野獣と噂の王太子と偽りの妃
軽く休憩するつもりだったが、疲れが溜まっていたのか、いつの間にかマルクスはぐっすり寝入っていた。

ふと目が覚めると辺りは真っ暗で、一体ここはどこなのかと不安に駆られる。

「…プリムローズ」

思わず呟くと、カチャッとかすかな音と共にドアが開いた。

ほのかな灯りが隣の部屋から射し込み、プリムローズが顔を覗かせる。

「どうかなさいましたか?マルクス様」

プリムローズの優しい声に、マルクスは心から安堵して頬を緩める。

「プリムローズ、ここへ」
「はい」

ベッドに近づいてくるプリムローズを待ち切れず、手を伸ばして抱き寄せた。

枕元にひざまずくプリムローズの髪を何度もなでて、幸せを噛みしめる。

「よかった、そなたがいてくれて。ここに帰って来られて、本当によかった」

なぜだか分からないまま、マルクスはそんな言葉を繰り返す。

プリムローズは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

「はい。わたくしもマルクス様が帰って来てくださって、本当に嬉しいです」
「プリムローズ…」

マルクスの心に、しびれるような切なさが込み上げてくる。

プリムローズの柔らかい手を握ると、マルクスは視線を落としてから話し出した。

「俺は今まで、生きることに幸せを見い出せなかった。戦いの最前線で命を散らしても構わない。この国の役に立って死ねるなら本望だと思っていた。だが今は、そなたのもとに帰りたいと願ってしまう。そなたの笑顔を見たい。そなたの手に触れたいと。プリムローズ…。そなたといれば、生きる喜びを感じられる。俺は、幸せなんだと」

そう言ってマルクスが戸惑うように視線を上げると、プリムローズは優しく微笑んで頷いた。

「わたくしもです。ローレンの家を出て、わたくしはただ心を閉ざして生きていくつもりでした。己の命と引き換えに生んでくれた母の為にも、懸命に生きていこう。幸せなど望まない。命を全うするその時まで、ただ必死に毎日を過ごそう。そう思っていました。ですが今は、マルクス様のそばにいられることが何よりも嬉しくて。マルクス様に名を呼ばれると、心から幸せを感じます。生きていてよかったと」
「プリムローズ…」

マルクスは胸に込み上げる愛しさのまま、プリムローズを抱き寄せようとする。

だが、ハッとして手を緩めた。

(そうだ。プリムローズはいつでも好きな時に、ここを出て行く約束だった。プリムローズは俺の…、偽りの妃候補なのだから)

マルクスは目を伏せると、慈しむようにプリムローズの手を握る。

今のマルクスには、ただそうすることしかできなかった。
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