買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される

6・指輪に込めた意味

 元許嫁である遼介に婚約破棄を告げられた日から一週間、実音の姿は、再び海翔のマンションにあった。
 有坂家のような広さはないが、洗練されたデザインのこのマンショには、二十四時間在中のコンシェルジュの他、スポーツジムやパーティールーム完備といった戸建てでは考えられない設備があって脅かされた。
 また高層階にある海翔の部屋から見る景色も格別で、冬晴れの日には遠く富士山を眺めることもできるのだという。
 そんなマンションを訪れるのは、まだ二回目なのに、今日からここが実音の暮らす場所になるのだから、色々と落ち着かない。
「今日から、ここが我が家なんだよね」
 改めてその事実を口にすると、ひどく落ち着かない気分にさせられる。
 一週間前、遼介に理不尽になじられ、殴られそうになったところを海翔に助けられた。
 その時は小松メディカルからの支援を絶たれ、絶望的な気持ちでいたのだけど、その翌日、彼に契約結婚を持ち掛けられたことで状況は急変した。
 実音が契約結婚を承諾すると、彼はその日のうちに有坂家を訪れ、実音の両親に結婚の挨拶をした。
 最初、家柄や対面を気にする父は、かなり難色を示したのだけど、海翔が提示した支援の内容に態度を軟化させたのだった。
 小松崎家からの支援が受けられなったことと、実音が外泊したことで、二人が男女の仲になっていると勘違いしたことが大きかったようだ。
 そして海翔が、『融資開始は、夫婦として一緒に暮らし始めてから』と、条件を付けたことで、今日から、実音は彼のマンションで一緒に暮らすこととなった。
 急な話しのため、今朝入籍届けだけ提出し、挙式は、海外出張中の奏太が戻ってから改めて日取りを決めることになっている。
「実音、少しいいか?」
 自室にとあてがわれた部屋でボンヤリしていた実音は、ノックの音と共に聞こえる海翔の声に大きく肩を跳ねさせた。
「どうぞ」
 そう返すと、扉が開き、海翔が顔を覗かせる。
「海翔さん、すみません」
「なにが?」
 顔を見るなり咄嗟に謝る実音に、海翔は不思議そうな顔をする。
「えっと……」
 この部屋に存在していることが。――とは言いにくい。
 でも実音としては、本当にそういう気分なのだ。
 あの日、突然彼に契約結婚を持ち掛けられ戸惑いはしたものの、家族や会社を救いたい思いから、その申し出を受け入れた。
 彼ほどの人がどうして自分なんかと? という当然の疑問に、海翔はもっともらしい説明してくれたけど、彼の秘書を務めてきた実音には、それが嘘だとわかってしまう。
 たぶん海翔は、実音の状況に同情して、契約結婚を提案したのだ。
 自分のような思いをする子供を減らしたいと、事業拡大をしてきた彼としては、有坂テクトの倒産を傍観することができなかったのだろう。
 その証拠に彼は、離婚の可能性を示唆すると共に、実音に好意を持たれては迷惑だというようなことを言っていた。
 彼のその優しさに甘えていいのかという迷いもあったけど、あの夜、家に帰ろうとした自分を引き止め、泣くことを許してくれた彼の側を離れたくないと思ってしまったのだ。
 それに海翔は実音に、同情で終わらせるかどうかは自分次第というようなことを話してくれた。
 実音には、自分の価値を作る強さがあると信じていると言ってくれたことも大きい。
 曖昧ななにかに頼ることなく幸せになりたいと思い、ここまで孤軍奮闘してきた実音としては、父の意見に流されるように結婚するより、自分でその価値を見い出すことのできる結婚をしたい。
「婚姻届を出すだけなのに、海翔さんにまで仕事を休ませてしまったから」
 胸に燻る思いを口にしてはいけないと、実音はそう答えた。
 引っ越しは業者任せだし、婚姻届けの提出は実音一人でもできる。それなのに彼は、今日の仕事を休んだ。
 彼がどれほど多忙な身なのかを理解している実音としては、ただただ申し訳ない気分だ。
 実音のその言葉に、海翔は「そんなことか」と笑う。
「優秀な部下がいるから問題ない。それは実音もわかっているはずだ。それより、引っ越し荷物は、これだけなのか?」
 海翔は怪訝な表情で室内を見わたした。
 先日目を覚ました部屋を、そのまま自室すればいいとい言われたので、家から持ち込んだ荷物をひとまず全てこの部屋に運び込んでいる。
 ゲストルームとして使っていたというこの部屋には、ベッドなど最低限必要な家具が揃っていたので、実音が持ち込んだのは数箱の段ボールだけとなった。
 有坂家の娘として、嫁入り道具がこれだけなのかと呆れているのかもしれないけど、それには理由がある。
「結婚に備えて両親が揃えておいてくれた品は、失礼かと思って全部置いてきました。だからここにあるのは、自分で稼いだお金で買ったものばかりです」
 来るべき日に備えて両親が準備していた花嫁道具は、遼介に嫁ぐためのものだったのだ。あんなひどい男のために揃えた品を、彼と暮らすこのマンションに持ち込みたくはなかった。
 それに、かなりの確率で離婚する可能性のある結婚なのだから、先祖代々受け継がれてきた品を持ち込まれても迷惑だろうと考え、それも置いてきた。
 その結果、実音の荷物はかなり少なくない上に、年相応の女性が自分のお給料で買える安価なものばかりとなってしまった。
 黙って室内を確認する海翔の姿に、それはそれで失礼だったのだろうかと不安になってくる。
「なるほど、わかった。片付けが落ち着いたら、少し買い物に付き合ってほしい」
 一人納得した容姿の海翔は、実音に視線を戻してそう声をかけた。
「それなら、今すぐにでも大丈夫です」
 そう答えて、実音は腰を浮かせた。
 あれこれ考えてしまい、作業の手は止まっていたのだ。それなら、先に彼の用を済ませたほうがいい。
「着替えるので、少しだけ待っていてください」
 引っ越しの片付けをするために、実音は今、動きやすいラフな格好をしている。
 支度をするために立ち上がる実音に、海翔は自分も着替えてくると告げてその場を離れた。
 パタンッと扉が閉まる乾いた音に、実音は小さく息を吐く。
「ビックリした」
 これまで彼の秘書を務めてきたのだから変に思われるかもしれないけど、仕事抜きで、プライベートな彼と向き合うことにひどく緊張してしまう。
 女子校育ちといったことも原因なのだろけど、最近の自分は、海翔に対してそれ以上のなにかを感じている。
「しっかりしなさい、私」
 実音は自分の両手で頬をペチンッと叩いて気合いを入れる。
 家族と会社を救うために、できることはなんでもすると決めたのは自分だし、この結婚をただの同情で終わらせるかどうかも、自分にかかっているだ。
 彼からすれば、実音を納得させるための口実にすぎなかったのだろうけど、実音としては本気で取り組む所存だ。
 いつか彼が、心から愛せる人に出会った時、過去のトラウマを忘れてその手を取れるよう、家族のいる楽しさを伝えたい。
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