村娘は魔界で立派な悪魔を目指すようです。

8 待ってくれないひとたち

「なんだ?」
 実際、それは言葉らしいものも口にした。闇の中であるのに輝く体躯をしていて、こうもりのような赤い羽根に、短い青髪から羊のように灰色の角が生えている。
 そんな男が蛇のように長い舌を出しながら、目を月型に細める。
「中々の上玉じゃねぇか。こんな村でも襲っといて正解だったな」
 ユマが後ずさると、あちこちに似たような男がいた。
 角が生えている者、体は人間なのに牛の頭を持つ者までいる。
 ぽたりと男が手にしている槍先から、赤い血が滴った。
(まさか……まさかこの人たち)
 逃げ惑う村の者たちの怒号が遠くで聞こえて、ユマは時が止まったような感覚に陥った。
 男はにたりと笑いながらユマに手を伸ばす。
「おっと、抵抗するなよ。お前みたいな女は殺さない」
「……く」
「大人しくしてれば可愛がってやる。さ、来い」
 ユマは首を横に振りながら後ずさって……彼女なりの精一杯の力で、男を突き飛ばした。
「待て、そこの女!」
 ユマは息を吸って、踵を返して走り出した。
(あの方たちはまさか……悪魔?)
 人を誘惑し、すべてを奪うもの。残忍な快楽と純粋な欲望に身を任せて、人の道を惑わすもの、それが悪魔だと聖書は語る。
 ユマははっと喉を震わせて声を上げる。
「……レーヌ!」
 遠くに、まだ幼い従妹が逃げ惑っているのが見えた。
 必死でそこへ駆けつけようとするが、すぐさま後ろから強い力で引っ張られる。
「逃げるなって言ってるだろ?」
 先ほどの男がそこに立っていた。全力で走って息を切らすユマに反して、全く息を乱していなかった。男は嘲笑うような表情でユマの腕を掴む。
 ユマは首を横に振って男の手から逃れようとする。
「従妹が、あの子が危ない!」
「関係ねぇよ。ま、安心しな。見目のいい女は連れて行くからな」
「まだ子どもなんです!」
 顔を歪めて訴えるユマに、男は心の底から楽しげに声を上げる。
「じゃあ死ぬな。はははは!」
 地を覆う蛇や、行き交う男たちに飲み込まれてレーヌの姿は見えなくなる。
「は、離してください!」
「うるせぇな。一度痛い目見ねぇとわからないか?」
 突き飛ばされて上に圧し掛かられる。
 ふいに石のように硬く、血潮のように生ぬるい手がユマの体をまさぐった。
「いい胸してるじゃねぇか。触ってくれと言ってるようなもんだろ?」
 乱暴に服の上から胸を掴まれて、ユマは生理的に鳥肌が立った。
 周囲の男たちは面白いものを見るような目をして傍観している。彼らは先ほどまで生きていた、村の住人の死体を踏みつけていた。
 男は先が分かれた舌を動かして笑う。
「うまそうな肌だ。早速頂くとするか」
 ユマの体の芯から、恐怖が衝いた。ユマは身を奪われる恐れに体を固くした。
(たすけて……!)
 誰にともなく心で助けを呼ぶ。
 襟からユマの服が破かれる音がした時だった。
「……お止めなさい」
 凛とした女性の声が男を制止した。男は反射的というように声を上げる。
「なんだよ、邪魔すん……」
 不機嫌に振り返った男が、そのままの体勢で凍りつく。
 男の突き出た喉仏がごくりと動いた。静止した男に、声は冷厳に続ける。
「私に命令するつもりか?」
「い、いえ。とんでもない!」
 大慌てで男が否定すると、声は矢のように飛ぶ。
「彼女を解放しなさい。お前の主の所へ帰るがいい」
「は!」
 一度だけユマを見て舌打ちすると、男は慌ててこうもりの翼で飛び去って行った。まるでそうしなければ自分も蛇や毒虫たちに食われてしまうかのようだった。
 後に残ったユマは、状況がわからないままお礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
 ユマの声が揺れたのは、彼女も人の形をしていなかったからだ。
 女性の声……しかしそれを発しているのは流れるような毛並みの銀豹だった。彫像のように凛々しい面差しで、淡く青の混じる灰色の瞳をしている。
 ユマはどう声を掛ければいいのか迷っていると、それは先ほどの女性の声で告げた。
「誤解のないよう。あなたを助けたわけではありません」
 冷たく言い放ち、彼女は灰色の瞳でユマを見つめる。
「我が王に捧げる前に、あのような下衆に汚されるわけにはいかないから」
「王……?」
「偉大なる魔の君。私が隷属し、帰属するもの」
 ユマはそれを聞いて一息だけ考えると、恐れを消してはっきりと口にした。
「……あなたも悪魔なのですね」
「その通り。虚構と偽善に満ちた天使の対極に当たるもの」
 銀豹は目を細めて天を仰ぐ。ちょうど空が真っ二つに割れたところだった。
 銀豹はそれをみつめながら面倒そうにつぶやく。
「来た」
 天から光の結晶のような人影が次々と舞い降りてきていた。
 それは無数に降り注ぐ宝石のようであり、燐光をまといながら地上へ散っていく。
 ユマは目を凝らしたが、あまりのまぶしさに姿を捉えることができなかった。
 銀豹は軽く鼻を鳴らしてつぶやく。
「天使軍も今回は嗅ぎ付けるのが早い。エクリプスの夜だからか」
 彼女はゆっくりと歩み、足先で地に何かを描いていく。
 けれど線としては残らないまま彼女は歩き終えて、顎を上げて立った。
「我が名はジャミーラ。道を開けよ」
 突き上げるような、一瞬の激しい揺れがあった。
 地響きがして、ユマの足元が歪み始めた。円でも三角でもない、奇妙な線で彩られた文様が浮かび上がる。
 ジャミーラはそっけなく、どこか暗い声で呟いた。
「あなたを魔王、ベルフェゴール陛下の元へお連れします」
「え、えええ……っ!」
 ユマは激しくうろたえて、天を仰ぐ。
 光の粒が無数の蛇や毒虫、そして悪魔たちを飲み込んでいく光景を食い入るようにみつめて、慌てて訴えた。
「せ、せめて、天使様の姿を拝見してからでもよろしいですか!」
「何を言っているのですか?」
 怪訝そうなジャミーラに、ユマは懇願するように言う。
「だって、この期を逃したら一生お会いできないかもしれない……!」
 ユマに首を傾げながら、ジャミーラは続ける。
「待てません。参りますよ」
「あっ!」
(悪魔さんはせっかちなのね……)
 惜しそうに鼻をすすって、ユマは地底に続く渦に飲み込まれていった。
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