『ブレッド』  ~ニューヨークとフィレンツェを舞台にした語学留学生と女性薬剤師の物語~【新編集版】
「相変わらず忙しい?」

 ウェスタが訊いた。

「あなたほどではないけどね」

 肩をすくめたフローラが言葉を継いだ。

「それよりこの前の続きを聞かせてよ」

「続きって……、あっ、わかった。パンの歴史ね。この前はどこまで話したかしら?」

「メソポタミアからエジプトに伝わって、パン生地を一晩寝かせたら美味しくなることを発見した女の人がパン屋さんを開業して、秘伝を守り続けたら代々繁盛したというところまでよ」

「そうだったわね、思い出した」

 ウェスタはフレスコバルディを一口味わって幸せそうな表情を浮かべたあと、グラスを置いて続きを話し始めた。

「死後のパンって知ってる?」

 フローラは首を横に振った。

「古代のエジプトでは死後の世界があると信じられていてね、亡くなった王様が食べられるように棺の中にパンを入れたらしいの。だから死後のパンと呼ばれているのよ」

 すると、ツタンカーメンの棺にパンが入れられている光景が思い浮かんだ。

「それって、あの時に見つかったの?」

 3000年以上の時を経て棺が発見された時に死後のパンが見つかったかどうか知りたくなった。
 しかし、ウェスタは〈知らない〉というふうに肩をすくめて、「何もかも明らかになることがいいとは限らないからね」と悪戯っぽく笑った。
 確かにその通りかもしれないとフローラは思った。
 想像を膨らませる楽しみは格別だからだ。
 なので死後のパンをツタンカーメンが頬張っている姿を思い描いて古の時代にタイムトリップしたが、「ところで」というウェスタの声で今に戻された。

「肥沃なナイル川の流域では小麦がよく育ったからパン造りが盛んになって、それを見た他国の人たちがエジプト人を『パンを食べる人』と呼ぶようになったのよ」

 それを聞いてツタンカーメンの姿が消え、代わって上半身裸で腰布だけを身に着けたエジプト人がパンをこねて焼いている姿が脳裏に浮かんだ。 

「次にパン造りが盛んになったのはギリシアと言われているわ。今から2800年ほど前らしいんだけど、釜の改良など色々な工夫をしたらしくて、パンの製造技術が格段に向上したようなの。だから何十種類ものパンを焼いていたようよ」

 その中にはブドウやイチジクなどを入れた菓子パンや魚の形をしたパンなどがあったという。

「ギリシアでは水車による製粉も始まったのよ。確か、紀元前450年頃だったと思うわ。人の手では限界があった小麦粉の大量生産が始まったのよ。それから色々な工夫がされてきたんだけど、大きな変化が現れたのは12世紀になってからなの。風車が使われるようになったのよ。でもそれからしばらくは技術革新は起こらなかったのだけど、18世紀に入るととんでもないものが発明されたの。蒸気機関の登場ね。これによって更に大量の小麦粉が作られるようになったの」

 産業革命か~、とフローラが呟いた時、オーナーがメイン料理を運んできた。

「メディチ家ゆかりの料理をご用意しました」

 ソテーしてスライスされた鴨肉の上にオレンジピールが乗って華やかな色合いを添えていた。

「カテリーナ・デ・メディチも召し上がっていた『鴨のオレンジソース』です」

 フランス国王アンリ2世に嫁いだカテリーナが最高の料理スタッフと共に持ち込んだ料理の一つがこの鴨料理だった。

「500年の時を経て私たちの口に入るなんて……」

 ウェスタが感慨深げに噛みしめたので、フローラは思わずグラスを上げた。

「ご先祖様に感謝!」

 ウェスタがそれにカチンと合わせて敬意を表するような笑みをオーナーに送ると、彼はまたボウ&スクレイプで応えて厨房へ戻っていった。

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