買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
実音に遼介から連絡があったのは、それから三日後の木曜日になってからだ。
話があるから来いと、彼が実音を呼び出したのは、以前、彼と他の女性といるところに遭遇した時と同じホテルだった。
といっても今回は、部屋ではなく、ホテルの上階にあるラウンジなのだけれど。
そこは以前、海翔がプライベートでちょくちょく立ち寄ると話していた店で、こんな時じゃなければ、西洋建築の中に和の様式美を組み込んだスタイリッシュな内装や、ジャズの生演奏に心奪われていたことだろう。
そんな洒落たバーの薄暗いボックス席に、遼介の姿があった。
一人がけのソファーが二脚、どちらの席からも夜景を楽しめるようにという配慮からか、対角に設置されている席で、遼介は憮然とした表情で実音を出迎えた。
「お待たせしました」
とりあえずの挨拶をして、空いていた方のソファーに浅く座る。
その瞬間、パシャッという水音と共に、着ていたブラウスが濡れる感覚をおぼえた。それと同時に、強いアルコールの匂いを感じる。
驚いて視線を向けた遼介が、空になったグラスを手にしていることで、彼にグラスに入っていたアルコールをかけられたのだと理解した。
「あの……」
突然の乱暴な振る舞いに、頭が白くなる。
実音が驚いて目を丸くしていると、その隙を突くように、遼介に左手で髪を引っぱら彼の方へと引き寄せられてしまった。
「お前、自分がなにやったかわかってるかっ! お前のせいで、女遊びだけじゃなく、親父の金を着服していたことまでバレて、今俺がどんな目に遭っているかわかってるのかっ!」
音量こそ押さてはいるけど、恫喝するような低い声に彼の怒りが滲み出ている。
その口調と、今彼が発した言葉で、実音は自分の胸に燻っていた疑念が確信に変わるのを感じた。
「小松崎のおじさまは、裁判のことを既にご存知で、支援してくださっていたんですね? そしてそのお金を、遼介さんは、着服していた?」
力任せに髪を引かれて痛みを感じるけど、そんなことを気にしている場合ではない。
実音の質問に、遼介は不機嫌に目を眇める。
だからなんだとでも言いたげな眼差しに、怒りが湧く。
「どうせ親父が死んだら俺のものになる金だ。それを使い込んでなにが悪い」
かなり歪んだ考えではあるけど、家族の財産をどうとらえるかは、各々の価値観によって違ってくる。
自分にそう言い聞かせて、こみ上げてくる感情を無理矢理飲み込み、絶対に譲れないことだけを伝える。
「だとしても、我が家の名前を勝手に使わないでくださいっ」
外泊の口実にしてもそうだ。
なにも言わず勝手に有坂の名前を使われたのも不愉快だけど、そんな嘘を平気でつく彼を人間として信用できない。
遼介は、毅然とした態度を見せる実音に鼻白む。
「お前だって親父の財産を当てにしていたくせに、なに聖人ぶってんだ」
吐き捨てるような彼の言葉が、実音の胸に突き刺さる。
実音自身が望んだ縁談ではなかったけど、彼の言うとおりなのだ。
兄の考えは違っているけど、実音の父親は、小松メディカルの支援なしでは有坂テクトに活路はないと考えているて、実音もその考えに同調したのだ。
「言っておくが、親父には、有坂テクトがもっと大きな額の支援欲しさに俺の嘘に協力的だったて伝えておいたからな。結果親父は、有坂テクトに一切支援はしないし、婚約は解消するって憤慨していたよ」
「……っ」
驚く実音に、遼介は「道連れだ」と意地悪く笑う。
「お前のせいで、俺は重役の座から下ろされ、家を追い出されそうだ。使い込んだ金だって、自力で稼いで返せと言われてる。どうしてくれるんだよっ!」
咄嗟に返す言葉が思い付かない実音に、遼介は恨みを言いつのる。
話している間に感情のボルテージが上がってきたのか、遼介が右手を大きく振りかぶった。
(ぶたれるっ)
そう思い、痛みに耐えるべく強く目を瞑ったけど、彼の手が振り下ろされる気配がない。
それどころか、低い呻き声と共に髪を絡め取っていた指も離れて行く。
「え?」
