しかし、ドラクロアから他国に向けて商人たちが出発したのはつい最近か。それについていけば比較的簡単に森を抜けられたな。忘れていた」
「そんなのがあるんだ。次の出発っていつ?」
「一か月半後だな」
「そんなに待ってられないから自力で森を抜けようかな」
そんな細かいこと考えていなかった。いつも森に入っていたせいもあるが。
「お前たちがいつも入っている中央を抜けたらあとは雑魚の魔物しかいない。まぁうまくやれ」
「あなたも逃げるんならうまくやらないと。ランハートが今日もこの部屋の前に何か言いたげに立ってたんだけど」
「ランハートなんぞ敵にもならない」
「そうならいいけど。そういえば、あなたのお母さまの名前を聞いてなかったね」
「母の名前はエリスだ」
「エリス様ね」
「……母の名前は久しぶりに呼んだ」
眠る番様が名前に反応したのかもぞもぞと動いた。
リヒトシュタインはそれを心配そうに見守る。人間離れした整った風貌なのに、彼が今この瞬間とても人間らしく見えた。
「次の三日後はどうなってるか分からないから、来れないかもしれない」
「そうだな。こちらもどうなっているか分からない。亡くなっていたら弔いの鐘が鳴るが、竜人同士の争いが始まって危ないからな。じゃあ、ここで会うのは今日が最後かもしれないな」
「うん、そうだね」
「健闘を祈る」
「えぇ、あなたも。たくさんありがとうございました」
差し出された手をエーファは何のためらいもなく握った。不思議とこれが最後だという感傷は湧いてこなかった。
「お前に礼を言われると気持ち悪いな」
「失礼な」
きっと彼のこの態度のせいだろう。
「番紛いは飲ませたのか」
「うん、一昨日」
「効果がいつ出るかは個体によって違うが、一週間あればもう確実だろう。楽しみだな」
「へぇ。ねぇ今日何かあるの? 空気違うんだけど」
「あぁ、人間は感じないか。これは死の臭いだ」
「誰か亡くなったの?」
「いいや、これからだ。一週間というところか。死が確実に近づいてきている臭い。お前の薬がきくのとどっちが早いかだな」
リヒトシュタインは眠る自分の母親の手を取って覗き込む。最近はエーファが訪れても、彼女が起きているのが珍しいくらいになってしまった。
「もう、そんなに近いの?」
「あぁ。他の竜人と竜たちも感じているくらいだ。この部屋には死の臭いが充満している。他の奴らは竜王陛下の死期を悟って次期竜王の座をめぐる争いでピリピリしているだけだがな」
「そういえば、ルカリオン殿下は最近全く見ないね」
「もともとあいつは王妃殿下がここに顔を出さない限りは寄りつかない。弱い人間が嫌いだからな。それに王妃を追いやったうちの母を憎んでいる」
「竜王陛下が亡くなったらどうなるの?」
「下界はどうもならない。しばらく上空で竜人同士の争いがあるくらいだ。最も強い竜人を決めるために。王座をめぐる戦いだな。竜王が亡くなるたびに毎回行われてきた。戦って最も強い竜人が王座を手に入れるわけだ」
「竜人同士が決闘したら国がなくなるんじゃないの?」
「だからここよりもさらに上空でやるんだ」
死の臭いはよく分からないが、竜王陛下の番様はもういつ死んでもおかしくない状況だった。こう見ると、マクミラン公爵夫人はまだ元気なのかもしれない。
うっかりこの前の公爵夫人の様子を思い出す。彼女が苦しそうにしながらも必死にパクパクと開けていた口の形。まさか、あれは……。
「それにしても。お前。使用人の髪の毛を入れたのか。ギデオンにやり返されるなよ」
「どういうこと?」
「使用人に火傷を負わせたんだろう? そいつを番に仕立て上げるわけだから、そいつが調子に乗ってギデオンに泣きついたら番を傷つけたって面倒なことになると思わなかったのか?」
「そんなにうまくいくならこれ以上心配しなくていいんだけど。オオカミ獣人は番を間違えたことがないって聞いてるから固執されないかだけが心配。もしそうなったとしても番と間違って他国の人間連れてきたことより大きな問題とも思えない」
「ははっ。それもそうだ。さらに慰謝料でも分捕りそうな勢いだな」
「お金は大事。そういえばこの国でも夜会ってあるのね。一昨日言われてびっくりした」
「竜人はそんなことはしないが、獣人や鳥人はするんだな」
「リオル家の夜会らしいから私は行かない方がいいと思うんだけどね」
「あいつか。もう治ったのか、しぶといな」
「いや、治ってないって聞いてる」
一昨日、番紛いをギデオンの料理に混ぜて素知らぬ顔で出したつもりだった。ギデオンから見てエーファの態度は少しおかしかったらしい。だが、それは公爵夫人に会ったからだといい意味で誤解をしてくれた。
そして励ましなのか何なのか、三週間後に開催されるリオル公爵家の夜会の話をされたのだ。エーファのドレスは勝手に用意されていた。ギデオンとしてはサプライズのつもりだったようだが、エーファの顔は確実に引きつっていた。
「三週間後ならドレスが無駄になっていいじゃないか。その頃にはもういないだろう」
「そう願ってるんだけどね」
「しかし、ドラクロアから他国に向けて商人たちが出発したのはつい最近か。それについていけば比較的簡単に森を抜けられたな。忘れていた」
「そんなのがあるんだ。次の出発っていつ?」
「一か月半後だな」
「そんなに待ってられないから自力で森を抜けようかな」
そんな細かいこと考えていなかった。いつも森に入っていたせいもあるが。
「お前たちがいつも入っている中央を抜けたらあとは雑魚の魔物しかいない。まぁうまくやれ」
「あなたも逃げるんならうまくやらないと。ランハートが今日もこの部屋の前に何か言いたげに立ってたんだけど」
「ランハートなんぞ敵にもならない」
「そうならいいけど。そういえば、あなたのお母さまの名前を聞いてなかったね」
「母の名前はエリスだ」
「エリス様ね」
「……母の名前は久しぶりに呼んだ」
眠る番様が名前に反応したのかもぞもぞと動いた。
リヒトシュタインはそれを心配そうに見守る。人間離れした整った風貌なのに、彼が今この瞬間とても人間らしく見えた。
「次の三日後はどうなってるか分からないから、来れないかもしれない」
「そうだな。こちらもどうなっているか分からない。亡くなっていたら弔いの鐘が鳴るが、竜人同士の争いが始まって危ないからな。じゃあ、ここで会うのは今日が最後かもしれないな」
「うん、そうだね」
「健闘を祈る」
「えぇ、あなたも。たくさんありがとうございました」
差し出された手をエーファは何のためらいもなく握った。不思議とこれが最後だという感傷は湧いてこなかった。
「お前に礼を言われると気持ち悪いな」
「失礼な」
きっと彼のこの態度のせいだろう。