要注意⚠︎この恋罪悪につき
暑い………。
グラウンドの砂をおざなりに蹴りながら私は思った。暑い………。今、4月だよね………。どうしてこんなに暑いんだ!ふざけている!季節、仕事しろ。これじゃ最早夏じゃないの。いつもは下ろしている髪をひとつに結んでいるのだが、あんまり意味がない。
「よ、椋田」
爽やかな声が聞こえた。一瞬爽やかな風が吹いた感じがした。
「咲森くん……なんでいる?」
「1、3組合同授業だよ馬鹿。先生の話聞いてた?」
「………起きたまま寝ていた」
「………先生可哀想。話聞いてあげて?おまえ俺なしでよく3年生きてたよな」
咲森くんなしで3年生きながらえた私は、咲森くんに抗議する。
「さすがに大丈夫だよ。何歳だと思っているの。咲森くん、私は小学生のままではないよ」
「いや全然変わってねえじゃん」
そうは言っても、色んなことが変わっただろう。呼び方も、距離も。それに、そういえば先生が体育がどうとか言ってたなあ、くらいは思い出せるだけましだと思う。
太陽がさんさんと輝いている暑い日である。今は3時間目。体育の授業の準備運動として、グラウンドを走らされている。みんなはだいぶ先までいってしまっていて、私はひとりでえっちらおっちら走っているところだった。咲森くんは私の隣を、私のスピードに合わせて走っている。
「咲森くん。先に行ってなくていいの?私は遅いよ?」
咲森くんは、困ったやつだなあといった感じの顔をした。
「もう1周してきた。今2周目。おまえ見つけて、追いかけてきた」
なるほど。私は感心した。
「そういえば咲森くん、足、速いんだよね」
なんとなく言った私のひとことに、咲森くんはびくっとした。さっきまでの余裕の表情とは違う。なんだか酷く驚いて、焦って、喜んでいる感じだった。色んな情緒がごったがえす表情のまま、咲森くんは口を開く。
「俺、小学のとき足速かったっけ」
別に普通だったろう。リレーでアンカー、とかじゃなかった気がする。気がする、ではあるけれど。小学生の頃、じゃなくて。咲森くんが足の速い咲森くんになったのは、中学生の頃ではないか。
「新聞で名前何回か見たよ。陸上の中距離で、県大会だっけ。すごいなあって思ったんだけど……」
咲森くんは足を止めた。
「まじか」
首を傾げる。私も足を止めようかと思ったけれど、ここで止まってしまってはますますみんなに追いつけなくなるだろう。なぜか衝撃を受ける咲森くんを置いて、ランニングを続けた。が、数秒も経たずに追いつかれた。さすが、地区大会といわず、県大会でも優勝しただけある。
「なあ椋田。俺、自惚れて、いい?」
この人は何が言いたいんだろうか。
「県大会でしょう。自惚れてもいいと思うよ」
咲森は笑った。あの、犬歯がちょっと見える懐かしい笑顔。
「そうだな。県大会だもんな」
眩しい。太陽が、じゃない。咲森くんが。私は自嘲した。咲森くんは、本の中の青春を表したみたいな顔をしている。
「『然し君、恋は罪悪ですよ。』」
突然思い出したかのように咲森くんが言った。この前図書室で会ったときに、私が言った夏目漱石の『こころ』の台詞である。
「漱石。中学の国語で習った」
咲森くんは私から目を逸らす。
「おまえはどうなの。恋って、罪だと思う?」
ロマンチストみたいな質問に、私は目を瞬かせた。恋。私とは無縁の、けれども興味深い命題である。『こころ』に出てくる先生は、どんな意図で言ったのだっけ。先生はとにかく「恋は罪悪だ」と繰り返すのだ。先生は多くのものを恋によって失った。それに、友情よりも恋情を大事にしてしまったことを恥じたのかもしれない。
「罪だと思うよ」
咲森くんの表情は見えない。
「恋は盲目と言う。人は、恋のために色んなものを犠牲にするでしょう。その結果周りの人を傷つけたりだとか、自分が大切なものを失くしてしまったりしてしまう。だけれど、人に人を求めるなっていうのはいささか無理がある。誰もが寄りかかり合って生きていたいよね。つまり恋とは抗い難い人の本能であって、不可抗力の罪。そんな風に私は思うのだけどどうだろう」
咲森くんは、小さく言った。
「『とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ。』」
それは、先生の台詞の続きだった。
「そういうこと?」
咲森くんがこっちを見た。にやりと笑って、彼は聞いた。だから、私に尋ねたってどうにもならないよ。
「そういうことだね」
けれども私は、そんな返答をした。
気がつけば、もう1周走り終わっていた。まだ先生はきておらず、そのため生徒たちはめいめいおしゃべりに花を咲かせている。私は、隣を歩く咲森くんに、それじゃあね、と言おうとして……口をつぐんだ。
「むくちゃん…………!」
息をきらせて、向こうから友達がやってきたからである。
「誰ソイツ」
