『ブレッド』  ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~【新編集版】
 殺風景な部屋のテーブルの上には未開封の『牛たん弁当』が置かれていた。
 会社が長期契約したワンルームマンションに帰ってからもフローラに食欲が戻ることはなかった。
 そんな状態だから、テレビを見る気も起きなかった。
 しかし、音のない世界に長くいると心が折れそうだった。
 CDコンポのリモコンを手に取って、パワーボタンをONにした。

 CDをセットして再生ボタンを押すと、厳かなトランペットの音が流れてきた。
 弦からプレゼントされたCDだった。
『ITALIA』
 純白のシャツにネイビーの上着を纏ったクリス・ボッティの涼やかな目がフローラを見つめていた。

 世界で最も美しいトランぺッター、

 間違いなくその評判通りだと思ったが、フローラが惹かれることはなかった。

 ユズルの方が若くてハンサムだわ、

 突然そんな言葉が心の奥から湧き出てきて、思わず手を口に当てた。
 ユズルのことをそんなふうに思ったのは初めてだった。
 いままでは可愛い弟としか思っていなかったのだ。

 心が揺れているせいだと思った。
 掴まる何かが欲しかった。

 ユズルが日本に居てくれたら……、

 そんなことはあり得ないのに、すがるような思いでユズルを呼んだ。

 今すぐ来て、

 しかし、クリス・ボッティの物悲しい音色しか寄り添ってくれるものはなかった。
 
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