買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 教えられたままに彼の寝室に向かった実音は、部屋の照明は点けないままベッドにもぐり込んだ。
 こういう時、どんなふうに相手を待つのが正解なのかわからないけど、この先に待っている行為を考えたら、部屋は暗い方がいいし、暗い中座って待つのも変な気がする。
「…………」
 電気を消していても、窓の外から差し込む光が部屋をほんのりと明るく照らし、嵌めたままにしている左手の指輪が淡く輝いて見えた。
 さして装飾品に興味のない実音でも、思わず見とれてしまうほどの輝きを放つ指輪にはどれほどの価値があるのかわからないけど、そんな高価な指輪をもらっても胸が高鳴らないのは、彼にとってこの指輪が形式的な贈り物に過ぎないとわかっているからだ。
 きっと女性の扱いに慣れた彼にとって、指を贈るのも、相手の肌を求めるのも、深い感情が合っての行為ではないのだ。
 薄暗い視界でも、寝室にはキングサイズとわかる広いベッドの他、小さなテーブルセットやチェストが配置されているのがわかる。それだけの家具を配置しても、空間に余裕を感じさせる造りとなっている。
 独身の彼がどうしてこんな広いベッドで眠っているのだろうと考えたら、昼間、指輪を贈られた時と同じチクリとした痛みを感じた。
(他の女の人も、このベッドで眠ったことがあるんだよね)
 ふとそんなことを考えると、胸の痛みが濃度を増す。
 最初は小さな棘が刺さった時のような微かな痛みだったのに、今は心臓を握りしめられたような苦しみへと変わっている。
 実音がパジャマの胸元をクシャクシャににぎりしめていると、扉が開く気配がした。
「入るよ」
 海翔は遠慮がちに声を掛け、そのままベッドサイドに腰を下ろした。
 静かな部屋の中で彼の気配を感じていると、胸の痛みを忘れる代わりに、息苦しさを感じる。
 緊張で身動きもできずにいると、彼の手が、滑らかなシルクのベットカバー越しに自分の肩に触れた。
「ライトは、消したままの方がいい?」
 その問に実音が無言でうなずくと、海翔は「わかった」と答えて、そのままベッドの中に潜り込んでくる。
「実音」
「――っ!」
 彼に肩を引かれると、実音の体はあっさりと天井を向く。
 海翔は彼女の顔の両サイドに手を突き、腕でバランスを取りながら、実音の顔を覗き込んでくる。
 そうやって視線を重ねやことで、実音は彼が上半身裸であることに気付いた。
 自分を見下ろす海翔の顔が、カーテンの隙間から差し込む明かりに、青白く照らされる。
 洒落たスーツを品良く着こなす普段の姿から、彼が恵まれた体躯の持ち主であることは気付いていたけど、直に見ると、海翔は筋肉の隆起がかすかにわかるほどたくましい体つきをしていた。
 そんな彼に見下ろされると、自分が捕食される側にいることを思い知らされる。
 本当に喰われてしまうわけではないけれど、これから彼にその身を差し出すという意味においては、今の自分は間違いなく捕食される側だ。
「緊張している?」
 実音が固唾を呑んだ気配に、海翔が聞く。
 緊張で上手く声を出せない実音は、無言のままうなずいた。
 海翔は、左腕だけで体を支えて、右手で実音の頬を撫でた。
「キスをしても?」
 そう問いかけながら、彼の顔が迫ってきた。
(海翔さん、やっぱり綺麗な顔をしているな)
 今さらながらの事実に感嘆していると、焦点が合わせられないほど彼の顔が近くなり、クチュリッと、冷たく湿った感触が実音の唇に触れた。
 唇を合わせたまま海翔が息を吐く。
 湯上がりで湿った吐息が、実音の肺へと流れ込んでくる。
 大人な彼にはたいしたことのない行為なのかもしれないけど、生まれて初めて口付けを交わした身としては、誰かの息遣いをこれほどリアルに感じるという行為に、それだけで目眩を覚える。
 海翔が重ねた唇を動かすのに合わせて、躊躇いつつ、実音も唇を動かして応じていると、うるさいほどに鼓動が加速していく。
 彼の舌が、自分の口内に侵入してくる感覚に驚き、実音はもがくようにして彼の髪に指を絡めた。
 初めて触れる彼の髪は、思いの他サラサラしている。
「実音」
 彼の髪に指を絡め、体を硬くする実音の反応をどう受け止めたのか、海翔はキスの合間に優しい声で実音の名前を呼び、パジャマの裾から手を侵入させる。
「――っ」
