買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 夜、できるだけ早く仕事を切り上げた海翔が自宅マンションのドアを開けると、奥から小走りな足音が聞こえてきた。
 見ると、長い廊下の向こうからワンピース姿の実音が駆けてくる。
 彼女の私服の好みがわからずデパートの外商に、幾つかのパターンの服を届けるよう頼んでおいた。化粧品なども同じで、数種類届けさせれば自分で好きな物を選ぶと思い、金額を気にする必要はなにで女性の身支度に必要なものを一式数種類揃えるよう伝えた。
 それらの品から彼女が選んだのは、柔らかな素材のクリーム色のワンピースで、仕事中は一纏めにしている髪もハーフアップにしている。
 昨日散々泣いて、まだ瞼が腫れているせいもあるのだろうけど、メイクは薄くファンデーションを塗って、眉を整えた程度といった感じの彼女は、いつもより幼く、儚げな存在に見えた。
「おじゃましています」
 駆け付けた実音は、行儀よく頭を下げる。
「出迎える側の言葉としては妙だな」
 自然と零れた言葉に、実音は恥ずかしそうに手をパタパタさせる。
「あ、すみません。その、この場合の正解がわからなくて。だって『おかえりなさい』を私が言うのは、違いますよね……」
 よほど恥ずかしかったのか、彼女の声が尻すぼみになっていく。
 これまで、仕事でしか接してこなかったが、こういう素の反応を見ると、意外に天然なのかもしれないと思う。
「入ってもいい?」
 からかい半分でそう声をかけると、実音は海翔の邪魔にならないようにと一歩後ろに下がると、動きに合わせて、ワンピースの裾がふわりと揺れた。
「それと、色々ありがとうございます。お金は、後でお返しします」
 こちらがなにを見ていたのか気付いたのだろう、実音は、リビングへと向かう海翔の背中を追いかけながら言う。
「たいした金額じゃないし、必要ない」
 服や食事のお礼は、昼間、文章でも受け取っている。その際にも、同じことを伝えたのだけど、彼女は納得できていないらしい。
「俺が勝手にしたことだ」
 短く答えて、手を洗うとビジネスバッグ片手にリビングへと向かう。途中、実音がバッグを預かろうとしたけど、それは断った。
 なんとなくの気配で、背後の彼女が所在なさげにしているのがわかるけど、海翔としてもこういう時のうまい返し方がわからないのだ。
 これまで、割り切った価値観の女性としか付き合ってこなかったツケを払わされているような気分だ。
「とりあえず座ってくれ」
 リビングに入った海翔は、実音にソファーに座るよう促し、自分も腰を下ろした。
 L字に配列されているソファーに、お互い昨日と位置に腰を下ろして、彼女の表情を確認する。
 昨日泣き疲れて、そのまま寝ったせいか、瞼がまだ腫れているし、顔にもいつものような精気がない。
「実家に連絡は?」
「連絡は入れてありますし、今日、この後帰るつもりです」
「帰っても、気まずいんじゃないのか?」
 海翔の問に、実音は苦笑する。
「そうですね。実家にも既に婚約解消の連絡は入っているみたいなんですが、父はまだどうにか、関係修復できないかと考えているみたいで、そんな最中に私が外泊したことを、かなり怒っていました」
 その言葉に、海翔は眉間に深い皺を刻んだ。
 有坂テクトの置かれている状況や、彼女の父の思惑などは、昨日一通り実音から聞かされている。
 昨日ラウンジで見かけた男は、どう見ても彼女を幸せにするとは思えなかった。金のために、そんな男に娘を売り渡そうとする彼女の父に憤りを隠せない。
「身勝手な父親に、腹は立たないのか?」
(それとも、育ちのいい人間には、怒りという感情がないのだろうか?)