戸惑いつつ目を開けると、遼介はソファーから崩れ落ちて床に膝をついているのが見えた。よく見れば、大柄な男性が彼の右腕を捻りあげている。
相手の方が腕力が強いらしく、相手は片手だけで遼介の手を捻っているのに、彼は両を使ってそれを解こうとしている。
最初、遼介の姿にばかり気を取られていた実音は、彼の腕を捻っている人が誰であるかに気付いて息を飲んだ。
(八神さん)
彼がどうしてここにいるのかわからない。
「ウチの社員にずいぶんなことをしてくれるな」
海翔は低く鋭い声を響かせる。
「はぁ? コイツがどうしようもないバカだから、最後に躾けてやろう……ッ!」
海翔が腕を捻る力を込めたのか、途中、遼介の顔が大きく歪む。
その頃には、店のスタッフもこちらの状況に気付き駆け寄ってきていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
スタッフの一人が、実音にタオルを差し出してくれた。
お礼を言ってそれを受け取る実音の眺める先で、海翔は遼介をスタッフに引き渡し、出入り禁止にするようにと告げる。
険しい表情でうなずいたスタッフに連れ行かれようとする遼介が、実音に憎々しげな眼差しを向けて言う。
「これで有坂テクトは終わりだな」
去り際に彼が残した呪詛のような言葉に、実音は自分の世界から音や色彩が遠ざかっていくような錯覚を覚えた。
周囲の音が聞こえているのに聞こえていない。見えているのに見えていない。
うまく言葉にできない奇妙な感覚に溺れていると、肩に暖かなものが触れた。
その温もりに導かれるように、視覚や聴覚が一気に戻ってくる。
「大丈夫か?」
感覚が戻ってきた耳に、優しげな声が届く。それと同時に、こちらに気遣わしげな眼差しを向ける海翔と視線が重なる。
海翔は床に片膝をつき、ソファーに座ったまま身動きが取れずにいた実音の顔を覗き込んだ。
「なにがあった?」
そう問いかけながら、肩に触れさせていた手を、彼女の頬へと移動させる。彼の手の温もりに、一気に緊張が解れていく。
「八神さん、どうしてここに……」
そう呟いた後で、彼がこのバーはよく利用すると話していたことを思い出した。
もう二度と会うこともないと思っていた人の名前を口にした途端、目頭に熱いものがこみ上げてくる。
だけど、ここで泣くわけにはいかない。
「すみません。お見苦しいところをお見せしました」
表情を取り繕い、この場を離れる為に立ち上がる。
でも感情に体が追いついていなくて、立ち上がった瞬間、体が大きくぐらついてしまう。
「キャッ」
「危ないっ!」
膝に力が入らず、そのまま倒れ込む実音の体を、彼女の動きに合わせて立ち上がった海翔が胸で受け止めてくれた。
「す、すみませんっ」
慌てて彼から離れようとしたのだけど、彼が背中に腕を回してその動きを止める。
「あの……っ」
海翔の胸を押して距離を取ろうとするのだけど、彼が腕を解いてくれる気配はない。それどころか、実音を離さないとでも言いたげに、背中に回す腕の力を強めてくる。
「八神さん、もう大丈夫ですから」
実音が戸惑いつつ訴えかけると、海翔が困ったような顔で言う。
「家まで送ろう」
その言葉に、実音の体がこわばる。
このことを父にどう伝えるべきかと考えると、また先ほどの奇妙な感覚が体に蘇ってきそうになる。
「とりあえず、場所を変えて話そう」
視線を落とし黙りこむ実音を見て、海翔が言い方を変える。
「人に見られたら誤解されますよ」
少し冷静さを取り戻した実音が胸を押しても、海翔はお構いなしだ。
「誤解したい奴には、させておけばいい」
彼らしい不遜なものいいに、泣きたいほどの懐かしさを覚える。
実音の緊張が緩んだのを感じ取ったのだろう。
海翔はおどけた口調で「ついでに、俺をセクハラで訴えるか?」と、からかってくる。
その台詞には、そんな状況じゃないと思いつつも、つい笑ってしまう。
実音が小さく笑ったのを確かめて、やっと腕を解いてくれた海翔は、少し表情を引き締めて言う。
「先ほどの男が、何処かで待ち伏せいしているとも限らないから、俺と一緒の方がいい」
