買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
その日、海翔が実音を連れて行ってくれたのは、商業施設の高層階にあるステーキハウスだった。
「すごいですね」
店のカウンターに座った実音は、思わずといった感じで声を漏らした。
最近再開発が進んでいるエリアに建っていることもあり、一面ガラス張りの窓の向こうには、煌びやかな夜景が広がっている。
「気に入ってもらえてよかったよ」
圧倒的な景色に見とれる実音を見て、海翔が小さく笑う。
「はしゃいですみません」
並んで座る彼の視線に気付いて、実音は慌てて表情を整えた。
いつもの会食とは違う流れに、つい油断してしまった。
「せっかくなら、素直に喜んでもらえた方が、気分がいいよ」
口元を手で隠して済ました顔をする実音に、海翔が言う。
そして軽く手を挙げて、スタッフに合図を送ると、実音の希望を確認しつつ飲み物とコース料理を注文していく。
注文を受けたスタッフが離れていくと、実音の視線はどうしても窓の向こうへと引き寄せられていく。
大きな鉄板を挟んだ向かい側に立つシェフの背後の夜景はやっぱり見事で、つい目を奪われる。
実音につられてか、海翔もぼんやり夜景を眺めていると、彼のスマホが鳴った。
「失礼」
部下である実音相手に律儀に断りをいれて、スマホを確認した彼が面倒くさそうに息を吐いた。
「八神さん、どうかされましたか?」
彼は社外で肩書きで呼ばれることを嫌う。そのため、外では商談の席以外では苗字で呼ぶことにさせてもらっている。
「なんでもな」
再び画面を確認した海翔の顔に、苦い表情が浮かぶ。
「なにかトラブルでも?」
それならば秘書として、状況を把握しておきたい。表情を引き締める実音に、海翔は軽く首を横に振る。
「今日会った女性のことは覚えているか?」
黙っていると実音が落ち着かないと判断したのか、食前酒が運ばれてきたタイミングで、海翔がそう問いかけてきた。
「はい」
元モデルで、華やかな顔立ちをした彼女のことだ。
実音がうなずくと、海翔が微かに口角を下げてグラスを手に取る。
「彼女の叔父が、ヤガミと付き合いのある企業の役員でな。ぜひ直接話を聞いてほしいと頼まれて、今日に至ったのだが……」
その辺の流れは、実音も承知している。
海翔は忙しい身なので、最初から立ち会うことはあまりない。
ただ今回は、その叔父に押し切られる形で、最初から海翔が対応することになった。
それに合わせて、彼のスケジュール調整したのも、秘書として立ち会ったのも実音なのだ。
「今日の商談は、縁談を持ちかける前の品定めだったようだ」
曖昧の笑う実音に、海翔は面倒くさそうに息を吐く。
さすがに面と向かって、自分の上司に『モテますね』とは言えない。
神妙な顔でうなずき、実音も自分のグラスに口をつけた。
ショットグラスのような小さな器は、琥珀色の液体で満たされていて、口をつけると果実酒特有のまろやかな甘みがした。
向かいでふたりのための準備を始めるシェフが杏のリキュールだと教えてくれた。
再度スマホが鳴って、メッセージの着信を告げると、海翔が顔を顰めた。
「大変ですね」
「まったくだ。女なんて今さら面倒なだけだし、恋愛なんてただの幻想だ。そんなものに、時間を使う気になんてならない」
実音が美味しいお酒を苦い顔で飲む海翔に同情すると、彼は苦笑いでうなずいて、食前酒の残りを煽る。
さりげなく「今さら」という言葉に、彼のこれまでの恋愛遍歴が見え隠れしている。
女子校育ちな上、許嫁がいる遠慮心が働いて、交際はおろか、異性に恋愛感情を抱いたこともない実音からすれば別世界の話だ。
「すごいですね」
「なにがだ?」
素直な思いで感嘆の息を漏らす実音に、海翔が納得のいかない様子で聞く。