 そんなことを思う海翔に、実音が静かな口調で返す。
「傷付いていないと言えば嘘になります。でもその一言で、これまで大事に育ててもらった過去が全て消えてなくなるわけじゃないですから。それに有坂テクトには、兄もいます」
 思いがけない言葉に、ハッとさせられる。
「君は、すごいな」
 海翔は、自分を捨てた両親のいい側面を探そうなんて思ったこともない。
 あんな奴ら、自分の人生には不要と切り捨て、存在さえも意識の向こう側へと追いやっていた。
 凜としているのに慈愛を忘れない彼女の強さに、胸が苦しくなる。
 実音が家族を守りたいと思うのなら、自分は、そんな彼女を守れる存在でいたいと強く感じた。
「だから、親が望む相手と結婚すると?」
「それで家族と会社を救えるなら」
 実音は微かに躊躇いつつもうなずく。自分の利益を勘定に入れない彼女の潔さが、愛おしいくも歯痒い。
 リビングに満ちる重たげな空気をどうにかしたくて、海翔はパチンと指を鳴らした。
 音に反応してこちらに視線を向ける実音に、海翔は口角を上げ、誘うような眼差しを向ける。
 表情は強気なものを保ちつつ、内心では背中に妙な汗が浮かぶのを感じた。
 大きな商談を持ち掛ける際にも、ここまで緊張することはない。
 それほど荒唐無稽な商談を、これから彼女に持ち掛けようとしている自覚はあるのだ。
 だけど自分は商売人だ。手に入れたいと思うものが目の前にあるのだから、まずは交渉を持ち掛けて落とし所を見いだすまでだ。
「じゃあ、俺と取引しないか?」
 相手に警戒されないよう、あえて軽い口調で語りかけて言う。
 海翔の言葉に、実音は軽く首をかたむけて聞く姿勢を取るってくれたので、そのままの調子で続ける。
「俺が、君の夫になるというのどうだ?」
「はい?」
 なにを言われているのかわからない――大きく目を見開く実音の顔には、ハッキリそう書いてあるが、かまわずに続ける。
「家に帰っても、家族と気不味い思いをするだけだろ。それなら俺と結婚して、このままこのマンションに住むというのはどうだ? 俺と結婚するなら結納金として、有坂テクトへ融資をし、経営改善の手助けもしようじゃないか」
「どういう、意味ですか?」
 海翔の提案に、理解が追いつかない実音は目を瞬かせているが、かまうことはない。
 こちらとしては、商談に必要な交渉カードを並べて、相手の関心を引いてから交渉に持ち込む所存だ。
「有坂君の父君が娘婿に望む条件は、会社を支援してくれる男ということなんだろ? それならば、俺がその相手でも問題はないだろう? 自慢じゃないが金はある」
 嘯く海翔は、足下に置いてあったビジネスバッグから自社のロゴが入ったA4サイズの封筒を書類を取り出した。
「それは?」
 差し出された封筒を受け取る実音が、微かに首をかたむける。
「信用調査会社に依頼した有坂テクトの経営状況の報告書と、EXTENT を元に俺なりの考察を加えた今後の事業計画だ」
 中を確認する実音に、そう説明する。
 EXTENTとは、金融庁による金融商品取引法に基づく有価証券報告書等の開示書類を閲覧できる電子開示システムのことだ。
 戸惑いの表情を浮かべたまま、実音は書類のページを捲る。
 その動きを確認しながら、海翔は話を続ける。
「有坂テクトは、このまま行けば次の決算で確実に一度目の不渡りを出す。その原因の一端は、有坂大雅氏の旧態依然とした経営方針により徐々に経営状況は傾いていたようだな。昨日君が話した裁判の件は、とどめに一撃にすぎん」
 書類を捲る実音の表情が、徐々に険しくなっていく。
 おそらく彼女は、有坂テクトの経営状況を正しく知らされていなかったのだろう。海翔も今回詳しく調べるまで知らなかったが、大雅による見通しの甘い事業計画により、業績は年々右肩下がり、歴史という屋台骨に支えられてどうにか形を保っている死に体と言っても差し障りない状況だ。
「こんなことになっているなんて」
 書類を読み進めた実音が、深い息を吐く。
 彼女の理解が及んだところで、海翔はテーブルをコンコンッと立いて、自分へ意識を向けさせる。
「ただし、まだ救える状況だ。君のお兄さんに主導権を握らせ、役員を刷新して経営体制を立て直せれば、この状況を乗り越えられると俺は見た。そのために必要なサポートを、夫として俺がすると言ったらどうだ?」
「サポートと言うのはつまり、有坂テクトをヤガミの傘下に収めるといということでしょうか?」
 少し考えてから、実音が確認する。
「有坂テクトが、それを望むのなら。俺が結納金として融通する金で立て直しができるのなら、それでもいい」
 ただ彼女の父が実権を握ったままでは、同じ失敗を繰り返す懸念が残るが。そうなれば、その時にこそ、彼女の父から経営権を奪えばいい。
 海翔の返事に、実音はじっと考えこむ。
「つまり有坂テクトには、まだ存続できる可能性があるといことですね?」
 しばらく黙りこんでいた実音が言う。
 多くの企業買収を手掛けてきた海翔だが、べつに慈善事業しているわけではないのだ。救いようのない会社に、手を差し伸べたりはしない。
 秘書を務めてきた彼女には、買収に動き出すといことは、それだけの価値が会社に残されていると理解できたのだろう。
 そう納得して、一度は安堵の表所を見せた実音だけど、すぐにまた難しい表情を見せた。
「でもそれが、どうして私との結婚話に発展するんですか? 普通に有坂テクトに買収を持ちかければいいだけの話ではないんでしょうか?」
 彼女のその反応に、海翔はひじ掛けを利用して頬杖をつく。
 これまで幾つも起業との商談を成功させてきた海翔としては、相手を交渉の席に着かせることができれば七割方の仕事は終わったと考えている。
 後は相手が納得する理由の説明と、互いの条件を摺り合わせていけばいいだけだ。
「俺が買いたいのは、有坂テクトだけじゃない。君の家の歴史もだ」
「歴史……ですか?」
「ヤガミは俺が一代で築いた会社だ。そのせいで、陰では俺を成り上がりと嘲笑う奴もいるし、自分がマナーがなっていない粗野な性格をている自覚もある。歴史のある企業のお偉方の中には、歴史がないと言うだけで信用しない者もいる。だから、有坂君のような歴史ある家と姻戚関係になることにも価値がある」
 急成長したヤガミを面白くないと感じ、海翔のことをあしざまに笑う人間がいるのは事実だ。だが海翔の本音としては、そんなのは負け犬の遠吠えくらいにしか思っていないのだが。
 それでも使えるカードは何でも使うと、海翔はもっともらしく語る。
「血筋や家柄なんてなんの価値もないのに、そういった考えを持つ方は、まだ一定数いらっしゃいますね」
 自嘲的に笑う実音だけど、家柄同士の付き合いで許嫁が決められていた彼女には、納得しやすい話なのだろう。
 そう思ったのだけど、彼女はそれで納得することなく、こちらにまっすぐな眼差しを向けてくる。
「でも八神さんは、そんなこと気にされるような人じゃありませんよね?」
「……」
 交渉に失敗してしまったのに、彼女が、自分の人間性を理解してくれていたことに喜びを感じてしまう。
 そして、だからこそ彼女を手に入れたいと思い、海翔は別のカードを切る。
「一概にそうとも言えないさ。例えば伝統ある学校を卒業している有坂君には、俺とは異なる人脈を持っている。そういうことにも価値を感じているんだ」
 彼女の母校は由緒あるお嬢様学校で、本人の家族はもちろん、その嫁ぎ先も名の知れた名家が多いだけに、その言葉にはそれなりの説得力がある。
 一瞬黙る実音に、海翔はとどめのように言う。
「それにこれが、俺なりに有坂君の言葉の意味を真剣に考えて出した結果だ」
「え?」
「有坂君が俺に、幸せな結婚をしてほしいと言っただろ? それで一応、結婚のメリットにつて考えてみた結果だ」
「それは……」
「恋愛がどうのと言いたいのかもしれないが、生憎俺は、そんなものを信じてない」
「その結果が、それですか?」
