要注意⚠︎この恋罪悪につき
ふゆは俺のだ。
衝動的に口をついて出てしまった言葉だった。
俺————咲森祈は、そっと額を押さえた。暑さのせいで気が立っている。走っているときは暑い方が調子が出るというのに、走り終わった途端これだ。今日の授業は持久走だった。この暑さの中での暴挙だが、俺にとってはこれ以上ないくらいのいいコンディションだった。タイムは落ちてない。それどころか0.1秒単位で測れていれば、上がっていたかもしれなかった。ふゆがいるからいいところを見せたくて。
タオルで汗を拭きながら、無意識に、ふゆ————椋田冬子の姿を探した。1組の生徒に混じって、水筒の飲み物を飲んでいる。隣にいるのは斎川佑月。俺はため息をつく。あー、女に生まれりゃよかった。そうすればずっとふゆと居ることができたはずだ。酷い独占欲。恋はやはり罪悪だ。
小学生のとき。
たまたま椋田冬子という女の子と隣の席になった。
学年でも5本指に数えられるくらいの問題児…と学級委員だった俺に、先生は悲しげに言った。それから、彼女の面倒を見てやってください、とも。
椋田冬子は、見た感じ全然問題児には見えなかった。毛先がゆるくウェーブする長い黒髪で、肌は真っ白。ランドセルの色は特に主張の無い赤色だった。
けれど、彼女を隣の席で見ていると、色んなことがわかってきた。まず、授業を全く聞いていない。ぼーっとしているか、こっそり…いや堂々と(?)本を読んでいるか、寝ているか、だった。隣の席の俺とも全く会話しない。うん、とか、ありがとう、くらいしか言わなかった。俺は、クラスでもそこそこ慕われる学級委員だったので、ほんの少しの自尊心を傷つけられたというかなんというか……。その時期の男子あるあるの、「なんとしてでもこっちを向かせてやる!」みたいな今思うと大変面倒くさい感情が芽生えてしまったわけで。
「授業中は本を読んじゃ駄目だよ」
授業中、集中して本を読む椋田冬子から、本を取り上げてみた。彼女は一瞬、よくわからない、という顔をしてから、小さな口を開いた。
「……………返して」
初めて彼女の口から、うん、ありがとう、以外の語彙をきいた気がした。
「なあ、俺の名前わかる?」
椋田冬子は、首をそっと傾げた。周囲に全くといって興味感心がない彼女のことだ。覚えていないに決まっている。
「祈くん」
呼ばれた瞬間、俺の世界が一瞬変わった。塗り替えられたみたいに…例えばそう、近視の人が裸眼から眼鏡をかけたときの視界みたいな感じで、パッと世界が明るくなった気がしたのだ。祈くん。祈くんだって。こいつはちゃんと俺の名前を知っていた。
……だけど俺は考えた。ぼーっとしている椋田冬子のことだ。もしかしたら、苗字が思い出せなかったのかもしれない。
それでも、下の名前は覚えられていた。最早それだけでいいではないか。
「本、返して、祈くん」
「なあ、冬子って呼んでいい?」
椋田冬子は目をぱちくりさせた。黒い瞳を縁取る長いまつ毛がふわふわ動く。
「いいけれど……本を……」
「ふゆ。冬子。俺のことは祈くんでいいよ」
「……ね、祈くん…本を、あの……」
困った顔を見て笑った。可愛い。不覚にもそう思ったからだ。
俺はふゆの面倒を見まくった。本は取り上げたし、寝そうになると鉛筆でつついて起こしてやった。ふゆは最初は迷惑そうにしていたけど、だんだん俺と長く会話してくれるようになった。
「祈くんは変わっているね。私に構ったって、いいこともないでしょうに」
よく晴れた日、みんなは外で元気に遊んでいる。休み時間、人のまばらな教室で、本を読むふゆを隣の席からなんとはなしに見ていると、突然彼女はそんなことを言った。俺は一瞬どきりとしていた。いいことはある。おまえを見てるだけでかなりの幸せを摂取している、だなんて、とても正直に言えない。
「変わってるって、ふゆに言われたくねえよ」
ふゆはむっと口を尖らせた。可愛かった。
「私はおかしな子でしょう。本ばかり好きだし…あまり、周囲に関心がないから。自分でもわかっているんだよ。私なんかが祈くんといるから、人を怒らせるのでしょうね」
しばらく言葉の意味がわからなかった。けれど、ふゆの体操服の半ズボンから覗く擦り傷を見て固まった。小学校は私服だ。なのにどうして、彼女が体操服になんて着替えているのか。答えは明白だった。
「ふゆ」
「なあに」
ふゆは穏やかに答える。
「俺は、ふゆと居たいから居るんだろ」
「そうなの?」
「そうだよ。馬鹿だな」
馬鹿なふゆ。俺は椅子から立ち上がった。ふゆはこっちを見ないけど、気配がほんのちょっと揺らいだ。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
俺は教室を出ると、グラウンドへ向かった。トイレだなんて嘘。優しい祈のことが好きだ、とか明言している女子グループを探す。クラス内でも男子にモテる彼女たちは、鉄棒の近くにたむろしていた。
「あ、祈!」
ひとりが声を上げる。
「なあ、椋田知らね?」
ふゆが俺の視界から外れたのは、給食後と休み時間との間の約15分間。おそらくトイレに行ったものと思われた。この女子グループはふゆが戻ってくる前にトイレへ行き、そしてさっさとグラウンドへ遊びに行っている。ならば、ふゆが15分以内に教室に戻ったことを知らないはずだ。
「あー、トイレにでも居るんじゃね?もしかしたら水浸しかも?ウケるわ。ま、知らないけど」
知ってるだろう。
「ねー、そんなことどうでもいいからさぁ、祈も一緒に鉄棒しようよー」
俺は黙った。女って狡猾だ。女の全てを嫌いにならないのは、ふゆが女の子だから。
「嫌いなんだよ」
一瞬、場の空気がしんとなった。自覚があるんだろう。女子たちは凍りついている。
「いじめとかする奴。ぜってー彼女にできねえまじで引くわ」
鉄棒を足で蹴った。ガン、と硬い音がする。女子たちの表情は固まっていた。
「言っとくけど俺は優しくなんてねえからな。あいつといるのはおまえらの考えるような優しさが理由じゃねえんだよ」
俺の顔があまりにも怖かったのだろうか。女子は泣き出した。ごめんなさい、だって、あの子ばっかり狡くて。俺は、背を向けた。ふゆは泣いてなんていなかった。水をかけられたんだろう。それから、膝も擦りむいて、痛かったはずだ。それなのにふゆは、なんともない顔で更衣室に行って着替えて、なんともない顔で戻ってきたのだ。俺のせいだ、というのが一番悔しい。あの女子、殺してやりたい。ふゆになんて言ったんだろう。あんたに祈は似合わない?あんたはおかしい。変だって?そんなことを俺は、これっぽっちだって思っていないのに。
————居場所は、自分で作らなければならない。
ふゆと居られる居場所を。誰にも文句を言わせないような環境を。彼女が、俺から離れていってしまわないように、離れざるを得なくならにように。そもそも俺にも関心が薄いふゆのことだ。面倒だと思えばすぐに俺のことも忘れてしまうに違いない。
「トイレ、長かったね」
グラウンドから戻ったふゆは、顔を上げずにそう言った。
「祈くん」
「なに」
「祈くんは優しいね」
「優しくねえよ」
「優しいよ」
「違う」
「私は狡いね」
「狡くない」
「私は………」
「なんだよ」
「祈くんを利用したよ」
「馬鹿なふゆ」
祈くん、と呼ばれた瞬間分かった。ふゆは特別だった。その媚びない瞳、言葉、言葉の裏。俺のせいで酷いことをされたというのに。俺があいつらを牽制しに行ったのを、「利用した」と言った。それは利用でもなんでもない。ただの助けてという信号だったのに。
好きだ、守りたい。どうしてもそう思って俺は、恋は罪悪だとわかっていながら、罪を被ることを選んだのだ。
