買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される

3・覚悟の時

 遼介に契約結婚を提案されてから五日後。
 昼休みの時間を利用して、実音は秘書室の自席でスマホを眺めていた。
 一応の食事として、忙しい時用に買い置きしてあるシリアルバーは出してあるけど、手に取る気にはなれない。
 普段、お昼を一緒に過ごすことが多い芽衣子は、営業部長と共に終日出ている。一人で食事をする実音を気遣って、他の同僚がランチに誘ってくれたのだけど、調べたいことがあったので遠慮させてもらった。
 ヤガミのオフィスは全体的には開放的な造りをしているのだけど、秘書室を含め情報の機密性に配慮する必要がある幾つかの部署だけは個室対応となっている。
 もともと日中は人がすくなくなる部署だけど、昼休みの今は、実音の他にもう一人男性社員がいるだけだ。
 持参した弁当を食べる彼は、席が離れていることもあり、こちらに話しかけてくることはない。だから実音も、彼の存在を半分忘れてスマホを操作していた。
(会社を建て直すって、どうすればいいのかな?)
 有坂テクトの実情を聞かされてから今日まで、実音は、自分になにかできることはないかと悩み続けている。
 そのとっかかりを探すべく、思いついたキーワードを検索したりしてみるのだけど、手応えを感じられるようなものはない。
(やっぱり、私にできることなんて、なにもないのかな?)
 もちろん、実音だって本気で、無知な自分が少し考えたくらいで解決策を見付けられるなんて思ってはいない。
 それでも自分の中で決めたタイムリミットまで、全力で足掻いてみて、そのうえで最後の決断をしようと決めていたのだ。
 そのタイムリミットが目前に迫っているからこそ、時間を無駄に消費するだけで、答えの出せない状況に焦りを感じる。
「有坂君、食事はそれだけか?」
「――ッ!」
 休憩時間に入ってから三十分以上、検索しては落胆するという作業を繰り返していた実音は、突然頭上から聞こえてきた声に飛び上がりそうなほどに驚いた。
 声にならない声をあげて、背後を確認した彼女は、そこにいる人の姿を確認して目を丸くした。
「CEO、今日は出社されないのではなかったのですか?」
 海翔の帰国は、今日の夜の便のはず。だから今日は、そのまま帰宅して、出勤は明日からになると認識していた。
 秘書の自分が、彼の予定を間違えるはずない。
 そんな戸惑いがはっきり顔に出ていたのか、海翔は楽しげに目を細めて言う。
「予定より早い便に乗れたから、袴田は帰したが、俺は一応、出勤しておこうと思ってな」
 そう話す彼は、一応スーツを着ているが、ネクタイを締めておらず、シャツのボタンの上二つを開けている。
 おそらく、帰国したその脚で出社したのだろうけど、ネクタイをしていないだけで、いつもよりかなりラフな印象を受ける。
「ご連絡いただけばよかったのに」
 彼の帰国が早まったという連絡は、先輩秘書の袴田からも受けていない。
 おそらくは海翔が、袴田に連絡しないよう命じたのだろう。
「ちょうどいいから、抜き打ちチェックでもしてみようと思ってない」
 冗談とわかる口調で答えて、彼は、実音同様CEOの突然の登場に驚いて急ぎ駆け寄ってきた男性社員に、課の皆でわけるようにと土産を手渡す。
 お礼を言ってそれを預かった男性社員が、室長のデスクへとお土産を置きに行くと、その隙にといった感じで実音に小さな紙袋を有坂に差し出した。
「これは有坂君に」
「え……?」
 桜の花を連想させる薄いピンク色の紙袋の中身は香水だと、海翔が教えてくれた。
 これまでの出張で、彼から個人的なお土産をもらったことはない。
 だから、差し出されたそれを本当に受け取っていいかわからず、紙袋を前に固まっていると、海翔が困ったように笑って言う。
「この一年、頑張ってくれたお礼と、これからもよろしくというお願いだ」
 彼のさりげない気配りが、今の実音には痛い。
「ありがとうございます」
 ぎこちなく笑って紙袋を受け取った実音は、それをしまおうとデスクの足下に置いてあったバッグを開いた。
 そしてそこに入れてあった白い封筒が目に入り、身動きできなくなる。
「有坂君……」
 戸惑いを感じさせる声に顔を上げると、普段は切れ長の目を見開き、驚きの表情浮かべる海翔と目が合った。
 背の高い彼にも、バッグの口から顔を覗かせている封筒の文字が見えてしまったらしい。
(もう、覚悟を決めなきゃ駄目だよね)
 封筒に書かれた『退職届』の文字を視線でなぞり、自分にそう言い聞かせて、実音は海翔へと視線を移した。
「お忙しい中申し訳ありませんが、少しお時間をいただきたい話があります」
「そのようだな。俺のオフィスで話そう」
 海翔は全てを察した顔でうなずくと、実音に自分に着いてくるよう合図した。
 退職届の封筒が入ったバッグを肩にかけ、その後に続く実音は、数日前、兄の奏太と話した次の日のことを思い出していた。
 本人の言葉どおり、翌日の早朝には兄の姿はなく、リビングには憔悴しきった父と、不安げな顔をした母の姿しかなかった。
 そんな両親の姿に覚悟を決めた実音は、父を書斎に呼び出し、向こうの要望を全て飲む形で遼介との縁談を進めてもらって構わないと伝えた。
 その言葉を聞いた瞬間、父は、一瞬だけ痛みを堪えるような顔をしたが、すぐにその表情を安堵したものへと変化させた。
 娘の幸せより、自身の保身を選んだ父になにも感じていないと言えば嘘になる。だけど実音には、家族を見捨てることも、兄一人に問題を押し付けることもできないのだから、これしか選択肢はないのだ。
 ただ一つの条件として、遼介に返事をするのは五日間だけ待ってほしいと頼んだ。
 その理由としては、海翔が出張中で退職の話ができないからということにしておいたけど、本音としては小松メディカルの支援なしに会社の建て直しができるならそれが一番だと思ったからだ。
 だけど自分の中でタイムリミットと定めていた海翔の出張が終わったのだから、もう覚悟を決めなくてはいけない。
 父としては、兄の横槍を防ぐためにも、彼が帰国するまでに結納を済ませ、可能であれば先に籍も入れられればと考えている。
 だから今日、実音が退職届を出せば、遼介との結婚準備は一気に加速していくことになるだろう。
 A4サイズの書類も入る肩掛けタイプのバッグの中身をチラリと覗くと、先ほど彼から贈られたお土産の袋が見える。
 今回の海翔のスケジュールはかなりタイトなものだった。それでも自分のためにお土産を選んでくれたのだ。
 それは、実音のこの先に期待しているという意思表示でのある。
(CEOの期待を裏切っちゃった……)
 それを思うと、胸を締め付けられるような苦しみを感じるけど、自分が遼介との縁談を断ったことで、有坂テクトが倒産したら、どのみち実音は海翔のもとで仕事を続けるなんてできない。
 有坂テクトが倒産となれば、多くの人の人生設計を狂わせることになるだろう。
 子供の頃海翔が感じたような苦しみを、他の誰かに味合わせてしまうようなことがあれば、自分で自分を許せなくなる。
 だから実音は、遼介との結婚の先に幸せなどないとわかっていても、決断するしかないのだ。
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