『ブレッド』  ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~【新編集版】
 しばらくして「んん」というくぐもった声が老人の口から漏れた。
 なんとか気を取り直そうと努めているようだった。
 それから心を落ち着かせようとするかのように静かに長く息を吐いた。
 そして息を吸い込むと、濡れた視線を弦に向けてきた。

「日本の方ですか?」

 まだ涙声だった。
 弦は僅かに頷いた。

「そうですか……」

 顔中を皺だらけにした老人が視線を落とした。

「日本が大変な時なのに……、こうしてここで祈りを捧げてくれるなんて……」

 目を瞑って静かに頭を下げた。
 東日本大震災のことを言っているようだった。

「今でも大変なんでしょう?」

 労わるような声に頷きで返した。

「お怪我はなかったですか?」

 また頷き返すと、「原発は……」と言いかけて老人は口に右手をやり、言ってはいけないことを口にした自らの愚行を戒めるような表情になった。

 弦はゆらゆらと首を横に振ることしかできなかった。
 あの大震災からまだ半年しか経っていないのだ。
 衝撃と心痛はまだ減衰する気配を見せていなかった。

「辛いことを思い出させてしまって……」

 語尾が薄れて消えた。
 弦は強く頭を振った。
 老人に悪意があったわけではない。
 それどころか震災と原発事故の影響を心配してくれる温かな想いに溢れているのは間違いないのだ。
 だから、決して気を悪くしているわけではないことを伝えたかったが、それを表現する言葉が見つからなかった。
 弦はただ頭を下げてその場をあとにした。

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