「自由に選べる権利があるのに、選ばないことを選択をすることがです」
実音の言葉に、海翔は顔を上げ、目を瞬かせる。そして数秒考えた後で、クスクスと笑い出す。
「有坂君、君はあいかわらず面白いな」
「そ、そんなことないです。ただ私にとって、恋は月のようなものだから、そんなふうに憧れを抱くことなく興味を示さずにいられることが信じられなくて」
自分の分の食前酒の残りを飲み干して唸る。
一応許嫁はいるけど、それはもちろん恋とは違う。
とはいえもちろん、年頃の女性として、恋に憧れる思いはある。
だから海翔のように、異性としての魅力に溢れ、自由に恋愛ができる身でありながら恋をしないことを選択するのが勿体ないように思えてしまうのだ。
「月?」
カウンターに肘をつき、海翔がこちらの顔を覗き込んでくる。
完璧な大人とも言える彼に、そんなふうに興味を示されると、急に自分の発言が恥ずかしくなる。
「い、今の発言は、忘れてください」
顔をパタパタと仰ぎながら実音が言う。
だけど海翔は、その言葉の意味を探るみたいに視線を前へと向けた。
二人が座る席から、窓の向こうに浮かぶ月を確認することができる。
大きくて丸い月は、空が霞んでいるせいか、都心のネオンが明るすぎるせいか、輪郭がおぼろげで何処となくはかなげな印象を受ける。
「有坂君にとって、恋はこんな感じか」
月を見やり、海翔が呟く。
声の感じで、からかっているんじゃなくて、しみじみと感心しているのだとわかる。
(何気ない発言に、こんなに興味を示すなんて思わなかった)
そうは思うのだけど、ここで話を終わらせて沈黙が続くのも気不味い。それで仕方なく、実音は月を眺めて続ける。
「なんて言うか、『恋』ってすごく存在感がある言葉で、人の恋バナを聞くだけでもドキドキして嬉しくなるじゃないですか」
それはまだ恋を知らないからこその憧れからくる感覚なのかもしれないけど、実音は人の恋愛話を聞くのも、恋に悩む人の背中を押すのも大好きだ。
自分のものでなくとも『恋』という感情に触れると、わくわくする思いになるその感覚は、なんていか、月を見上げている時に似ている。
空に輝く月は、触れることも、自分のものにすることもできない。それでも、その存在を疑ったこともないし、存在を確認するだけで嬉しくなる。
実音にとって、恋とはそういうものなのだ。
だから恋愛を放棄する海翔を、勿体ないと思ってしまう。
「面白い意見だ。俺の場合、人の恋バナを聞くと、『お前、騙されてないか?』って、ドキドキするぞ」
実音の思いに水を差すようなことを言う海翔を、自分の雇い主であることを忘れて睨んでしまう。
その眼差しに、海翔は「悪い」と肩をすくめる。
大企業のCEOである海翔は、その肩書きに奢ることなく、気さくな性格をしていて、仕事を離れるといつもこんな感じだ。
基本男性が苦手な実音も、彼のそういう飾らない性格は好ましく思っている。
そのタイミングで先付けのカルパッチョが運ばれてきた。
この店は、シェフが全ての肉をほどよいサイズに切り分けてくれるため、ナイフとフォークではなく、箸が用意される。
配膳が終わるのを待って、海翔が傍らに置かれた漆塗りの箸を手に取った。箸を持った後で思い出したように、軽く手を合わせる。
彼の動きに数秒遅れて、実音は、一度手を合わせてから丁寧な所作で箸を手にした。
料理に手を伸ばそうとして、頬に視線を感じた気がして隣を見ると、海翔と目が合った。
目が合うと、彼は慌てて食事に箸を伸ばしながらポツリと言う。
「有坂君の価値観に茶々を入れるつもりはないんだ。ただ育った環境のせいか、俺には恋愛を信じることができない」
「え?」
実音を怒らせたとでも思ったのか、海翔は箸を動かしながら「発端は、自分の親にある……」と、プライベートな話を始める。
