買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
「八神CEOに恋人はいるのかしら?」
 華やかなウエディングドレスの写真を前に、物思いにふけっていた実音は、艶のある女性の声に視線を上げた。
「え?」
 打ち合わせように設置されているソファーセット、長方形のテーブル挟んで向かいの席に座る彼女は、目鼻立ちがしっかりした美しい顔立ちをしている。
 まだ九月中旬だけど、すでに秋色を意識したファッションに身を包む彼女は、元モデルと言うキャリを活かし、自身がデザイナーを務めるウエディングドレスのブランドを運営しているという彼女は、ファッションもメイクも完璧で、今でも現役のモデルとし十分通用しそうな華がある。
「彼、独身なのは知っているのよ。恋人はいるの?」
 ネイルで彩られている爪でコンコンとテーブルを叩く彼女の眼差しは、ソファーセットからは少し離れたブースへと向けられている。
 周囲の声に妨げられることなく通話ができるようにとアクリルガラスで仕切られたスペースには、スリーピースのスーツを品良く着こなす男性の姿が見えた。
 左手をスラックのポケットに預ける彼は、微かな微笑みを浮かべて通話している。
 少し癖のある黒髪を後ろに流して、すっきりした輪郭をしていている彼は、鼻梁も高く、遠目にも男の色気を感じさせる存在だ。
 実音としては、彼の一番の特徴は、存在感のある切れ長の目だと思っている。
 そんな彼の名前は、八神海翔。実音が勤務する総合企業YAGAMIの、創立者であり最高責任者である。
 商談の途中で海翔に電話が入ったことで会話が中断しているのだけど、待っている間、彼女の目はずっと海翔に向けられている。
「CEOのプライベートのことは存じあげておりません」
「そう。なら自分で確かめるからいいわ」
 実音がそう答えると、彼女は、ツンッとした口調で返すと、誇らしげに口角を上げる。
 自分が本気を出せば、海翔を口説き落とせると考えているのかもしれないけど、
実音としては、「無駄ですよ」と教えてあげたくなる。
 独身主義であることを公言している海翔は、公私を分ける主義で、仕事関係で知り合った女性の誘いに応じることはない。
 彼女の視線につられて海翔へと視線を向けると、彼は柔和な笑みを浮かべて二言、三言、言葉を発すると、スマホに耳をよせて相手の言葉を待つ。
 ただそれだけのやり取りでも、彼がやるとひどく様になっている。
 そう思っているのは実音だけじゃないみたいで、向かいに座る彼女だけでなく、同じフロアで働く他の女性社員も彼の動きをチラ見している。
(なんとなく、一階受付け前に置かれているアクアリウムを思い出すな)
 専門の業者が管理しているアクアリウムは存在感があり、触ることが許されないからこその美しさがあるり、今の海翔の姿に似ている。
 そんなことを考えていると、海翔がニッと口角を上げて強気に笑うのが見えた。どうやら、先方から望む回答を引き出せたらしい。
「本当にいい男よね」
 勝者の笑みを浮かべる海翔の姿に、目の前の女性は完璧に恋する乙女の表情になっているけど、女子校育ちで物心ついた時には許嫁がいた実音には、その感覚がどうにも理解できない。
 実音の場合、漫画や恋愛の主人公のように、許嫁に恋い焦がれいるといったことはないのだけど、それでも、許嫁がいるのに他の誰かを好きになるのは不誠実な気がして、特定の誰かに恋心を抱くようなことはなかった。
「でもライバルも多そうね。あっ! まさか……」
 海翔に見とれていた女性は、弾かれたように実音を見た。目が合うと、表情を一気に険しいものへと変えていく。
「どうかされましたか?」
「……なんて、ありえないわよね」
 実音をマジマジと観察した彼女は、勝手になにか納得したらしい。
 多少不愉快ではあるけど、彼女が一瞬なにを疑い、なにに安心したのかは想像がつく。
 今同席しているのは自分ひとりだけど、海翔の秘書は、実音を含めて三人いる。その中で女性は実音一人のため、時々妙な誤解をされるのだ。
 この女性のように、わかりやすい反応を示してくれるのはましで、勝手に二人の関係を勘違いして、実音を敵視してくる人もいるので困る。
「お話を中断させてしまい、申し訳ありませんでした」
 通話を終えて席に戻った海翔は、爽やかな笑みを添えて詫びる。
「いえ。お忙しい中、無理を言ってお時間を作っていただいたのはこちらですから」
 彼女の身内に、ヤガミと付き合いのある会社の重役がいて、その人が仲介者となり今日の商談に至った。
 そのため、最初の顔合わせから海翔直々に対応している。
「では、話の続きを伺いましょうか」
 彼女が熱っぽい眼差しを向けてきていることには気付かないフリで、海翔は電話で中断した話の再開を促す。
 内容としては、自社ブランドを海外市場に売り込みたい彼女が、ヤガミの運営するブライダル事業で扱ってもらえないだろうかということだ。
 持参したドレスの写真の他、有名人のだれそれが式で使用してくれたということを話していく。
 時折質問を挟みながら相手の話に耳をかたむける海翔は、上手に彼女の誘いをかわしながら話を進めていく。