実音が黙ると、海翔はカードを取り出し、この場所のクリーニング代も含めた支払いを済ませ、彼女の肩を抱いて店を出た。
話があるから来いと、彼が実音を呼び出したのは、以前、彼と他の女性といるところに遭遇した時と同じホテルだった。
といっても今回は、部屋ではなく、ホテルの上階にあるラウンジなのだけれど。
そこは以前、海翔がプライベートでちょくちょく立ち寄ると話していた店で、こんな時じゃなければ、西洋建築の中に和の様式美を組み込んだスタイリッシュな内装や、ジャズの生演奏に心奪われていたことだろう。
そんな洒落たバーの薄暗いボックス席に、遼介の姿があった。
一人がけのソファーが二脚、どちらの席からも夜景を楽しめるようにという配慮からか、対角に設置されている席で、遼介は憮然とした表情で実音を出迎えた。
「お待たせしました」
とりあえずの挨拶をして、空いていた方のソファーに浅く座る。
その瞬間、パシャッという水音と共に、着ていたブラウスが濡れる感覚をおぼえた。それと同時に、強いアルコールの匂いを感じる。
驚いて視線を向けた遼介が、空になったグラスを手にしていることで、彼にグラスに入っていたアルコールをかけられたのだと理解した。
「あの……」
突然の乱暴な振る舞いに、頭が白くなる。
実音が驚いて目を丸くしていると、その隙を突くように、遼介に左手で髪を引っぱら彼の方へと引き寄せられてしまった。
「お前、自分がなにやったかわかってるかっ! お前のせいで、女遊びだけじゃなく、親父の金を着服していたことまでバレて、今俺がどんな目に遭っているかわかってるのかっ!」
音量こそ押さてはいるけど、恫喝するような低い声に彼の怒りが滲み出ている。
その口調と、今彼が発した言葉で、実音は自分の胸に燻っていた疑念が確信に変わるのを感じた。
「小松崎のおじさまは、裁判のことを既にご存知で、支援してくださっていたんですね? そしてそのお金を、遼介さんは、着服していた?」
力任せに髪を引かれて痛みを感じるけど、そんなことを気にしている場合ではない。
実音の質問に、遼介は不機嫌に目を眇める。
だからなんだとでも言いたげな眼差しに、怒りが湧く。
「どうせ親父が死んだら俺のものになる金だ。それを使い込んでなにが悪い」
かなり歪んだ考えではあるけど、家族の財産をどうとらえるかは、各々の価値観によって違ってくる。
自分にそう言い聞かせて、こみ上げてくる感情を無理矢理飲み込み、絶対に譲れないことだけを伝える。
「だとしても、我が家の名前を勝手に使わないでくださいっ」
外泊の口実にしてもそうだ。
なにも言わず勝手に有坂の名前を使われたのも不愉快だけど、そんな嘘を平気でつく彼を人間として信用できない。
遼介は、毅然とした態度を見せる実音に鼻白む。
「お前だって親父の財産を当てにしていたくせに、なに聖人ぶってんだ」
吐き捨てるような彼の言葉が、実音の胸に突き刺さる。
実音自身が望んだ縁談ではなかったけど、彼の言うとおりなのだ。
兄の考えは違っているけど、実音の父親は、小松メディカルの支援なしでは有坂テクトに活路はないと考えているて、実音もその考えに同調したのだ。
「言っておくが、親父には、有坂テクトがもっと大きな額の支援欲しさに俺の嘘に協力的だったて伝えておいたからな。結果親父は、有坂テクトに一切支援はしないし、婚約は解消するって憤慨していたよ」
「……っ」
驚く実音に、遼介は「道連れだ」と意地悪く笑う。
「お前のせいで、俺は重役の座から下ろされ、家を追い出されそうだ。使い込んだ金だって、自力で稼いで返せと言われてる。どうしてくれるんだよっ!」
咄嗟に返す言葉が思い付かない実音に、遼介は恨みを言いつのる。
話している間に感情のボルテージが上がってきたのか、遼介が右手を大きく振りかぶった。
(ぶたれるっ)
そう思い、痛みに耐えるべく強く目を瞑ったけど、彼の手が振り下ろされる気配がない。
それどころか、低い呻き声と共に髪を絡め取っていた指も離れて行く。
「え?」