「俺が子供の頃は、父はまともなサラリーマンで、母は専業主婦だった。だけどある日、父の勤めていた会社が倒産したことで、全てが一変した」
その『ある日』とは、彼が小学校一年生の時だったそうだ。
「父親の会社が倒産した途端、母は家の金を全て持って、浮気相手の男と逃げた。俺の進学や、家を建てるために蓄えていたもの全てだ。生真面目で愛妻家だった父にとって、失業と同時に受けた母の裏切りは大きな打撃で、立ち直ることができなかったようだ」
それはどういう意味かといえば、彼の父親はその後一年ほどは短期労働で食いつないで、子供だった海翔を養ってくれていたのだという。
でもその生活は苦しく、先の見えない不安が常につきまとっていた。
そんな暮らしが嫌になったのか、子供だった彼の存在を重荷に感じたのか、ある日父は姿を消した。
その後彼自身は、父方の祖父母に引き取られ育てられたのだという。
年金暮らしの中、どうにか海翔を養ってくれた祖父母も、彼が大学生の時に相次いで亡くなったのだと話す。
海翔が若いうちに起業したのは、少しでも早く祖父母に楽をさせてやりたかったからなのだ。
結果、最後の時を迎える祖父母に、手厚い医療と介護を受けさせてあげられたのが、せめてもの救いだと海翔は言う。
「両親は駆け落ち同然の恋愛結婚だと聞いているが、父が失業した途端、あっさり見切りをつけた母に愛があったとは思えない。若い頃には、それなりに女性と付き合ったこともあったが、その誰もが若くして成功した俺の財産や名声に興味があっただという感じで、愛情があったとは思えなかったよ」
「すみません」
彼が若くして起業した理由や、先ほどの言葉に、そんな辛い過去が込められているなんて、思いもしなかった。
子供じみた憧れで恋愛を語る自分が恥ずかしくなり、実音がうなだれていると、海翔は軽い口調で続ける。
「有坂君が謝るようなことじゃない。俺の性格が捻くれた理由を説明しているだけだ。それに祖父母は、いい人たちで、貧乏はしたが不幸ではなかったさ」
そう話す海翔の前に、バターソースがかけられた海老が置かれる。
彼はそれを箸で摘まんで、ヒョイと口の中に放り込み、嬉しそうに目を細めた。
続いて実音の前にも海老が置かれたので、実音もそれを食べてみて、彼の表情の意味を理解する。
プリプリとした食感の海老は、バターとコショウだけでなく、微かにガーリックの風味も感じられて癖になる味わいだ。
「死んだ祖父が『人間は、苦労した分幸せになれる。だから幸せになることを諦めるな』と、よく話していたが、こういう時はしみじみとそう思うよ」
けっして楽な人生ではなかったはずなのに、美味しい食事を取ればこれまでの苦労が報われるなんて、彼はかなり安上がりな性格をしているのかもしれない。
そんなことを思った時、海翔が独り言のように付け足す。
「それに、俺が経営者として成功することで、俺みたいな思いをする子供を減らすことができる。そう思うと、救われた気分になるよ」
吐息を漏らすような話し方で、それが彼の本音なのだとわかった。
ヤガミは企業の買収や合併で収益を上げ、会社を急成長させた。そういった対象となる起業には、そのままにしておけば確実に倒産したであろうものも多く含まれている。
「せっかくの食事時に、気が滅入るような話をしてしまったな」
自分の稚拙さを噛みしめていた実音の神妙な顔を見て、海翔が困ったように笑う。
「すみません」
そんなふうに謝っても、彼を困らせるだけ。わかっていても、その言葉が口を突いて出てしまう。
「こちらこそ、重い話をして悪かった。俺が独身主義の理由を理解してくれたら、それでいい」
しんみりした空気を払拭するべく、海翔は軽い口調で言う。
「八神さんの強さには、いつも尊敬させられます」
実音が素直な感情を口にすると、彼は虚を突かれたような表情で瞬きをする。でもすぐに表情を和らげて、目尻に微かな皺を刻む。