 今年二十五歳の実音より七歳年上の海翔は、今年三十二歳で、大企業の経営者してはかなり若いと。
 ヤガミは、彼が学生時代にスマホアプリの制作を担う会社を起業したことが始まりで、そこで蓄えた資金と人脈を活かして企業の合併や買収を繰り返し、今ではコングロマリット経営の代表格と扱われている。
 会社の急成長ぶりと、彼の華やかな見た目。その両方が世間の注目を集め、メディアに取り上げられることも多い。
「では、一度検討させていただくお時間をいただいて……」
 一通りの話を聞き終えた海翔がそう切り出す。
 時間は午後五時になろうとしており、初回の顔合わせとしては十分すぎるほど詰めた情報交換もできた。
 それなのに相手は、物足りないと言いたげな顔をしている。
「八神さんは、今日、この後のご予定は? もしお時間があるようでしたら、ご一緒に食事でもしながら、もう少しお話させていただけませんか?」
 誘うような眼差しで、彼女が言う。
「そうですね……」
 海翔が、チラリとこちらを見た。
 実音が彼のスケジュールを伝えようとすると、それより早く海翔が「残念ですが、今日は予定がありまして」と告げる。
「そう……残念です」
 心からガッカリした顔をする彼女を眺め、実音は「あれ?」と、内心で首をかしげた。
 今日の海翔のスケジュールに、そんな予定は入っていない。
(誘いを断るための方便だよね)
 実音はそのことには触れずに、海翔と共に会社の外まで彼女を見送った。
 そしてCEOの専属執務室がある最上階に戻るべく二人でエレベーターに乗り込むと、海翔が実音に聞く。
「ところで、有坂君、今日の夜の予定は?」
「今夜は会食のご予定は入っておりませんよ」
(あれ、ほんとうに予定があると勘違いされてる?)
 そんなことを考えながら実音が答えると、海翔が続ける。
「では、食事の予定を入れても大丈夫か?」
「承知いたしました。先方は、何名様でしょうか? 店は個室などの方がいいでしょうか?」
 実音は手帳とペンを取り出して、メモの準備を整えて聞く。
 経営者である彼にとって、会食も仕事の一環だ。
 ビジネスの相手と親睦を深めるために気軽な食事を楽しむ場合もあれば、内密な話を目的として食事を口実に密談することもあるので、その用途によって抑える店の趣が変わってくる。
 それだけでなく、相手の好みやアレルギーなど、個々の事情に合わせ条件に合った店を抑えるのが実音の仕事だ。
 頭の中で、この時間から抑えられる店のリストアップを始めている実音に、海翔が首を横にふる。
「そうじゃない。個人的に俺が有坂君を食事に誘っているんだ。予定がないなら、食事に誘わせてもらいたい」
「え? 二人きりで、ですか?」
 思いもしなかったお誘いに驚き、胸に浮かんだ言葉をそのまま口にしてしまう。
 これまでも、仕事の一環として彼が出席する会食に同伴したことはあったけど、こういった食事の誘われ方をするのは始めてだ。
 静かに戸惑う実音を見て、海翔は目尻に柔らかな皺を刻む。
「警戒させてしまったなら悪い。有坂君が直属の秘書になって、そろそろ一年になるだろ? その面談をかねて食事でもどうかと誘っているだけだ」
「ああ……」
 短大卒でヤガミに就職した実音は、最初の二年は総務部に勤務していた。そこでの仕事ぶりや丁寧な所作が上司の目に留まり、秘書課に転属となった。
 転属後最初の一年は、秘書室でのサポートに徹していたけど、CEO付き秘書に欠員が出たタイミングで彼の専属の秘書異動となった。
 いつの間にか、それからもう一年が過ぎていた。
「袴田君や町村君とも、そのくらいのタイミングで、慰労と面談を兼ねた食事会をしている」
 時間の流れの速さに驚く実音に、海翔がそう付け加える。
 袴田君や町村君とは、彼の残り二人の秘書の名前だ。
 一瞬、急な食のお誘いに驚いたけど、理由を聞けば納得がいく。
「とはいえプライベートな誘いだから、気が乗らないなら遠慮なく断ってくれてかまわないよ」
 気遣いを見せる海翔に、実音はとんでもないと首を横に振る。
「是非ご一緒させてください」
 一瞬でも身がまえてしまった自分が恥ずかしくなりつつ、実音は前のめり気味に言う。
「よかったよ」
「え、なにがですか?」
「有坂君には、苦手意識を持たれているような気がしていたから、断られるかとも考えていた」
 仕事中はきちんと気持ちを切り替えられていると思っていたのだけど、彼と一緒にいると、時々緊張でぎこちない態度を取ってしまうことがある。
「それは……」
 実音がその理由を説明しようとした時、控えめな鐘の音が鳴り、エレベーターが指定の階に着いたことを告げる。
(女子校育ちで、CEOみたいに見目麗しい男性に免疫がないだけです)
 実音には父の他、年の離れた兄がいる。だけど、真面目で勉強一筋だった彼は、海翔とは大きくタイプが異なるので参考にならない。
 だから油断すると、なんとなく緊張してしまうのだ。
 頭を下げ、彼のために開閉ボタンを押す実音は、わざわざ話すほどのことでもないかと考え直し、言えずに終わった言葉をのみこんだ。
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