『ル・リアン』 ~絆、それは奇跡を生み出す力!~ 【新編集版】
須尚正(すなお・ただし)
須尚正
1966年3月に中学を卒業後、最上とは別の高校に進学した。
平均的なレベルの都立高校だった。
特記すべきようなことがほとんどないありふれた毎日だったが、唯一頑張ったのが受験勉強だった。
入りたい大学があったからだ。
というより、入りたいゼミだった。
そこの出身者に憧れの人がいて、その人はヒット曲を連発する敏腕プロデューサーだった。
それを音楽雑誌で知った時、2年生の冬休みだったが、俄然やる気になった。
文字通り寝食を忘れて勉強に没頭した。
レコード会社に就職するのは中学の時からの夢だった。
好きなことを仕事にできればこれ以上のことはないと思っていた。
それに、音楽への情熱は誰に負けないと自負していた。
中学から高校にかけては毎日ラジオから流れる洋楽を必死になって聴いた。
特にロック音楽が大好きだった。
中でもギタリストの速弾きに憧れていた。
ディープパープルのリッチー・ブラックモア、レッドツェッペリンのジミー・ペイジ、そして、エリック・クラプトンやジェフ・ベックの演奏を夢中になって聴いた。
聴くだけでなく、彼らの真似をした。
必死になってコピーをした。
お年玉を貯めて買った中古のエレキギターとアンプが宝物だった。
時々、「うるさい!」と両親に叱られながらも、毎日何時間も練習した。
レコードや楽譜は自分の小遣いでは買えなかったから、親に泣きついて買ってもらった。
それを何度も聴いて、楽譜と首っ引きになって、ギターで再現した。
すると、少しずつ弾けるようになった。
弾いていない時も指を動かし続けた。
少しでも速く弾けるように右手に持ったピックを上下に動かし続けた。
彼らに近づきたい、その一心で練習に明け暮れた。
そして、大学に入ったらロックバンドを組むことを決めていた。
しかし、やっとの思いで入学できた大学にはロックバンドが活動するサークルはなかった。
フォーク音楽サークルや軽音楽部、吹奏楽部はあったが、そこに入る気はまったくなかった。
なんでロック音楽のサークルがないんだよ!
ブチ切れそうになったが、
どうしようもなかった。
1966年3月に中学を卒業後、最上とは別の高校に進学した。
平均的なレベルの都立高校だった。
特記すべきようなことがほとんどないありふれた毎日だったが、唯一頑張ったのが受験勉強だった。
入りたい大学があったからだ。
というより、入りたいゼミだった。
そこの出身者に憧れの人がいて、その人はヒット曲を連発する敏腕プロデューサーだった。
それを音楽雑誌で知った時、2年生の冬休みだったが、俄然やる気になった。
文字通り寝食を忘れて勉強に没頭した。
レコード会社に就職するのは中学の時からの夢だった。
好きなことを仕事にできればこれ以上のことはないと思っていた。
それに、音楽への情熱は誰に負けないと自負していた。
中学から高校にかけては毎日ラジオから流れる洋楽を必死になって聴いた。
特にロック音楽が大好きだった。
中でもギタリストの速弾きに憧れていた。
ディープパープルのリッチー・ブラックモア、レッドツェッペリンのジミー・ペイジ、そして、エリック・クラプトンやジェフ・ベックの演奏を夢中になって聴いた。
聴くだけでなく、彼らの真似をした。
必死になってコピーをした。
お年玉を貯めて買った中古のエレキギターとアンプが宝物だった。
時々、「うるさい!」と両親に叱られながらも、毎日何時間も練習した。
レコードや楽譜は自分の小遣いでは買えなかったから、親に泣きついて買ってもらった。
それを何度も聴いて、楽譜と首っ引きになって、ギターで再現した。
すると、少しずつ弾けるようになった。
弾いていない時も指を動かし続けた。
少しでも速く弾けるように右手に持ったピックを上下に動かし続けた。
彼らに近づきたい、その一心で練習に明け暮れた。
そして、大学に入ったらロックバンドを組むことを決めていた。
しかし、やっとの思いで入学できた大学にはロックバンドが活動するサークルはなかった。
フォーク音楽サークルや軽音楽部、吹奏楽部はあったが、そこに入る気はまったくなかった。
なんでロック音楽のサークルがないんだよ!
ブチ切れそうになったが、
どうしようもなかった。