「俺からすれば、虚勢を張らない有坂君の真摯な生き方の方が、尊敬に値するよ」
「わ、私なんかのどこに?」
「尊敬や感動を素直に口にできるところだ。苦労して育ったせいか、俺は子供の頃から、弱い部分を見せたら負けると思って生きてきた。そのせいか、常に虚勢を張る癖がついているからな」
思いがけないことを言われて戸惑う実音に、彼はそう説明してくれた。
尊敬する人に評価されるのは嬉しいことだけど、それは実音と海翔では、背負っているもの大きさが違うのだからだ。
過剰な評価を受けいているような気がして、なんだか居心地が悪くなる。
「そんなことより、今日は有坂君の話を聞くために、食事に誘ったんだ」
実音が困り顔を浮かべていると、海翔がスルリと話題を変えた。
「一年働いてみてどうだ? 後の二人は男だし、女性目線で不自由を感じることがあるなら、今後の職場改善の参考のためにも教えてもらいたい」
そう問いかける彼の視線はシェフの手元に向けられており、視線が重なることはない。
自身のためではなく、『今後のために』と前置きする海翔の言い方に、彼の気遣いを感じる。全てにおいてそうなのだが、一見おおざっぱに見えて、彼は周囲への気配りを欠かさない人だ。
今日の会食にこの店を選んだのも、実音を気遣ってのことなのだろう。
この店は、味もさることながらシェフが派手なパフォーマンスが楽しめることで知られている。
それを楽しみにして訪れる客も多く、空間を贅沢に使った店内はほどよく賑やかで、シェフのパフォーマンスに気を取られているフリをすれば、気まずくならずに沈黙をやり過ごすこともできる。
「どうかしたか?」
美酒と食事を楽しみながら会話を重ねていた実音が、フッと息を漏らすと、些細な表情の変化に気付いた海翔が怪訝な顔をする。
「いえ。八神さんは、私の許嫁と同い年なんですけど、色々違うなと……」
海翔には、秘書を任命される際に、自分の家のことは伝えてある。
コネで入社したわけではないので、関係ないかとも思ったのだけど、彼の秘書として同行した際に、親の知り合いと顔を合わせる可能性もある。そのタイミングで知られるより、先に伝えておいた方がいいと判断してのことだ。
それに実音が有坂テクトの社長令嬢であることで、彼の秘書を務めることに不具合があるのであれば、辞退させてほしいという思いもあった。
その話を聞いた海翔の返事は「で?」の一言だけだったのは、なんとも彼らしい。実音個人の仕事を評価して、秘書を任せたいと思ったのだから、そのバックグラウンドなど関係ないのだという。
彼のその言葉は、なにかと家柄を重視したがる両親や許嫁の家の価値観に慣れていた実音にはとても新鮮なものに映った。
そしてその際、許嫁がいることも、彼には話してある。
「そりゃ、有坂テクトの社長令嬢の婚約者様と比べれば、見劣りするさ」
箸を置き、グラスに手を伸ばす彼はそう茶化してくるけど、その逆だ。
許嫁である小松崎遼介の家は小松メディカルという医療機器メーカーの創業家で、そこの一人息子だ。彼は大学卒業と同時に自社に就職し、将来は小松メディカルを背負う身として、現在それなりのポストを任されていると聞いている。
なんとなく他人事のような言い方になってしまうのは、彼とは数ヶ月に一回会う程度の関係でしかないからだ。
正直に言うと、実音は、自分の許嫁が苦手だ。
年齢差があるためか、向こうも実音に関心がない様子なので、できればこのまま親が決めた許嫁のことなど忘れてほしいと願っている。
とはいえ両家の親が乗り気なので、さすがにそれは難しいのかもしれないけど。
「婚約者は、どんな人なんだ?」
軽い口調で海翔が聞く。
興味があるというより、手持ち無沙汰の雑談として聞いた感じだ。
相手が軽い感じなので、実音も深く考えることなく、思ったことをそのまま言葉にする。