戸惑いつつ目を開けると、遼介はソファーから崩れ落ちて床に膝をついているのが見えた。よく見れば、大柄な男性が彼の右腕を捻りあげている。
相手の方が腕力が強いらしく、相手は片手だけで遼介の手を捻っているのに、彼は両を使ってそれを解こうとしている。
最初、遼介の姿にばかり気を取られていた実音は、彼の腕を捻っている人が誰であるかに気付いて息を飲んだ。
(八神さん)
彼がどうしてここにいるのかわからない。
「ウチの社員にずいぶんなことをしてくれるな」
海翔は低く鋭い声を響かせる。
「はぁ? コイツがどうしようもないバカだから、最後に躾けてやろう……ッ!」
海翔が腕を捻る力を込めたのか、途中、遼介の顔が大きく歪む。
その頃には、店のスタッフもこちらの状況に気付き駆け寄ってきていた。
「お客様、大丈夫ですか?」
スタッフの一人が、実音にタオルを差し出してくれた。
お礼を言ってそれを受け取る実音の眺める先で、海翔は遼介をスタッフに引き渡し、出入り禁止にするようにと告げる。
険しい表情でうなずいたスタッフに連れ行かれようとする遼介が、実音に憎々しげな眼差しを向けて言う。
「これで有坂テクトは終わりだな」
去り際に彼が残した呪詛のような言葉に、実音は自分の世界から音や色彩が遠ざかっていくような錯覚を覚えた。
周囲の音が聞こえているのに聞こえていない。見えているのに見えていない。
うまく言葉にできない奇妙な感覚に溺れていると、肩に暖かなものが触れた。
その温もりに導かれるように、視覚や聴覚が一気に戻ってくる。
「大丈夫か?」
感覚が戻ってきた耳に、優しげな声が届く。それと同時に、こちらに気遣わしげな眼差しを向ける海翔と視線が重なる。
海翔は床に片膝をつき、ソファーに座ったまま身動きが取れずにいた実音の顔を覗き込んだ。
「なにがあった?」
そう問いかけながら、肩に触れさせていた手を、彼女の頬へと移動させる。彼の手の温もりに、一気に緊張が解れていく。
「八神さん、どうしてここに……」
そう呟いた後で、彼がこのバーはよく利用すると話していたことを思い出した。
もう二度と会うこともないと思っていた人の名前を口にした途端、目頭に熱いものがこみ上げてくる。
だけど、ここで泣くわけにはいかない。
「すみません。お見苦しいところをお見せしました」
表情を取り繕い、この場を離れる為に立ち上がる。
でも感情に体が追いついていなくて、立ち上がった瞬間、体が大きくぐらついてしまう。
「キャッ」
「危ないっ!」
膝に力が入らず、そのまま倒れ込む実音の体を、彼女の動きに合わせて立ち上がった海翔が胸で受け止めてくれた。
「す、すみませんっ」
慌てて彼から離れようとしたのだけど、彼が背中に腕を回してその動きを止める。
「あの……っ」
海翔の胸を押して距離を取ろうとするのだけど、彼が腕を解いてくれる気配はない。それどころか、実音を離さないとでも言いたげに、背中に回す腕の力を強めてくる。
「八神さん、もう大丈夫ですから」
実音が戸惑いつつ訴えかけると、海翔が困ったような顔で言う。
「家まで送ろう」
その言葉に、実音の体がこわばる。
このことを父にどう伝えるべきかと考えると、また先ほどの奇妙な感覚が体に蘇ってきそうになる。
「とりあえず、場所を変えて話そう」
視線を落とし黙りこむ実音を見て、海翔が言い方を変える。
「人に見られたら誤解されますよ」
少し冷静さを取り戻した実音が胸を押しても、海翔はお構いなしだ。
「誤解したい奴には、させておけばいい」
彼らしい不遜なものいいに、泣きたいほどの懐かしさを覚える。
実音の緊張が緩んだのを感じ取ったのだろう。
海翔はおどけた口調で「ついでに、俺をセクハラで訴えるか?」と、からかってくる。
その台詞には、そんな状況じゃないと思いつつも、つい笑ってしまう。
実音が小さく笑ったのを確かめて、やっと腕を解いてくれた海翔は、少し表情を引き締めて言う。
「先ほどの男が、何処かで待ち伏せいしているとも限らないから、俺と一緒の方がいい」
実音が黙ると、海翔はカードを取り出し、この場所のクリーニング代も含めた支払いを済ませ、彼女の肩を抱いて店を出た。