衝動的に口をついて出てしまった言葉だった。
俺————咲森祈は、そっと額を押さえた。暑さのせいで気が立っている。走っているときは暑い方が調子が出るというのに、走り終わった途端これだ。今日の授業は持久走だった。この暑さの中での暴挙だが、俺にとってはこれ以上ないくらいのいいコンディションだった。タイムは落ちてない。それどころか0.1秒単位で測れていれば、上がっていたかもしれなかった。ふゆがいるからいいところを見せたくて。
タオルで汗を拭きながら、無意識に、ふゆ————椋田冬子の姿を探した。1組の生徒に混じって、水筒の飲み物を飲んでいる。隣にいるのは斎川佑月。俺はため息をつく。あー、女に生まれりゃよかった。そうすればずっとふゆと居ることができたはずだ。酷い独占欲。恋はやはり罪悪だ。
小学生のとき。
たまたま椋田冬子という女の子と隣の席になった。
学年でも5本指に数えられるくらいの問題児…と学級委員だった俺に、先生は悲しげに言った。それから、彼女の面倒を見てやってください、とも。
椋田冬子は、見た感じ全然問題児には見えなかった。毛先がゆるくウェーブする長い黒髪で、肌は真っ白。ランドセルの色は特に主張の無い赤色だった。
けれど、彼女を隣の席で見ていると、色んなことがわかってきた。まず、授業を全く聞いていない。ぼーっとしているか、こっそり…いや堂々と(?)本を読んでいるか、寝ているか、だった。隣の席の俺とも全く会話しない。うん、とか、ありがとう、くらいしか言わなかった。俺は、クラスでもそこそこ慕われる学級委員だったので、ほんの少しの自尊心を傷つけられたというかなんというか……。その時期の男子あるあるの、「なんとしてでもこっちを向かせてやる!」みたいな今思うと大変面倒くさい感情が芽生えてしまったわけで。
「授業中は本を読んじゃ駄目だよ」
授業中、集中して本を読む椋田冬子から、本を取り上げてみた。彼女は一瞬、よくわからない、という顔をしてから、小さな口を開いた。
「……………返して」
初めて彼女の口から、うん、ありがとう、以外の語彙をきいた気がした。
「なあ、俺の名前わかる?」
椋田冬子は、首をそっと傾げた。周囲に全くといって興味感心がない彼女のことだ。覚えていないに決まっている。
「祈くん」
呼ばれた瞬間、俺の世界が一瞬変わった。塗り替えられたみたいに…例えばそう、近視の人が裸眼から眼鏡をかけたときの視界みたいな感じで、パッと世界が明るくなった気がしたのだ。祈くん。祈くんだって。こいつはちゃんと俺の名前を知っていた。
……だけど俺は考えた。ぼーっとしている椋田冬子のことだ。もしかしたら、苗字が思い出せなかったのかもしれない。
それでも、下の名前は覚えられていた。最早それだけでいいではないか。
「本、返して、祈くん」
「なあ、冬子って呼んでいい?」
椋田冬子は目をぱちくりさせた。黒い瞳を縁取る長いまつ毛がふわふわ動く。
「いいけれど……本を……」
「ふゆ。冬子。俺のことは祈くんでいいよ」
「……ね、祈くん…本を、あの……」
困った顔を見て笑った。可愛い。不覚にもそう思ったからだ。
俺はふゆの面倒を見まくった。本は取り上げたし、寝そうになると鉛筆でつついて起こしてやった。ふゆは最初は迷惑そうにしていたけど、だんだん俺と長く会話してくれるようになった。
「祈くんは変わっているね。私に構ったって、いいこともないでしょうに」
よく晴れた日、みんなは外で元気に遊んでいる。休み時間、人のまばらな教室で、本を読むふゆを隣の席からなんとはなしに見ていると、突然彼女はそんなことを言った。俺は一瞬どきりとしていた。いいことはある。おまえを見てるだけでかなりの幸せを摂取している、だなんて、とても正直に言えない。
「変わってるって、ふゆに言われたくねえよ」