「私の兄より、私の父に似たタイプの人です」
実音の実家である有坂テクトは、今年で創業百年を迎える歴史ある企業だ。古くは織機製造を生業としていたが、戦時中、戦闘機の旋盤製造を任されたことを足掛かりに大手精密機器メーカーへと成長し、国内外に工場を構えている。
創業家に生まれたという理由だけで社長の座に着いた父は、虚栄心が強く、理想主義な割に苦労を嫌う。逆に実音の六歳年上の兄は、現実主義の努力家だ。
許嫁の遼介も、どちらかと言えば、父に似た感じがある。
「それは、褒め言葉なのか?」
「秘密です」
本人のいない場所で、好き勝手に悪口を言うのは好きじゃない。
実音がそう言って言葉を濁すと、海翔は追及することなく「のろけか?」と笑う。
全然違うのだけど、この空気を崩したくないので、そういうことにしておく。
「すごいですね」
店のカウンターに座った実音は、思わずといった感じで声を漏らした。
最近再開発が進んでいるエリアに建っていることもあり、一面ガラス張りの窓の向こうには、煌びやかな夜景が広がっている。
「気に入ってもらえてよかったよ」
圧倒的な景色に見とれる実音を見て、海翔が小さく笑う。
「はしゃいですみません」
並んで座る彼の視線に気付いて、実音は慌てて表情を整えた。
いつもの会食とは違う流れに、つい油断してしまった。
「せっかくなら、素直に喜んでもらえた方が、気分がいいよ」
口元を手で隠して済ました顔をする実音に、海翔が言う。
そして軽く手を挙げて、スタッフに合図を送ると、実音の希望を確認しつつ飲み物とコース料理を注文していく。
注文を受けたスタッフが離れていくと、実音の視線はどうしても窓の向こうへと引き寄せられていく。
大きな鉄板を挟んだ向かい側に立つシェフの背後の夜景はやっぱり見事で、つい目を奪われる。
実音につられてか、海翔もぼんやり夜景を眺めていると、彼のスマホが鳴った。
「失礼」
部下である実音相手に律儀に断りをいれて、スマホを確認した彼が面倒くさそうに息を吐いた。
「八神さん、どうかされましたか?」
彼は社外で肩書きで呼ばれることを嫌う。そのため、外では商談の席以外では苗字で呼ぶことにさせてもらっている。
「なんでもな」
再び画面を確認した海翔の顔に、苦い表情が浮かぶ。
「なにかトラブルでも?」
それならば秘書として、状況を把握しておきたい。表情を引き締める実音に、海翔は軽く首を横に振る。
「今日会った女性のことは覚えているか?」
黙っていると実音が落ち着かないと判断したのか、食前酒が運ばれてきたタイミングで、海翔がそう問いかけてきた。
「はい」
元モデルで、華やかな顔立ちをした彼女のことだ。
実音がうなずくと、海翔が微かに口角を下げてグラスを手に取る。
「彼女の叔父が、ヤガミと付き合いのある企業の役員でな。ぜひ直接話を聞いてほしいと頼まれて、今日に至ったのだが……」
その辺の流れは、実音も承知している。
海翔は忙しい身なので、最初から立ち会うことはあまりない。
ただ今回は、その叔父に押し切られる形で、最初から海翔が対応することになった。
それに合わせて、彼のスケジュール調整したのも、秘書として立ち会ったのも実音なのだ。
「今日の商談は、縁談を持ちかける前の品定めだったようだ」
曖昧の笑う実音に、海翔は面倒くさそうに息を吐く。
さすがに面と向かって、自分の上司に『モテますね』とは言えない。
神妙な顔でうなずき、実音も自分のグラスに口をつけた。
ショットグラスのような小さな器は、琥珀色の液体で満たされていて、口をつけると果実酒特有のまろやかな甘みがした。
向かいでふたりのための準備を始めるシェフが杏のリキュールだと教えてくれた。
再度スマホが鳴って、メッセージの着信を告げると、海翔が顔を顰めた。
「大変ですね」
「まったくだ。女なんて今さら面倒なだけだし、恋愛なんてただの幻想だ。そんなものに、時間を使う気になんてならない」
実音が美味しいお酒を苦い顔で飲む海翔に同情すると、彼は苦笑いでうなずいて、食前酒の残りを煽る。
さりげなく「今さら」という言葉に、彼のこれまでの恋愛遍歴が見え隠れしている。
女子校育ちな上、許嫁がいる遠慮心が働いて、交際はおろか、異性に恋愛感情を抱いたこともない実音からすれば別世界の話だ。
「すごいですね」
「なにがだ?」
素直な思いで感嘆の息を漏らす実音に、海翔が納得のいかない様子で聞く。
「自由に選べる権利があるのに、選ばないことを選択をすることがです」
実音の言葉に、海翔は顔を上げ、目を瞬かせる。そして数秒考えた後で、クスクスと笑い出す。
「有坂君、君はあいかわらず面白いな」
「そ、そんなことないです。ただ私にとって、恋は月のようなものだから、そんなふうに憧れを抱くことなく興味を示さずにいられることが信じられなくて」
自分の分の食前酒の残りを飲み干して唸る。
一応許嫁はいるけど、それはもちろん恋とは違う。
とはいえもちろん、年頃の女性として、恋に憧れる思いはある。
だから海翔のように、異性としての魅力に溢れ、自由に恋愛ができる身でありながら恋をしないことを選択するのが勿体ないように思えてしまうのだ。
「月?」
カウンターに肘をつき、海翔がこちらの顔を覗き込んでくる。
完璧な大人とも言える彼に、そんなふうに興味を示されると、急に自分の発言が恥ずかしくなる。
「い、今の発言は、忘れてください」
顔をパタパタと仰ぎながら実音が言う。
だけど海翔は、その言葉の意味を探るみたいに視線を前へと向けた。
二人が座る席から、窓の向こうに浮かぶ月を確認することができる。
大きくて丸い月は、空が霞んでいるせいか、都心のネオンが明るすぎるせいか、輪郭がおぼろげで何処となくはかなげな印象を受ける。
「有坂君にとって、恋はこんな感じか」
月を見やり、海翔が呟く。
声の感じで、からかっているんじゃなくて、しみじみと感心しているのだとわかる。
(何気ない発言に、こんなに興味を示すなんて思わなかった)
そうは思うのだけど、ここで話を終わらせて沈黙が続くのも気不味い。それで仕方なく、実音は月を眺めて続ける。
「なんて言うか、『恋』ってすごく存在感がある言葉で、人の恋バナを聞くだけでもドキドキして嬉しくなるじゃないですか」
それはまだ恋を知らないからこその憧れからくる感覚なのかもしれないけど、実音は人の恋愛話を聞くのも、恋に悩む人の背中を押すのも大好きだ。
自分のものでなくとも『恋』という感情に触れると、わくわくする思いになるその感覚は、なんていか、月を見上げている時に似ている。
空に輝く月は、触れることも、自分のものにすることもできない。それでも、その存在を疑ったこともないし、存在を確認するだけで嬉しくなる。
実音にとって、恋とはそういうものなのだ。
だから恋愛を放棄する海翔を、勿体ないと思ってしまう。
「面白い意見だ。俺の場合、人の恋バナを聞くと、『お前、騙されてないか?』って、ドキドキするぞ」
実音の思いに水を差すようなことを言う海翔を、自分の雇い主であることを忘れて睨んでしまう。
その眼差しに、海翔は「悪い」と肩をすくめる。
大企業のCEOである海翔は、その肩書きに奢ることなく、気さくな性格をしていて、仕事を離れるといつもこんな感じだ。
基本男性が苦手な実音も、彼のそういう飾らない性格は好ましく思っている。
そのタイミングで先付けのカルパッチョが運ばれてきた。
この店は、シェフが全ての肉をほどよいサイズに切り分けてくれるため、ナイフとフォークではなく、箸が用意される。
配膳が終わるのを待って、海翔が傍らに置かれた漆塗りの箸を手に取った。箸を持った後で思い出したように、軽く手を合わせる。
彼の動きに数秒遅れて、実音は、一度手を合わせてから丁寧な所作で箸を手にした。
料理に手を伸ばそうとして、頬に視線を感じた気がして隣を見ると、海翔と目が合った。
目が合うと、彼は慌てて食事に箸を伸ばしながらポツリと言う。
「有坂君の価値観に茶々を入れるつもりはないんだ。ただ育った環境のせいか、俺には恋愛を信じることができない」
「え?」
実音を怒らせたとでも思ったのか、海翔は箸を動かしながら「発端は、自分の親にある……」と、プライベートな話を始める。
「俺が子供の頃は、父はまともなサラリーマンで、母は専業主婦だった。だけどある日、父の勤めていた会社が倒産したことで、全てが一変した」
その『ある日』とは、彼が小学校一年生の時だったそうだ。
「父親の会社が倒産した途端、母は家の金を全て持って、浮気相手の男と逃げた。俺の進学や、家を建てるために蓄えていたもの全てだ。生真面目で愛妻家だった父にとって、失業と同時に受けた母の裏切りは大きな打撃で、立ち直ることができなかったようだ」
それはどういう意味かといえば、彼の父親はその後一年ほどは短期労働で食いつないで、子供だった海翔を養ってくれていたのだという。
でもその生活は苦しく、先の見えない不安が常につきまとっていた。
そんな暮らしが嫌になったのか、子供だった彼の存在を重荷に感じたのか、ある日父は姿を消した。
その後彼自身は、父方の祖父母に引き取られ育てられたのだという。
年金暮らしの中、どうにか海翔を養ってくれた祖父母も、彼が大学生の時に相次いで亡くなったのだと話す。
海翔が若いうちに起業したのは、少しでも早く祖父母に楽をさせてやりたかったからなのだ。
結果、最後の時を迎える祖父母に、手厚い医療と介護を受けさせてあげられたのが、せめてもの救いだと海翔は言う。
「両親は駆け落ち同然の恋愛結婚だと聞いているが、父が失業した途端、あっさり見切りをつけた母に愛があったとは思えない。若い頃には、それなりに女性と付き合ったこともあったが、その誰もが若くして成功した俺の財産や名声に興味があっただという感じで、愛情があったとは思えなかったよ」
「すみません」
彼が若くして起業した理由や、先ほどの言葉に、そんな辛い過去が込められているなんて、思いもしなかった。
子供じみた憧れで恋愛を語る自分が恥ずかしくなり、実音がうなだれていると、海翔は軽い口調で続ける。
「有坂君が謝るようなことじゃない。俺の性格が捻くれた理由を説明しているだけだ。それに祖父母は、いい人たちで、貧乏はしたが不幸ではなかったさ」
そう話す海翔の前に、バターソースがかけられた海老が置かれる。
彼はそれを箸で摘まんで、ヒョイと口の中に放り込み、嬉しそうに目を細めた。
続いて実音の前にも海老が置かれたので、実音もそれを食べてみて、彼の表情の意味を理解する。
プリプリとした食感の海老は、バターとコショウだけでなく、微かにガーリックの風味も感じられて癖になる味わいだ。
「死んだ祖父が『人間は、苦労した分幸せになれる。だから幸せになることを諦めるな』と、よく話していたが、こういう時はしみじみとそう思うよ」
けっして楽な人生ではなかったはずなのに、美味しい食事を取ればこれまでの苦労が報われるなんて、彼はかなり安上がりな性格をしているのかもしれない。
そんなことを思った時、海翔が独り言のように付け足す。
「それに、俺が経営者として成功することで、俺みたいな思いをする子供を減らすことができる。そう思うと、救われた気分になるよ」
吐息を漏らすような話し方で、それが彼の本音なのだとわかった。
ヤガミは企業の買収や合併で収益を上げ、会社を急成長させた。そういった対象となる起業には、そのままにしておけば確実に倒産したであろうものも多く含まれている。