 実音が不満げに眉を寄せるが、かまうことなく挑発的にうなずいてみせる。
「そうだ。ついでに言えば、結婚すれば、面倒な女性のアプローチを躱せるというメリットもあるな」
「……っ」
 海翔の話に、実音がもの言いたげな眼差しを向けてくる。
 恋心を月に例えた彼女には、受け入れがたい価値観なのだろう。
 それならそれで結構と、海翔は強気に語りかける。
「違うというのなら、有坂君が俺に、君が思う結婚の意義を教えてくれ。この縁談は、そのための指導料も含まれていると思ってくれればいい」
「はい?」
 海翔の言葉に、実音はいよいよわけがわからないと言った顔をするけど、そんなことには気付かないフリで軽く左眉を跳ねさせて言う。
「君は、俺に幸せな結婚をしてほしいと言ったが、俺は結婚のメリットがそれくらいしか見付けられなかった。違うというのなら、どう違うのかを教えてくれ」
「でも……、そんな理由で私なんかと結婚して、もし八神さんに、ほんとうに好きで結婚したいと思う人が現れた時に困りませんか?」
「その時は離婚すればいい。その場合も、離婚の慰謝料として、有坂テクトへの支援は継続する」
 今時、離婚歴など、なんのマイナスにもならない。
 懸念を示す彼女にそう答えたけど、海翔の方から離婚を申し出ることはないだろう。
 二度と会えないと思っていた彼女に再会できた時に、自分の気持ちは決まったているのだ。
「そんなの、海翔さんになんのメリットもないじゃないですか」
「これはビジネスの交渉だ。欲しいものも対価を決める権利は俺にある。幸せな結婚がどいうもであるのか知れるなら、それくらい安いものだと俺が判断したんだから問題ない」
「同情……でしょうか?」
 困り顔を見せる実音を、海翔はニッと口角を上げて挑発する。
「同情で終わらせるかどうかは、有坂君の力量によるんじゃないのか? 君には、自分で自分の価値を作る強さがあると俺は信じている。家や会社を救いたいと思っているのなら、これはまたとない商談じゃないのか?」
 その言葉に、彼女の表情が引き締まる。
 覚悟を決めた瞬間、人は纏う空気も変わるもだが、素直な実音は、つくづくその変化がわかりやすい。
 海翔は静かに口角を上げた。
「わかりました。八神さんのお話、お受けしたいと思います」
「では、契約成立だな」
 家族の為にとこの縁談契を受け入れる彼女に、複雑な感情が胸に湧くが、それを振り払うようにして右手差し出す。
「よろしくお願いいたします」
 真摯な顔で自分の手を握り返す実音の指は細く、華奢な指先から伝わる体温に胸がせつなくなる。
「先に言っておくが、無理して俺のことを好きになる必要はない」
 自分の思いに釘を刺すべく、そう宣言する。
 愛なんて、不確かなものを相手に求めてはいけない。
 母や過去の恋人たちとの薄ぺっらな愛情に落胆した記憶が、感情にブレーキをかける。
 その言葉に、困ったような表情でうなずいた実音は、海翔に、有坂テクトを傘下に収めるにしても、兄の立場は守ってほしいと頼んできた。
 元々海翔としても、彼女の兄の優秀さは理解していて、今後のキーパーソンにするつもりだったので異存はない。
「実音」
 そう呼ばれることにかなり動揺したのか、繋いでいる彼女の手がピクリと跳ねた。
 その反応が、自分を拒絶されているようで面白くないと、海翔は繋ぐ手に力を込めて聞く。
「夫婦になるなら、そう呼んでも?」
「は、はい。……もちろん」
「俺のことも名前で呼んでくれ」
 うつむき、声をうわずらせる彼女にそう言うと、弾かれたように顔を上げた。
「か……かっ海翔さん」
 酸欠の魚のように口をパクパクさせること数秒、彼女が細く消え入りそうな声で名前を呼ぶ。
「これからよろしく」
 育ちがよく儚げな存在に見えるのに、芯が強く、人を愛することを忘れない。そんな彼女と、ただ一緒にいたいと思う。
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