ふゆはむっと口を尖らせた。可愛かった。
「私はおかしな子でしょう。本ばかり好きだし…あまり、周囲に関心がないから。自分でもわかっているんだよ。私なんかが祈くんといるから、人を怒らせるのでしょうね」
しばらく言葉の意味がわからなかった。けれど、ふゆの体操服の半ズボンから覗く擦り傷を見て固まった。小学校は私服だ。なのにどうして、彼女が体操服になんて着替えているのか。答えは明白だった。
「ふゆ」
「なあに」
ふゆは穏やかに答える。
「俺は、ふゆと居たいから居るんだろ」
「そうなの?」
「そうだよ。馬鹿だな」
馬鹿なふゆ。俺は椅子から立ち上がった。ふゆはこっちを見ないけど、気配がほんのちょっと揺らいだ。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
俺は教室を出ると、グラウンドへ向かった。トイレだなんて嘘。優しい祈のことが好きだ、とか明言している女子グループを探す。クラス内でも男子にモテる彼女たちは、鉄棒の近くにたむろしていた。
「あ、祈!」
ひとりが声を上げる。
「なあ、椋田知らね?」
ふゆが俺の視界から外れたのは、給食後と休み時間との間の約15分間。おそらくトイレに行ったものと思われた。この女子グループはふゆが戻ってくる前にトイレへ行き、そしてさっさとグラウンドへ遊びに行っている。ならば、ふゆが15分以内に教室に戻ったことを知らないはずだ。
「あー、トイレにでも居るんじゃね?もしかしたら水浸しかも?ウケるわ。ま、知らないけど」
知ってるだろう。
「ねー、そんなことどうでもいいからさぁ、祈も一緒に鉄棒しようよー」
俺は黙った。女って狡猾だ。女の全てを嫌いにならないのは、ふゆが女の子だから。
「嫌いなんだよ」
一瞬、場の空気がしんとなった。自覚があるんだろう。女子たちは凍りついている。
「いじめとかする奴。ぜってー彼女にできねえまじで引くわ」
鉄棒を足で蹴った。ガン、と硬い音がする。女子たちの表情は固まっていた。
「言っとくけど俺は優しくなんてねえからな。あいつといるのはおまえらの考えるような優しさが理由じゃねえんだよ」
俺の顔があまりにも怖かったのだろうか。女子は泣き出した。ごめんなさい、だって、あの子ばっかり狡くて。俺は、背を向けた。ふゆは泣いてなんていなかった。水をかけられたんだろう。それから、膝も擦りむいて、痛かったはずだ。それなのにふゆは、なんともない顔で更衣室に行って着替えて、なんともない顔で戻ってきたのだ。俺のせいだ、というのが一番悔しい。あの女子、殺してやりたい。ふゆになんて言ったんだろう。あんたに祈は似合わない?あんたはおかしい。変だって?そんなことを俺は、これっぽっちだって思っていないのに。
————居場所は、自分で作らなければならない。
ふゆと居られる居場所を。誰にも文句を言わせないような環境を。彼女が、俺から離れていってしまわないように、離れざるを得なくならにように。そもそも俺にも関心が薄いふゆのことだ。面倒だと思えばすぐに俺のことも忘れてしまうに違いない。
「トイレ、長かったね」
グラウンドから戻ったふゆは、顔を上げずにそう言った。
「祈くん」
「なに」
「祈くんは優しいね」
「優しくねえよ」
「優しいよ」
「違う」
「私は狡いね」
「狡くない」
「私は………」
「なんだよ」
「祈くんを利用したよ」
「馬鹿なふゆ」
祈くん、と呼ばれた瞬間分かった。ふゆは特別だった。その媚びない瞳、言葉、言葉の裏。俺のせいで酷いことをされたというのに。俺があいつらを牽制しに行ったのを、「利用した」と言った。それは利用でもなんでもない。ただの助けてという信号だったのに。
好きだ、守りたい。どうしてもそう思って俺は、恋は罪悪だとわかっていながら、罪を被ることを選んだのだ。