村娘は魔界で立派な悪魔を目指すようです。

1 姉弟の内緒話

――人間界と呼ばれる世界がある。
 その世界に隣り合っているのが、天界と魔界。
 天界には天使が住み、魔界には悪魔が住む。
 天使に道を与えられ、悪魔に道を奪われるのが、人間。
 守られ、弄ばれる小さな存在。
 古い古い世から続く、世界の理。
 けれど時に世界は混ざり合う。
 天界の象徴たる太陽と、魔界の象徴たる月が隠れる時。
 天使と悪魔の影たる人間が、光のない世界でその意義を手に入れる。

 さあ、人間。自らの進む道と、新世界を創るがいい。




 ユマは本を閉じて顔を上げると、微笑んで言った。
「……おしまい」
 ユマは波打つ淡い銀髪に、神秘的な紫の瞳を持つ少女だった。年は十歳で、子どもたちに絵本を読んだりして、年下の子どもたちの面倒をよく見る少女だった。
 ユマは辺りを見回して、満足そうにうなずく。
「うん、みんなすやすや。今度からおやすみ絵本はこれで決まりね」
「その本、小難しい神話で退屈だもん。でも僕はちゃんと聞いてたよ、ユマ姉」
 ユマはくすっと笑って肘掛け椅子から降りると、そう言った少年の横に腰を下ろす。
「こら、カイエ。すやすやしなさい」
「残念でした。僕もユマ姉と一緒で、その本が好きなんだもん」
 パチパチと燃える暖炉の音は拍手に似ている。
 ユマは二つ年下の弟に肩を寄せてもたれた。そっと弟の柔らかな髪を指先で梳く。
 カイエは癖のない金髪に、吊り上った青い瞳をしている。小生意気な雰囲気はあるが、姉に微笑みかける姿は聖書の天使のようだ。
 大人たちが階下で騒ぐ声が聞こえてくる。二人はしばらく肩を寄せ合って目を閉じていた。
 外は吹雪のようで、眠りに落ちた子どもたちの規則正しい寝息が聞こえてくる。
「ね、カイエ」
「うん?」
「この本で、人間に話しかけているのは誰なのかしら?」
 カイエは目を開けて赤い炎の動きを見る。姉は時折こんな不思議な問いをしてきて、弟の心をざわめかせる。
 ユマは弟と同じ方向を見つめながら言った。
「私はね、天使様が話しかけていると思うの」
「天使が?」
 いぶかしげなカイエに、ユマはうなずく。
「うん。天使様は弱い人間が哀れだから、こっそり教えてくれるの。人間が世界の終わりを生き残ることができるように」
 カイエは首を横に振って、確かな意思を持ってつぶやく。
「僕は違うと思う」
「どうして?」
「人間に話しかけているのは、悪魔だと思う。浄化された世界の後でも、人間がずっと愚かで、悪魔に操られる存在として生き残るように」
 ユマは微笑んでカイエを見た。
「カイエは悪魔さんが嫌いなの? 彼らにだって、家族を愛おしむ気持ちはあるでしょうに」
「当たり前だよ。僕らを惑わす存在だもん」
 カイエは顔を上げて姉を見返す。
「でも悪魔の生き方はかっこいいな。欲望のままに奪い、他者を従える」
 カイエは傍らの姉をまぶしいものを見るように目を細めてみつめる。
「僕は悪魔の方に共感するな。ユマ姉みたいにきれいな心は持ってない」
 カイエの声音は沈んで聞こえた。ユマはそれを感じ取って、首を横に振る。
「大丈夫。知ってるわ。カイエはとても優しい子だって」
 ユマは屈託のない笑顔を向けてカイエの手を取る。
 カイエはそれを握り返しながら、姉の紫の瞳を見て苦笑する。
「ユマ姉はきっとそのうち天使の祝福を受けると思う。それで、きっと僕みたいな人間を導いてくれるだろう」
 そのとき、突風にあおられて窓枠が揺れた。
 吹雪は激しさを増して、叩きつけるように家を震えさせていた。
 カイエは眉をひそめて声を上げる。
「すごい吹雪だ。おじさんたちは大丈夫かな?」
「馬の様子を見に行ったり、忙しそうにしていたものね」
 二人は叔父に親戚の子どもたちの面倒を見るよう言われていた。けれど叔父の帰りが遅い。
 二人ともしっかり者だからこそ子どもたちを任されていたが、おっとりした姉と多少神経質な弟はそれぞれ考え方が違う。
「探しに行った方がいいのかしら」
「だめだよ、ユマ姉。今外に出るのは危ない」
 カイエはユマを制止して、首を横に振った。
「……こういう夜は、悪魔がうろついてるかもしれないから」
 カイエが注意深く、凍りついた窓をにらんだときだった。
 蝶番が壊れたのか、木の窓が外から開かれる。
 一瞬の沈黙の後に、ユマは言葉を放っていた。
「……あの、あなたは?」
 窓枠に、引きずる影のような旅装束の男が座っていた。
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