買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 自分専用の執務室にあるソファーに実音と向かい合って座る海翔は、息を吐いて眉間を揉んだ。
「結婚に向けての準備があるので、急ぎ退職をしたいと……」
 先ほど彼女から聞かされた内容を確認すると、実音は深くうなずく。
 日本を離れる直前まで、活き活きと仕事に取り組んでいるように見えたから、その申し出は意外だった。
 もしかして妊娠出もしたのかと思い、福利厚生を口実に聞いて見たが、そうではないと言う。
「急な話で申し訳ありません」
 実音は、膝の上で手を重ねた姿勢で深く頭を下げる。
 相変わらず美しい彼女の所作に、そんな場合ではないと思いつつも、つい目が行ってしまう。
「イヤ。これは謝るようなことじゃない」
 海翔は軽く首を横に振った。
 経営者として、将来性を期待していた社員に突然やめられるという経験は、これまでも経験している。
 相手に期待してくるからこそ、ショックを受けないと言えば嘘になるが、人それぞれに事情があるのだから、それは仕方のないことだ。
 ましてや実音は、当然のように許嫁がいる良家の娘なのだから、いつこういった話が出てもおかしくなかったのだ。
 それなにに、二人の間に置かれたテーブルの上にある退職届を前に、ひどく動揺している自分がいる。
「もし仕事を続けたいと思うのなら、相手と話し合ってみてはどうだ? 部署異動や働き方の調整など、できる協力はする」
 らしくないと思いつつも、勝手にそんな言葉が口を突く。
 海翔のその言葉に、実音は困ったように笑った。
「正直に言えば、大好きな仕事への未練はあります。CEOのもとで、もっとたくさんのことを学びたたとは思いましたけど、家族のためにも、夫となる人の希望を一番に尊重したいと思います」
 つまり彼女は、自分の下で働くことに未練を感じつつも、夫となる男の言いなりとなって仕事を辞めるということだ。
 そのことに、言いようのない苛立ちを感じるのは何故だろう。
「本当にそれでいいのか?」
「もう、決めたことですから」
「君の頑張りを評価せず、価値観を押し付けるように退職を求める男と結婚して幸せか?」
 迷いのない彼女の姿勢に、自分に引き止める権利はないとわかっていても、ついそんなことを言ってしまう。
 その言葉に、実音が驚いた顔をした。
 こちらを見つめる彼女の瞳の奥で、大きく感情が揺れ動く。
 唇を引き結び、一瞬泣き出しそうな顔をした実音が、それでも不器用に微笑む。
 その姿に、海翔はバカげた発言をした自分を恥じた。
(夫になる人を批判したんだ。彼女が怒って当然だ)
 しかし、相手が自社のCEOだからと、無理して感情を飲み込んだのだろう。
 実音の表情の変化をそう解釈して、海翔は視線を落として謝罪する。
「勝手なことを言って、悪かった」
「お気になさらないでください。CEOの発言が、私を評価してくれているからのものとわかっていますから。逆に、そんなふうに高く評価してもらえて嬉しいです」
 感情任せな海翔の言葉に、実音が誇らしげな表情を見せてくれるからよけいに胸が痛くなる。
「事情は理解した。では、早急に退職の手続きを進めさせてもらう」
「ありがとうございます」
 再度頭を下げ、実音が立ち上がったので、海翔も立ち上がり、彼女を戸口まで見送ろうとした。
 海翔がドアノブに手をかけた時、実音がこちらを見上げ、もの言いたげな視線を向けてきた。
「どうかしたか?」
「CEO、少し変なお願いをしてもいいですか?」
「……?」
 意味がわからないまま、視線で先を促すと実音が言う。
「CEO、以前私に『人間は、苦労した分幸せになれる。だから幸せになることを諦めるな』って、話されていましたよね?」
「ああ」
 正確に言えば、海翔が祖父に言われていた言葉だ。
 自分は比較的楽観的な性格をしているとは思うが、会社をこの規模に成長させるまでの間、それなりの苦労はあった。
 それでもここまで頑張ってこれたのは、祖父のその言葉があったからだ。
 うなずく海翔に、実音が言う。
「その言葉は、恋愛にも当てはまるって考えてみませんか? 辛い思いは全て過去のことで、この先は恋愛でも、最高に幸せなハッピーエンドが待っていると信じてみてください。そうしたらきっと、幸せな未来が待っているはずです」
「ずいぶん、奇妙なお願いだな」
 想定外のお願いに、つい笑ってしまう。
 そんな海翔の反応に、実音は真顔で「CEOには、幸せな結婚をしてほしいんです」と返した。
 それはつまり、自分が幸せな結婚をするから、独身主義の海翔が心配になったということなのだろうか……
 普段なら、大きなお世話だと文句を言いたくなるところだけど、相手が実音だと不快な気分にならないから不思議だ。
「前向きに善処しておくよ」
 去りゆく者の餞の言葉として受け取り、彼女の背中をポンと叩いた。
「約束ですよ」
 軽い口調で返す海翔に、実音が疑わしげな眼差しを向けてくる。
「信頼を寄せていた部下の最後の金言として、心に留めておくよ」
 海翔としては、真面目に言ったつもりだったのだが、実音はますます不満げな顔をする。
 自然と人の心を和ませるこの顔を見るのもあと少しだと思うと、ひどく胸が軋んだ。
 胸に湧く感情を振り払うために、海翔は首を捻り置き時計の時間を確認する。
「昼休みを潰してしまったな。昼食を取ってから、午後の仕事をしてくれ」
 実音の肩に手を添え、「幸せにな」と見送って、扉を閉めてから気付いてしまった。
 普段から海翔は、自分に必要なものは自分で決められると嘯き、実力でこれまでの人生を切り開いてきた。
 そんな正確をしているから、簡単に他人の意見に流されたりはしない。
 自分が祖父の言葉を信じる気になれたのだって、相手が信頼できる人だったからだ。
 そんな自分が、実音の言葉なら聞く耳をもってもいいと思えたのは……
「――っ!」
 大事ななにかを見落としていたような気がして、海翔は勢いよくドアを開けた。だけど、そこに実音の姿はない。
「CEO、どうされましたか?」
 前室に控えていた町村が、驚いた顔で腰を浮かせた。
「有坂君は?」
「昼食を取ったら、すぐに戻ると言っていましたが……」
 自分はよほど取り乱した顔をしているのだろう。町村の目が泳いでいる。
「ああ……それならいい。俺と面談をしていて昼食時間が潰れたのに、彼女のことだから、そのまま仕事をしていないか気になっただけだ」
 そう言うと、町村が納得の表情を見せた。
「少し外の空気を吸いたいとも言っていたので、何処かに食事を取りにでたんだと思います」
「そうか。よかったよ」
 彼と言葉を交わしたことで冷静さを取り戻した海翔は、自室に引き返し、ソファーに身を投げ出す。
「……なにをやっているんだ」
 町村がいなければ、自分は実音を追いかけて、なにを伝えるつもりだったのだろうか。
 たぶんそれは、近く他の男と結婚する女性に伝えてはいけない言葉だ。だから、これでよかったのだ。
 そう思っているはずなのに、心に燻る思いを消し去ることができない。
「実音」
 本来なら出会うこともないような存在である彼女の名前を口にするだけで、こんなに胸が軋むのは何故だろう。
< 12 / 48 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop