村娘は魔界で立派な悪魔を目指すようです。
18 ピュアハートをほめられて
アニーダは複雑そうな表情でユマを見て言う。
「悪魔の襲撃を受けたのに、ベルフェゴールのことは崇拝しているようね?」
「私が知らなかった信仰を教えてくださった方ですから」
「信仰……魔王を信仰するのは危険だと、他人事のように言ってはいけないかしら」
アニーダは多少呆れながらも、まっとうな助言をくれる。
「自分の身を守るには、魔王と距離を置いた方がいいとは思う。むしろ家族のことは忘れても、自分だけは守らなきゃ」
「でも、お姉様」
ユマは頭一つ分背の高いアニーダを仰ぎ見て言う。
「生きている限り身を捧げて、周りの方々に尽くす。これは、私がずっと人間界で学んできた天使様の教えですから」
その言葉にアニーダは無表情になって黙りこくる。
「……ふふ」
それは一瞬のことで、アニーダはすぐに朗らかな笑顔を浮かべた。
「悪魔に天使の教えを語られてもね」
「あ、そうでした。ごめんなさい」
「でも、あなたの精神構造は実に興味深い」
アニーダは再びハーブティーを喉に運んで、金の双眸を瞬かせる。それは王宮の装具のようにまぶしい輝きだった。
「あなたはそれで最初の試練を乗り越えた。村娘の純粋さを煮詰めたような、特異な精神によって」
アニーダは赤い髪を軽くかき上げて、逆の手でそっとユマの頬に触れる。
「ベルフェゴールがあなたを半妖とした理由も、わかる気がする。あなたは人間として生まれたけれど……人間としては死なない予感がするわ」
指先をユマの顎に這わせてから、アニーダは凄艶に笑った。
息を呑んでみつめるユマに、アニーダは慈しみのような、好奇心のような、不思議な感情を浮かべて告げる。
「わたくしも、あなたの誕生を楽しみにしているわ。ユマ」
アニーダはふっと息を吐いた。ユマの肩に知らず入っていた力も抜ける。
肩をすくめて、アニーダはユマの部屋の方を仰ぎ見た。
「あなたの行く先に幸運を。また会いましょう。……そろそろお帰りなさい」
「はい、こちらこそお会いできて幸運でした」
ユマは立ち上がって、丁寧に礼を取った。
ユマが東屋を出て外の風に当たると、アニーダは喉の奥で笑った。
「あなたの素直さは希少だけど、欺かれる危険も心に留めておいて」
強い風が流れてユマは目を閉じる。風でユマは頭を下げたまま、一歩後ずさった。
「強くなりなさい。天使の教えも、悪魔の小賢しさも、その純粋さで踏み越えるのよ……」
ユマが顔を上げた時、そこにアニーダの姿はなかった。ささやくような風に乗って香草の匂いが漂っているだけ。
ユマはきょろきょろと辺りを見回したが、人の気配はもうどこにも感じなかった。
(どこかへ向かわれたのかしら?)
「……戻らなきゃ」
来たときより霧はますます濃くなっていた。アニーダが話を切り上げてくれなければ道に迷ったかもしれない。
ユマは微かに残る緑の燐光を頼りに霧の中を潜り抜けると、何とか元来た道に合流する。
与えられた部屋の下まで来ると、部屋に向かって伸びているツタを見上げる。
(登りなさいと言わんばかりね! さ、登りましょう!)
ぐっと拳を握って、ユマはツタへと手をかける。
一生懸命ツタに掴まって部屋までよじ登ると、ユマは窓から中へと入った。
まさにその瞬間、部屋の扉から入ってきた影があった。
「……何をしているのですか!」
慌てたように銀豹が駆けてきて、窓を乱暴に閉める。ユマはその素早い動作に目を回して、彼女の名前を呼ぶ。
「ジャミーラさん?」
「せっかく助かった命だというのに、自ら捨てるような真似はよしなさい!」
怒りを露にするジャミーラに、ユマは嬉しくなってほほえむ。
(ジャミーラさん、私を気にかけてくださってるのね……)
ユマはそっとジャミーラに屈みこみながら言った。
「そんなつもりはありません。窓枠に座って、庭を見ていたんです」
「庭?」
ジャミーラはいぶかしげに目を光らせて、窓の方を振り向く。
「どこに庭があるのですか?」
閉ざされた窓の向こうを見て、ユマは目を見開く。
(え……)
晴れた霧の中、ぽっかりとした虚無がどこまでも続いていた。
先ほど見た花畑はなく、地面すら見えない。空をさまようように、白い空気が広がっていただけだった。
「でも、さっき確かに……」
踏みしめた地面があったはずなのに。ユマはそう言葉にするには自信がなくなって、眉を寄せる。
ジャミーラは労わりをこめた声でユマに言う。
「一睡もしていないようですね。疲れたのでしょう」
ジャミーラはユマの袖をくわえて軽く引くと、寝室の方を見やった。
「お休みなさい。人間界から来たばかりなのですから」
ユマに急速な眠気が襲ってきた。ハーブティーの香りが口の中を溶けていく。
(ジャミーラさんが仰る通り、やっぱり疲れていたのかしら。でも心が解けてきて、今なら眠れそう……)
ユマはふらふらと寝台に向かって、そのまま突っ伏す。
ジャミーラは言い聞かせるように言葉を続けた。
「夜にご案内したい場所があります。今はゆっくり過ごしていなさい」
シーツが上に被せられて、ユマはその柔らかな感触にまぶたを閉じる。
閉ざされた視界の中に浮かぶのは、金色の双眸だった。不思議な温かみをユマに寄せて、彼女は言った。
――あなたの誕生を楽しみにしているわ。
(私が再び生まれる時……)
体内に轟く魔王の力の流れを、アニーダは見抜いていたようだった。それに対しての感情をユマは知りたかったが、かの女性はたやすく隠してみせた。
(これからわかるときも来るでしょう。魔界の住人さんにとっては、私はまだ赤子に過ぎないもの)
体を取り巻く睡魔に徐々に沈んでいきながら、ユマは無邪気に微笑む。
(立派な悪魔になって、皆さんに褒めていただこう……)
ユマは大真面目に胸に誓うと、すぅっと眠りにつく。
そうしてユマは子どものように体を丸くしながら、意識を手放した。
「悪魔の襲撃を受けたのに、ベルフェゴールのことは崇拝しているようね?」
「私が知らなかった信仰を教えてくださった方ですから」
「信仰……魔王を信仰するのは危険だと、他人事のように言ってはいけないかしら」
アニーダは多少呆れながらも、まっとうな助言をくれる。
「自分の身を守るには、魔王と距離を置いた方がいいとは思う。むしろ家族のことは忘れても、自分だけは守らなきゃ」
「でも、お姉様」
ユマは頭一つ分背の高いアニーダを仰ぎ見て言う。
「生きている限り身を捧げて、周りの方々に尽くす。これは、私がずっと人間界で学んできた天使様の教えですから」
その言葉にアニーダは無表情になって黙りこくる。
「……ふふ」
それは一瞬のことで、アニーダはすぐに朗らかな笑顔を浮かべた。
「悪魔に天使の教えを語られてもね」
「あ、そうでした。ごめんなさい」
「でも、あなたの精神構造は実に興味深い」
アニーダは再びハーブティーを喉に運んで、金の双眸を瞬かせる。それは王宮の装具のようにまぶしい輝きだった。
「あなたはそれで最初の試練を乗り越えた。村娘の純粋さを煮詰めたような、特異な精神によって」
アニーダは赤い髪を軽くかき上げて、逆の手でそっとユマの頬に触れる。
「ベルフェゴールがあなたを半妖とした理由も、わかる気がする。あなたは人間として生まれたけれど……人間としては死なない予感がするわ」
指先をユマの顎に這わせてから、アニーダは凄艶に笑った。
息を呑んでみつめるユマに、アニーダは慈しみのような、好奇心のような、不思議な感情を浮かべて告げる。
「わたくしも、あなたの誕生を楽しみにしているわ。ユマ」
アニーダはふっと息を吐いた。ユマの肩に知らず入っていた力も抜ける。
肩をすくめて、アニーダはユマの部屋の方を仰ぎ見た。
「あなたの行く先に幸運を。また会いましょう。……そろそろお帰りなさい」
「はい、こちらこそお会いできて幸運でした」
ユマは立ち上がって、丁寧に礼を取った。
ユマが東屋を出て外の風に当たると、アニーダは喉の奥で笑った。
「あなたの素直さは希少だけど、欺かれる危険も心に留めておいて」
強い風が流れてユマは目を閉じる。風でユマは頭を下げたまま、一歩後ずさった。
「強くなりなさい。天使の教えも、悪魔の小賢しさも、その純粋さで踏み越えるのよ……」
ユマが顔を上げた時、そこにアニーダの姿はなかった。ささやくような風に乗って香草の匂いが漂っているだけ。
ユマはきょろきょろと辺りを見回したが、人の気配はもうどこにも感じなかった。
(どこかへ向かわれたのかしら?)
「……戻らなきゃ」
来たときより霧はますます濃くなっていた。アニーダが話を切り上げてくれなければ道に迷ったかもしれない。
ユマは微かに残る緑の燐光を頼りに霧の中を潜り抜けると、何とか元来た道に合流する。
与えられた部屋の下まで来ると、部屋に向かって伸びているツタを見上げる。
(登りなさいと言わんばかりね! さ、登りましょう!)
ぐっと拳を握って、ユマはツタへと手をかける。
一生懸命ツタに掴まって部屋までよじ登ると、ユマは窓から中へと入った。
まさにその瞬間、部屋の扉から入ってきた影があった。
「……何をしているのですか!」
慌てたように銀豹が駆けてきて、窓を乱暴に閉める。ユマはその素早い動作に目を回して、彼女の名前を呼ぶ。
「ジャミーラさん?」
「せっかく助かった命だというのに、自ら捨てるような真似はよしなさい!」
怒りを露にするジャミーラに、ユマは嬉しくなってほほえむ。
(ジャミーラさん、私を気にかけてくださってるのね……)
ユマはそっとジャミーラに屈みこみながら言った。
「そんなつもりはありません。窓枠に座って、庭を見ていたんです」
「庭?」
ジャミーラはいぶかしげに目を光らせて、窓の方を振り向く。
「どこに庭があるのですか?」
閉ざされた窓の向こうを見て、ユマは目を見開く。
(え……)
晴れた霧の中、ぽっかりとした虚無がどこまでも続いていた。
先ほど見た花畑はなく、地面すら見えない。空をさまようように、白い空気が広がっていただけだった。
「でも、さっき確かに……」
踏みしめた地面があったはずなのに。ユマはそう言葉にするには自信がなくなって、眉を寄せる。
ジャミーラは労わりをこめた声でユマに言う。
「一睡もしていないようですね。疲れたのでしょう」
ジャミーラはユマの袖をくわえて軽く引くと、寝室の方を見やった。
「お休みなさい。人間界から来たばかりなのですから」
ユマに急速な眠気が襲ってきた。ハーブティーの香りが口の中を溶けていく。
(ジャミーラさんが仰る通り、やっぱり疲れていたのかしら。でも心が解けてきて、今なら眠れそう……)
ユマはふらふらと寝台に向かって、そのまま突っ伏す。
ジャミーラは言い聞かせるように言葉を続けた。
「夜にご案内したい場所があります。今はゆっくり過ごしていなさい」
シーツが上に被せられて、ユマはその柔らかな感触にまぶたを閉じる。
閉ざされた視界の中に浮かぶのは、金色の双眸だった。不思議な温かみをユマに寄せて、彼女は言った。
――あなたの誕生を楽しみにしているわ。
(私が再び生まれる時……)
体内に轟く魔王の力の流れを、アニーダは見抜いていたようだった。それに対しての感情をユマは知りたかったが、かの女性はたやすく隠してみせた。
(これからわかるときも来るでしょう。魔界の住人さんにとっては、私はまだ赤子に過ぎないもの)
体を取り巻く睡魔に徐々に沈んでいきながら、ユマは無邪気に微笑む。
(立派な悪魔になって、皆さんに褒めていただこう……)
ユマは大真面目に胸に誓うと、すぅっと眠りにつく。
そうしてユマは子どものように体を丸くしながら、意識を手放した。