ソイツ、とは、どうやら咲森くんのことらしい。私は咲森くんを見上げた。……見たこともないくらい、表情の抜け落ちた無表情だった。
「あんたこそ誰」
柔らかな声音なのに、咲森くんが私の友達————佑月を警戒していることがわかる。
「1-1、斎川佑月。むくちゃんの友達」
「1-3、咲森祈。椋田の小学の頃の友達」
咲森、と名前を聞いた途端、佑月はますます表情を険しくする。なぜかヤンキー漫画みたいな展開になってしまった。「斎川?聞いたことねえな」「私を知らないとはもぐりね」、みたいな…。
私がぼーっとヤンキー漫画の華々しい喧嘩シーンを妄想していたとき、佑月が突然私の右手を握った。
「駄目だよむくちゃん!そんな奴といたら!」
私はヤンキー漫画の世界線から現実にのんびり戻りながら考える。そんな奴っていったい誰なの?……ああ、咲森くんのことか。失礼極まりないな。咲森くんは怒ったかもしれない、と思って彼の方を見ると、「そんな奴」呼ばわりされたはずの咲森くんは涼しい顔で佑月を見下ろすばかりだった。
「知らないの!?ソイツ、イケメンだって3組の女子たちに噂されてる奴だよ。そんなんと一緒に居たっていいことない。行くよ」
佑月に、引っ張られる。咲森くんと一緒に居たらいいことない?むしろ、いいことだらけだった気がするのだが。
それに、そんなにイケメンだろうか。私のイケメンの定義は6歳のときからギルバートだしな。
「佑月、咲森くんはまだまだだよ。ギルバートどころか、ロイにも届いてな————」
言葉が止まる。咲森くんに、がっしりと左手の手首を掴まれていた。丁度、咲森くんと佑月で私を取り合うような形になっている。咲森くんは佑月をその切れ長の瞳で睨んでいた。
「でも、マシュウおじさんくらいの存在ではあるよな?」
「私はむくちゃんのダイアナよね?」
えーっと…マシュウおじさんもマリラもダイアナもレイチェル=リンド夫人も大好きなんだが。どうすればいいのだ。
「咲森。その手を離して」
「—————————————————こいつの危険になる気はねえよ」
咲森くんの手が離れた。掴まれてたところがじんじんする。咲森くんはあの冷たい目で佑月を見ると、彼女に何か囁いた。何を言ったんだろう。聞こえなかった。
それから彼は、私に向かってそっと手を振る。
「じゃあな、椋田。また今度」
後に残されたのは状況の理解に苦しむ私と、怒りに震える佑月だけだった。
グラウンドの砂をおざなりに蹴りながら私は思った。暑い………。今、4月だよね………。どうしてこんなに暑いんだ!ふざけている!季節、仕事しろ。これじゃ最早夏じゃないの。いつもは下ろしている髪をひとつに結んでいるのだが、あんまり意味がない。
「よ、椋田」
爽やかな声が聞こえた。一瞬爽やかな風が吹いた感じがした。
「咲森くん……なんでいる?」
「1、3組合同授業だよ馬鹿。先生の話聞いてた?」
「………起きたまま寝ていた」
「………先生可哀想。話聞いてあげて?おまえ俺なしでよく3年生きてたよな」
咲森くんなしで3年生きながらえた私は、咲森くんに抗議する。
「さすがに大丈夫だよ。何歳だと思っているの。咲森くん、私は小学生のままではないよ」
「いや全然変わってねえじゃん」
そうは言っても、色んなことが変わっただろう。呼び方も、距離も。それに、そういえば先生が体育がどうとか言ってたなあ、くらいは思い出せるだけましだと思う。
太陽がさんさんと輝いている暑い日である。今は3時間目。体育の授業の準備運動として、グラウンドを走らされている。みんなはだいぶ先までいってしまっていて、私はひとりでえっちらおっちら走っているところだった。咲森くんは私の隣を、私のスピードに合わせて走っている。
「咲森くん。先に行ってなくていいの?私は遅いよ?」
咲森くんは、困ったやつだなあといった感じの顔をした。
「もう1周してきた。今2周目。おまえ見つけて、追いかけてきた」
なるほど。私は感心した。
「そういえば咲森くん、足、速いんだよね」
なんとなく言った私のひとことに、咲森くんはびくっとした。さっきまでの余裕の表情とは違う。なんだか酷く驚いて、焦って、喜んでいる感じだった。色んな情緒がごったがえす表情のまま、咲森くんは口を開く。
「俺、小学のとき足速かったっけ」
別に普通だったろう。リレーでアンカー、とかじゃなかった気がする。気がする、ではあるけれど。小学生の頃、じゃなくて。咲森くんが足の速い咲森くんになったのは、中学生の頃ではないか。
「新聞で名前何回か見たよ。陸上の中距離で、県大会だっけ。すごいなあって思ったんだけど……」
咲森くんは足を止めた。
「まじか」
首を傾げる。私も足を止めようかと思ったけれど、ここで止まってしまってはますますみんなに追いつけなくなるだろう。なぜか衝撃を受ける咲森くんを置いて、ランニングを続けた。が、数秒も経たずに追いつかれた。さすが、地区大会といわず、県大会でも優勝しただけある。
