『ブレッド』  ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~【新編集版】
       未来へ

「僕がこの店を継ぐ」

 弦の送別会が終わろうとしていた時だった。
 ルチオの送辞に誰もが感動している中、アンドレアがいきなり立ち上がって宣言した。

「継ぐって……」

 アントニオがもう少しで椅子から落ちそうになったので、隣に座る弦が慌てて支えた。

「アンドレア……」

 ルチオは泣き笑いのような顔をしていた。

「音楽はどうするの?」

 問いかけた奥さんの口が開いたままになった。

「ジュリアードはやめる。音楽は趣味にする。一人前のパン職人になって、この店をニューヨーク一のベーカリーにする」

 今まで見せたことのないような引き締まった表情だった。

「でも……」

 弦はアンドレアに音楽を続けてもらいたかった。
 自分よりはるかに才能がある彼に活躍してもらいたかった。
 しかし、日本に帰る自分に偉そうなことを言えるわけはなく、口籠ったままアンドレアを見つめるしかなかった。

 そんな心の内を察したのか、「思い付きで言っているんじゃないんだ」ときっぱりと言い切った。
 しかし、すぐに辛そうな表情になって、「パパが病気になった時、本当なら僕が店を手伝わなければいけなかった。でも、ユズルの好意に甘えて僕はなんにもしなかった。音楽に逃げたんだ」と自分を責めた。
 そして、「家族の一員として、いや、そもそも人として最低だった。他の誰でもないパパやママやグランパが困っているのに、僕は自分のことしか考えなかったんだ」と嫌だ嫌だというふうに首を横に振った。
 更に、「もう二度とこんな思いはしたくない。薄情者にはなりたくない」と声を強めて視線を弦に向け、更に何か言おうとするように口が動いた。
 でも、声は出てこなかった。
 どうしたのかと思っていると、いきなり目を瞑って何かを確かめるような感じで瞼に力が入ったように見えた。
 しかし、そこで動きが止まった。
 それでも少しして小さく頷くと、目を開けてまた弦を見た。

「ギヲミテセザルハユウナキナリ」

 ゆっくり一語一語発したその言葉は間違いなく日本語になっていた。
 何度も練習したに違いなかった。
 それだけでなく、自らのものにしようとしているのが手に取るようにわかった。
 だからこそ、アンドレアの想いを強く感じた。
 何も心配せずに日本に帰れ、という強いシグナルを送ってきたのだ。

「あとのことは俺に任せろ」

 アンドレアが胸を張った。

 その表情を見て、グッときた。
 何も言えなくなって無言でアンドレアを見ていると、ルチオがアンドレアの左肩に手をかけ、ぐちゃぐちゃの顔で弦に向かって頷いた。
 横を見ると、アントニオも奥さんも同じようにぐちゃぐちゃになった顔で弦に向かって頷いた。

「掴んだら絶対離すなよ」

 逃がしたら許さない、というような強い声に弦は胸が詰まったようになり、それを解こうとして無理矢理笑ったが、うまく笑えなかった。
 泣き笑いのような顔で頷くのが精一杯だった。

< 167 / 169 >

この作品をシェア

pagetop