 素肌にそのままパジャマを着ていただけなので、柔らかな腹部に彼の手が直に触れるのを感じ手、実音は腰を跳ねさせた。
 実音の腰のラインを撫でるようにして上に進む海翔の手が、胸の膨らみに触れる。
「着痩せするタイプなんだな」
「やぁっ」
 そんなふうに言われると、なんだか恥ずかしい。実音は肩を跳ねさせ、体を横に捻る。
「逃げないで」
 甘い声で囁く海翔は、うつ伏せ気味に横を向く実音を、背中から包み込むように抱きしめて、首筋に唇を這わせる。
 首筋を唇で撫でる海翔は、薄い前歯で、実音の耳朶を甘噛みする。
 痛みを感じるか感じないかのギリギリのラインを保ちながら、耳を甘噛みされると、それだけで実音の体に奇妙な甘い痺れが走る。
 その刺激に身を捩ると、背後から回された海翔の手が再び実音の胸に触れる。
 彼女の胸の膨らみに手を重ね、その弾力を確かめるように指を動かされると、つい体がビクビクと跳ねてしまう。
 海翔はゆっくり手を動かしながら、唇で耳朶や首筋に愛撫をしていく。クチュクチュと粘っこい水音を立てながら舌で撫でられると、全身に奇妙な痺れが走る。
「鼓動が早いけど、緊張している?」
 そう問いかけられると、なにも答えられない。
 初めての行為に緊張しているということ以上に、女性の扱いに慣れている彼に対して複雑な思いが胸を交差して言葉を発することができない。
「……ッ」
 実音が切なさを押し殺した息を吐くと、海翔の動きが不意に止まった。
「実音、泣いている?」
 そう尋ねながら、海翔の指が実音の目尻に触れる。
「え?」
 彼の指触れて初めて、実音は自分が涙目になっていたことに気付いた。
 あれこれ考え、泣いてしまった自分が恥ずかしくて、実音は肩を捻って布団に突っ伏す。
「ごめんなさい。こういうこと初めてで、ちょっと色々考えてしまいました……」
 実音のそこ言葉に、海翔が驚いて息を飲むのがわかった。
「でも、許嫁が……」
 実音が相手のことを苦手に思うのと同時に、遼介の方でも、実音に女性としての魅力を感じていなかったようで、キスをすることはおろか、指が触れたこともなかった。
 その説明に、海翔が驚いたのがわかる。
 確かに、結婚予定の相手がいるのに、キスもしたことないというのは驚きだろう。実音としても、自分に女性的な魅力に欠けていると白状しているようで話していて情けなくなるけど、それが事実なのだからしょうがない。
「海翔さんにとっては、こんなのたいしたことじゃないのに、大袈裟な反応してしまってごめんなさい」
 彼にとって自分は、さぞ面倒くさい嫁だろう。
 そう思うと、世界が終わってしまったような苦しみを覚える。
 そんなふうに思ってしまうのは、きっと相手が海翔だからだ。
 もし自分の隣でため息を吐くのが遼介だったのなら、自分はこんなに傷付いたりはしない。
 それだけ、自分にとって海翔は特別な存在なのだ。
 薄々気付き手はいたことだけど、自分は、彼のことが好きなのだ。
 そうでなければ、彼の過去に嫉妬して、彼に愛されていないことが苦しくてしかたない。
 だからこそ、通過儀礼のように指輪を渡されたことや、こんなふうに男性の本能的欲求として触れられることに切なさを覚えてしまう。
海翔からすれば、同情で結婚した相手に好意を寄せられても迷惑なだけということもわかっているのに、涙を堪えることができない。
(人を好きになるってもっと綺麗な感情だと思っていたのに……)
 恋をした自分は、ワガママで、独占欲が強くて醜くて呆れてしまう。
 そんな自分は、彼に愛されなくて当然なのに、それが悲しくて仕方ない。
 自分の胸の中に吹き荒れる感情を持て余していると、海翔がそっと肩を撫でた。
「成り行きの結婚なのに、本当の夫婦のような関係を求めて悪かった」
 そう言って自分から体を離す。
「俺はリビングで寝るから」
 上体を起こした海翔が、ベッドの端に座り立ち上がろうとする。
「ヤダッ」
 実音は咄嗟に手を伸ばし、彼が穿いていたスエットを掴んでそれを引きとめった。
 自分がかなりワガママなことをしている自覚はあるのだけど、今ここで彼と距離ができたら、二度と関係が修復できない気がする。
 涙目のまま見上げていると、海翔が困ったように実音の髪をかき回した。
「義務感で、無理して抱かれる必要はない。それで君の家への支援を打ち切ったりはしないから安心しろ」