「なあ椋田。俺、自惚れて、いい?」
この人は何が言いたいんだろうか。
「県大会でしょう。自惚れてもいいと思うよ」
咲森は笑った。あの、犬歯がちょっと見える懐かしい笑顔。
「そうだな。県大会だもんな」
眩しい。太陽が、じゃない。咲森くんが。私は自嘲した。咲森くんは、本の中の青春を表したみたいな顔をしている。
「『然し君、恋は罪悪ですよ。』」
突然思い出したかのように咲森くんが言った。この前図書室で会ったときに、私が言った夏目漱石の『こころ』の台詞である。
「漱石。中学の国語で習った」
咲森くんは私から目を逸らす。
「おまえはどうなの。恋って、罪だと思う?」
ロマンチストみたいな質問に、私は目を瞬かせた。恋。私とは無縁の、けれども興味深い命題である。『こころ』に出てくる先生は、どんな意図で言ったのだっけ。先生はとにかく「恋は罪悪だ」と繰り返すのだ。先生は多くのものを恋によって失った。それに、友情よりも恋情を大事にしてしまったことを恥じたのかもしれない。
「罪だと思うよ」
咲森くんの表情は見えない。
「恋は盲目と言う。人は、恋のために色んなものを犠牲にするでしょう。その結果周りの人を傷つけたりだとか、自分が大切なものを失くしてしまったりしてしまう。だけれど、人に人を求めるなっていうのはいささか無理がある。誰もが寄りかかり合って生きていたいよね。つまり恋とは抗い難い人の本能であって、不可抗力の罪。そんな風に私は思うのだけどどうだろう」
咲森くんは、小さく言った。
「『とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ。』」
それは、先生の台詞の続きだった。
「そういうこと?」
咲森くんがこっちを見た。にやりと笑って、彼は聞いた。だから、私に尋ねたってどうにもならないよ。
「そういうことだね」
けれども私は、そんな返答をした。
気がつけば、もう1周走り終わっていた。まだ先生はきておらず、そのため生徒たちはめいめいおしゃべりに花を咲かせている。私は、隣を歩く咲森くんに、それじゃあね、と言おうとして……口をつぐんだ。
「むくちゃん…………!」
息をきらせて、向こうから友達がやってきたからである。
「誰ソイツ」
ソイツ、とは、どうやら咲森くんのことらしい。私は咲森くんを見上げた。……見たこともないくらい、表情の抜け落ちた無表情だった。
「あんたこそ誰」
柔らかな声音なのに、咲森くんが私の友達————佑月を警戒していることがわかる。
「1-1、斎川佑月。むくちゃんの友達」
「1-3、咲森祈。椋田の小学の頃の友達」
咲森、と名前を聞いた途端、佑月はますます表情を険しくする。なぜかヤンキー漫画みたいな展開になってしまった。「斎川?聞いたことねえな」「私を知らないとはもぐりね」、みたいな…。
私がぼーっとヤンキー漫画の華々しい喧嘩シーンを妄想していたとき、佑月が突然私の右手を握った。
「駄目だよむくちゃん!そんな奴といたら!」
私はヤンキー漫画の世界線から現実にのんびり戻りながら考える。そんな奴っていったい誰なの?……ああ、咲森くんのことか。失礼極まりないな。咲森くんは怒ったかもしれない、と思って彼の方を見ると、「そんな奴」呼ばわりされたはずの咲森くんは涼しい顔で佑月を見下ろすばかりだった。
「知らないの!?ソイツ、イケメンだって3組の女子たちに噂されてる奴だよ。そんなんと一緒に居たっていいことない。行くよ」
佑月に、引っ張られる。咲森くんと一緒に居たらいいことない?むしろ、いいことだらけだった気がするのだが。
それに、そんなにイケメンだろうか。私のイケメンの定義は6歳のときからギルバートだしな。
「佑月、咲森くんはまだまだだよ。ギルバートどころか、ロイにも届いてな————」
言葉が止まる。咲森くんに、がっしりと左手の手首を掴まれていた。丁度、咲森くんと佑月で私を取り合うような形になっている。咲森くんは佑月をその切れ長の瞳で睨んでいた。
「でも、マシュウおじさんくらいの存在ではあるよな?」
「私はむくちゃんのダイアナよね?」
えーっと…マシュウおじさんもマリラもダイアナもレイチェル=リンド夫人も大好きなんだが。どうすればいいのだ。
「咲森。その手を離して」
「—————————————————こいつの危険になる気はねえよ」
咲森くんの手が離れた。掴まれてたところがじんじんする。咲森くんはあの冷たい目で佑月を見ると、彼女に何か囁いた。何を言ったんだろう。聞こえなかった。
それから彼は、私に向かってそっと手を振る。
「じゃあな、椋田。また今度」
後に残されたのは状況の理解に苦しむ私と、怒りに震える佑月だけだった。