買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 バーから実音を連れ出した海翔は、アルコールで服が濡れていることを気遣い、着替えるために部屋を取ろうかと聞いてくれた。だけど実音にとってこのホテルには、苦い思い出がありすぎる。
 だからといって、こんな姿でどこかの店にも入れない。
 それで仕方なく、彼が一人暮らしをするマンションで話をすることになった。
 借りたタオルを濡らして、服に染みこんだアルコールを抑えると、わずかだけど匂いが和らぐ。
 着替えもないので、残る香りをそのままにして、実音はこれまでのことをかいつまんで話した。
「……なるほど」
 L字に配置されたソファーに対角に座す実音の話しを聞き、海翔は前髪を掻き上げて深く息を吐く。
「八神さんにご迷惑をおかけしてすみませんでした」
 深く頭を下げる実音に、海翔が軽く首を振り「大丈夫か?」と問いかけてきた。
「八神さんが助けてくれたので」
 実音の言葉に、海翔は再度首を横に振る。
「そうじゃなくて、君の気持ちは大丈夫かと聞いているんだ。ショックで傷付くことさえ忘れているんじゃないのか?」
「……」
 彼の言葉に、実音の胸の奥で軋む音がした。
 こみ上げてくる感情の持って行き場がわからず視線を落とすと、頭に暖かなものが触れた。
 少しだけ顔を上げると、横を向いてこちらに腕を伸ばす海翔の姿が見えた。自分の頭に触れる優しい温もりが、彼の手だと理解する。
「人間、辛いことがありすぎると、痛みをうまく表現できなくなる」
(私、傷ついていたんだ……)
 ぶっきらぼうに投げかけ言葉が、実音の心に浸透していく。
 一度にいろいろなことが起きて、うまく思考が働いていなかったけど、彼の言葉でこれは傷付いていいことなのだと今頃になって理解できた。
「私……家族のためにも、ちゃんと結婚するつもりだったんです……。私なんかにでも守れるものがあるなら、守りたいって思ったんです」
 それはなにも自分の家族のことだけじゃない。
 さっき海翔は実音の胸の内を読んだように、『人間、辛いことがありすぎると、痛みをうまく表現できなくなる』と話した。こちらの思いを察することができるのは、彼自身、そんな時期があったからなのだろう。
 自分がうまく立ち回れなかったせいで会社が倒産し、社員や、その家族を苦しめることになるのだと思うと胸が痛い。
 さっきはどうにか堪えた涙が溢れて、膝の上に揃えていた手を濡らしていく。
 海翔は実音の頭から手を離して、テーブルに置かれていたティッシュをボックスごと実音の膝の上に置く。
 消え入りそうな声ではお礼を言った実音が、数枚ティッシュを抜き出して目頭を押さえた。
「八神さんに再会できた偶然に感謝しています」
 涙を拭った実音は、ぎこちなく笑って感謝の言葉を口にした。
 遼介に呼び出されたのは、海翔がよく利用するバーラウンジだったおかげで、二度と会うことがないと思っていた彼に再会することができた。その上、彼が助けてくれたおかげで、こうやって感情を落ち着けることができている。
 もし彼がいなければ、自分はあのまま遼介に殴られ、もっとひどい言葉を投げかけ続けたことだろう。
「そんな家族、見捨ててしまえばいいんじゃないのか? 有坂君の籍はまだヤガミにある。復職してそのまま働けば、なにも困ることはないだろう」
 海翔は兄と同じようなことを言う。
 でもそれは違うと、実音は首を横に振る。
「八神さんを尊敬しているからこそ、楽することが幸せなんて思いたくないです。私にも誰かを守れる強さがあると、誇れるような生き方をしたいです」
 そのためにも、有坂テクトを倒産させるわけにはいかない。
 大きく息を吸って気持ちを落ち着けると立ち上がった。
「帰る前にメイクを直したいので、洗面所をお借りしてもいいですか?」
 父がどんな反応を考えると気が重いけど、家に帰ってこの先について話合わなくてはいけない。
 実音としては、まだ諦めることなく、自分にできることを探すつもりだ。
 どうにか自分の気持ちを奮い立たせる実音は、おおよその勘で廊下に出れば洗面所の場所がわかるだろうと考えて歩き出そうとした。
 だけど海翔が、その動きを止めるように実音の手首を掴んだ。
「八神……さん?」
 まだなにか話があるのだろうかと、動きを止めて彼の言葉を待つ。
 すると海翔は無言のまま、実音を自分の方へと引き寄せた。
「キャッ」
 驚いて小さな悲鳴を挙げた時には、倒れ込んだ実音の体は海翔に抱き留められていた。
「八神さん、あの……、えっと……」
 わけがわからず彼の腕の中でもがいていると、海翔が深く息を吐いて言う。
「無理して、いっぺんに感情を飲み込むな。見ている方がせつなくなる」
 慈愛に満ちた彼の言葉に、一度は収まったはずの涙がまた溢れ出す。
「でもこれ以上、なんの関係もない八神さんにご迷惑をおかけするわけには……」
「お前はまだ、ウチの社員だ。だから、構わない」
 海翔はぶっきらぼうに返す。
 確かに有休消化中の実音は、籍だけはまだヤガミにある。だけどそんなのは、詭弁にすぎない。
 そう思うのに、海翔の胸で声を押し殺して泣く実音の背中を、彼が優しく撫でてくれるものだから、溢れ出す涙をどうすることもできなくなる。
 実音は、声を押し殺し彼の温もりに身を委ねて涙を流した。
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