買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される

8・ふたりの距離

「海翔さん、今日は会食だから夕飯いらないんですよね」
 朝、朝食の準備を整える実音は、着替えを済ませてリビングに入って来た海翔にそう声をかけた。
 海翔のマンションで暮らすようになって十日、第四月曜日の今日、彼は経営陣の交流を目的とした食事会に出席する。
「ああ。なにか用があるなら、変更してもかまわないが?」
 ワイシャツの袖口のボタンを留めようとしていた海翔は、手の動きを止めてこちらに視線を投げかけてきた。
 歩み寄り、彼に代わって袖口のボタンを留める実音は、首を横に振る。
「そうじゃなくて、海翔さんがいないなら、友達と食事をしてきてもいいですか?」
 もう一方の袖口のボタンを留めながら、実音は言う。
 海翔と結婚して、一緒に暮らすようになってから一週間が過ぎた。
 最初の夜、感情を空回りさせてベッドで泣いてしまた時には、全てが終わったような気でいたけど、その後の自分たちは思いの他仲よく過ごせている。
 あの日、あまりに大人げのない態度を晒してしまったせいか、海翔が泣いてしまった実音を気遣って眠りに落ちるまで他愛ない話をたくさんしてくれたおかげか、翌日目が覚めた時、不思議とふたりの間の空気感がなにか違っていた。
 しかも彼は、あれから毎晩ベッドを共にして、実音が眠りにつくまで、色々話してくれるようになった。
 とはいえ、実音が泣いてしまったことに気を使っているのか、男性経験のない実音を面倒に思ったのか、ふたりの関係は清いままなのだけど。
 そうやって会話を重ねていったことで、彼の所有するマンションに暮らし、生活費も不要と海翔が言うので、休職中で時間のある実音が、当面の間食事などの家事を担当することになった。
 ちなみに、他家に嫁ぐこと前提に育てられた実音は、どちらかと言えば家事が得意だ。それなのに海翔は、社長令嬢というものは何一つ家事しないという変な思い込みがあり、実音が料理上手であることにかなり驚いていた。
「友達?」
「同じ秘書室の川根さんです。海翔さんとのことを報告してから、ずっと話をしたいって言われていて」
 彼がふたりの関係を明かしてかまわないと言ってくれたので、芽衣子には、海翔と結婚したことを報告してある。
 さすがに本当のことを話すわけにはいかないので、以前彼が準備したストーリーをそのまま伝え、騒がれるのが恥ずかしいので会社を辞めた後でこっそり入籍するつもりだったけど、やっぱり入籍した上で仕事も続けることにしたということになっている。
「ああ、彼女か」
 少し高い位置に視線を向けて海翔がうなずく。
 ヤガミは大企業なので、社長とはいえ、海翔も全ての社員の顔をは知っているわけじゃない。それでも秘書室との関わりは多いので、名前を聞いただけで誰だかわかったらしい。
「海翔さんの遅くなる日に、一緒にご飯を食べようって誘われているんです。行ってもいいですか?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
「何処のお店に行くの?」
 その質問に実音が、彼女が予約しておくと言っていた店名を告げる。知っている店だったのか、海翔は「わかった」と軽くうなずいた。
「そうか。楽しんできて」
 実音の肩に手を添えて、ボタンのお礼を告げて食卓に向かおうとした海翔だけど、数歩歩いたところで、クルリとこちらをふり返る。
「帰りは、電車じゃなく必ずタクシーを使うように」
「そんなに、遅くならないですよ」
 もともと家が厳しかったこともあり、普段からあまり遅くまで出歩く習慣がない。今日も、遅くても二十一時にはお開きにしようと芽衣子とも話している。
 そう説明したのだけど、海翔は不満げだ。
「それでも。酔っ払いが心配だから」
 その真剣な勢いに負けて条件反射のようにうなずくと、海翔は、それでいいと言いたげにうなずき今度こそ食卓へと向かう。
 その背中を追いかける実音は、そっと苦笑した。これまでの部下という距離感では気付かなかったけど、彼はかなり心配性だ。
 実音の外出を止めるようなことはないのだけど、自分がいる時は目の前のコンビニに行くだけでも必ずついてくるし、少しでも遅くなる時にはタクシーを使うように言う。
 好きな人に優しくされるのは嬉しいことなのだけど、その分、申し訳ない思いにもさせられる。
「実音?」
 一瞬ボンヤリする実音に、海翔が声をかける。
「なんでもないです」
 実音は胸に湧く思いを振り払い、彼と食卓を囲んだ。
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