 クシャクシャと髪をかき混ぜる手つきは雑なのに、話しかける声は切ないほど優しい。
 実音の気持ちが落ち着くのを待つように、クシャクシャと髪を撫でられていると、色々至らない妻だけど、少しでも彼のこの優しさに報いたい。
「海翔さんに触られるのが嫌なんじゃなくて、海翔さんが私を見ていないのが悲しいんです。……たぶん、女性はみんなそうです」
 自分の立場を考えれば、そんなワガママを言える立場じゃないことはわかっている。
 だからせめて、最後に『女性はみんなそう』と付け足すことで、将来彼が誰かを愛した時に備えたアドバイスということにして続ける。
「海翔さんが女性の扱い方を知っていることや、指輪のサイズ、聞かなくてもわかっていたこと。そういうの、悲しいって思っちゃう女性もいるから、気を付けた方がいいですよ」
「え?」
 震えてしまわないよう注して発した実音の言葉に、海翔が戸惑いの声を漏らした。
「あんなふうに段取りよく準備されていると、この人は過去にも、こうやって女性に指輪を贈ってきたんだなって……しかも、その過去の女性は、高価な指輪を贈れば満足する人だったんだなって伝わってくるんです」
 海翔の体が微かに跳ねるのを感じた。
 たぶん、図星だったのだろう。
 その事実に鈍い痛みを感じながら、実音は続ける。
「海翔さんは素敵で、モテることは知っていたし、慣れているからこそ完璧なエスコートができて、それでお姫様気分になって幸せになれる子もいます。……そういう人からすれば、海翔さんのエスコートは完璧です。でも、万人受けする通り一遍の優しさを向けられると拗ねちゃう子もいるから、気を付けた方がいいですよ」
 そこまで話して、実音は彼から手を離した。
 自分の醜い嫉妬心を彼に見透かされているのではないかと不安になって枕に顔を押し付けていると、再びベッドに戻ってきた海翔に背後空だき締められて驚いた。
「優しくできなくてごめん」
 首筋に、彼の深いため息が触れる。
 心からの後悔を滲ませた海翔の言葉に、実音はそんなことはないと首を横に振る。
「私は、自分の役割として、アドバイスしただけです。自分が初めてだから、つい、海翔さんはこのベッドで他の人にもこうやって触れたんだろうなって思ったら、なんていうか……」
 あくまでもこれはい一般論だと、自分の嫉妬心をごまかしていると、海翔が困ったように笑った。
「なるほど。じゃあ、その一般論をおしえてくれ。実音が、もし本当に俺の愛する人だとたら、俺はなにから始めれば、君を幸せにできる?」
 彼のその言葉はもちろん、仮定の話だ。
 それなのにバカな乙女心は、もし彼に心から愛されているのならと、あれこれ妄想してしまいそうになる。
 実音が暴走しそうな自分の心を抑えるべく黙りこんでいると、その沈黙をどう思ったのか海翔が言う。
「それと、俺がマンションに女性を入れたのは実音が初めてだ」
「え? だって、ベッド……」
 その言葉に海翔は軽く首を動かし、ふたりが体を預けているベッドのサイズを確かめて納得したようにうなずいて説明する。
「マンションを購入した際、忙しかったから家具の手配など全て、インテリアコーディネーターに任せたんだ。だから、使う予定もないゲストルームもあっただろ」
「あ……」
 その言葉に、体から力が抜けるのを感じた。
 確かに自分の部屋にとあてがわれたゲストルームの寝具は、全てが真新しいものだった。
「変なこと言って、ごめんなさい」
「こちらこそ、悪かった。どう人と接すれば幸せになれるか学ぶために結婚したのに、君を知る努力をおこたっていた」
 海翔はそう詫びると、実音を優しく抱きしめてあれこれ質問してくるのだった。
 なんだか、子供が泣いて駄々をこねたような結果に気まずい。それでも彼の気遣いが嬉しくて、実音は鼻をぐすぐすさせながら彼の質問答えていった。
 実音の趣味や好きな音楽、旅行に行ったことのある場所や、学生時代の思い出。時折沈黙を挟みながら、海翔は実音を知るための質問を続けていく。
 時々質問が途切れるのは、彼がこれまで女性とあまりこういった会話をしてこなかったなのかもしれない。
 そう思うと、自分のために質問を探す彼の姿に実音としては愛おしさが増す。
 実音も彼を知りたいと、自分からも海翔に質問をした。
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