おやすみ、僕の眠り姫


 そんなある日。

 彼女の家。賃貸マンションの1DK。玄関のドアが開くと、いい匂いにつつまれた。
「おかえりなさい」
 彼女が笑顔で迎えてくれた。ここは僕の家じゃないのに『おかえりなさい』。
 ここには毎日のように来てしまっている。でも『おかえり』は初めてだった。
 驚いて止まってしまった。反応がないからか、彼女が?という顔をする。
「どうかした?」
「あ、いや……なんでも……」
「そう?」
 首を傾げながら奥に行く。
 その背中を抱きしめたい衝動にかられて、なんとか抑える。落ち着け。

 『おかえりなさい』って、僕がここに来ることを受け入れてくれてるってことだよな。
 嬉しい。
 もしかしたら頻繁に来ると迷惑かも、と思っていたから、凄く嬉しい。

 奥の部屋に入ると、いい匂いは濃さを増した。
 洋風の、コンソメの匂い。
 彼女はキッチンで料理をしている。
「手、洗った?先にお風呂入って。さっぱりしてから食べよう」
「……うん」
 言われた通りに洗面所へ行き、手を洗う。

 なんだろう。彼女の様子がいつもと違う。
 出迎えてくれるのは同じ。でもいつもは『お疲れ様』。
 夕食は、作ってくれる時もあるけど、休日に限る。仕事の日は外食かテイクアウトで済ませる。僕がいる時は、だそうだ。1人の時は大抵お茶漬けらしい。今日は金曜日で週末と言っていいのだろうけど、普通に出勤日。それなのに料理をしている。
 素直に嬉しいことなんだけど、腑に落ちない。
 急に、どうしたんだろう。何かあったんだろうか。

 考えながら風呂を出ると、もう料理は終わっていた。
 テーブルの上には、トマトとアボカドのサラダ、春巻き(だと思う)、オードブルっぽいもの、アヒージョ(多分)、リゾット(コンソメの匂いの元はおそらくこれだ)、作り置きのナスのナムル。そしてワイン。
 見ただけではなんの料理だかわからないけど、色とりどりでおいしそうだ。
「座って。食べよう」
 彼女は笑顔で言うけど。
「風呂、入ってきなよ」
「私は食べてから」
 そう言って、ワインを注いでくれた。
「はい、乾杯」
 にこにこしている彼女は可愛い。
 とりあえずグラスを合わせる。
「これは、レタスとベーコンの春巻き」
「ああ、この前作ってくれたやつ」
「そう。ナスもあるよ」
 そうか。並んでいるのは、僕の好きなものばかりだ。
「作り置きだけど。食べないと悪くなっちゃうしね」
 えへへと笑う。
 そして、いろいろ取り分けてくれる。これも、普段はやらない。自分の分は自分で、だったはずだ。
 本当に、一体どうしたんだろう。
 彼女の顔を見てみても、ご機嫌だということくらいしかわからない。
 ご機嫌ならまあいいか、と食事を進める。
 普段やらないだけで、彼女は料理上手だ。それだけではなく、彼女の作る味は僕好み。だから、彼女の手料理は純粋に嬉しい。
 変わらず美味しいな、と思っていたら、彼女が僕の顔をのぞき込んだ。
「どうかした?」
「あの、美味しい?」
 どうしてそんなに探るようにしてるんだろう。
「うん」
 美味しいのは事実なので、即答する。
「良かった」
 彼女は安心したように微笑む。
 そして、ワインを一口飲んだ。
「……今日、何かあった?」
 思い切って聞いてみる。
 もしかして、仕事で何か嫌なことでもあっただろうか。
「え、ううん、何もないよ」
 にこにこ答えるけど、それは嘘だ。それくらいはわかる。
 彼女は気まずそうに目をそらした。嘘だとわかったのがわかったらしい。
「……あの……あのね……」
 次の言葉がなかなか出てこない。
 なんだろう。そんなに言いにくいことなんだろうか。

 言いにくいこと……もしかして、別れ話?この料理は最後の晩餐のつもりとか?
 そんなの嫌すぎる。

 そもそも僕は彼女の恋愛対象に入っていなかった。会社の後輩で、7歳も年下。そして会長の次男ということで目立っていた僕を、彼女は『自分とは縁が無い、遠くの人』と思ってしまい、僕が好意を伝えても、同僚・後輩の枠から全く出られなかったのだ。
 それでも僕は伝え続け、やっとのことで彼女も僕の好意を受け取ってくれたのに。

 やっぱり、僕は対象に入らなかったとか、そういうことだろうか。

 彼女の側にいられなくなる。考えただけで体が固まる。嫌だ。



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