「せっかくの食事時に、気が滅入るような話をしてしまったな」
自分の稚拙さを噛みしめていた実音の神妙な顔を見て、海翔が困ったように笑う。
「すみません」
そんなふうに謝っても、彼を困らせるだけ。わかっていても、その言葉が口を突いて出てしまう。
「こちらこそ、重い話をして悪かった。俺が独身主義の理由を理解してくれたら、それでいい」
しんみりした空気を払拭するべく、海翔は軽い口調で言う。
「八神さんの強さには、いつも尊敬させられます」
実音が素直な感情を口にすると、彼は虚を突かれたような表情で瞬きをする。でもすぐに表情を和らげて、目尻に微かな皺を刻む。
「俺からすれば、虚勢を張らない有坂君の真摯な生き方の方が、尊敬に値するよ」
「わ、私なんかのどこに?」
「尊敬や感動を素直に口にできるところだ。苦労して育ったせいか、俺は子供の頃から、弱い部分を見せたら負けると思って生きてきた。そのせいか、常に虚勢を張る癖がついているからな」
思いがけないことを言われて戸惑う実音に、彼はそう説明してくれた。
尊敬する人に評価されるのは嬉しいことだけど、それは実音と海翔では、背負っているもの大きさが違うのだからだ。
過剰な評価を受けいているような気がして、なんだか居心地が悪くなる。
「そんなことより、今日は有坂君の話を聞くために、食事に誘ったんだ」
実音が困り顔を浮かべていると、海翔がスルリと話題を変えた。
「一年働いてみてどうだ? 後の二人は男だし、女性目線で不自由を感じることがあるなら、今後の職場改善の参考のためにも教えてもらいたい」
そう問いかける彼の視線はシェフの手元に向けられており、視線が重なることはない。
自身のためではなく、『今後のために』と前置きする海翔の言い方に、彼の気遣いを感じる。全てにおいてそうなのだが、一見おおざっぱに見えて、彼は周囲への気配りを欠かさない人だ。
今日の会食にこの店を選んだのも、実音を気遣ってのことなのだろう。
この店は、味もさることながらシェフが派手なパフォーマンスが楽しめることで知られている。
それを楽しみにして訪れる客も多く、空間を贅沢に使った店内はほどよく賑やかで、シェフのパフォーマンスに気を取られているフリをすれば、気まずくならずに沈黙をやり過ごすこともできる。
「どうかしたか?」
美酒と食事を楽しみながら会話を重ねていた実音が、フッと息を漏らすと、些細な表情の変化に気付いた海翔が怪訝な顔をする。
「いえ。八神さんは、私の許嫁と同い年なんですけど、色々違うなと……」
海翔には、秘書を任命される際に、自分の家のことは伝えてある。
コネで入社したわけではないので、関係ないかとも思ったのだけど、彼の秘書として同行した際に、親の知り合いと顔を合わせる可能性もある。そのタイミングで知られるより、先に伝えておいた方がいいと判断してのことだ。
それに実音が有坂テクトの社長令嬢であることで、彼の秘書を務めることに不具合があるのであれば、辞退させてほしいという思いもあった。
その話を聞いた海翔の返事は「で?」の一言だけだったのは、なんとも彼らしい。実音個人の仕事を評価して、秘書を任せたいと思ったのだから、そのバックグラウンドなど関係ないのだという。
彼のその言葉は、なにかと家柄を重視したがる両親や許嫁の家の価値観に慣れていた実音にはとても新鮮なものに映った。
そしてその際、許嫁がいることも、彼には話してある。
「そりゃ、有坂テクトの社長令嬢の婚約者様と比べれば、見劣りするさ」
箸を置き、グラスに手を伸ばす彼はそう茶化してくるけど、その逆だ。
許嫁である小松崎遼介の家は小松メディカルという医療機器メーカーの創業家で、そこの一人息子だ。彼は大学卒業と同時に自社に就職し、将来は小松メディカルを背負う身として、現在それなりのポストを任されていると聞いている。
なんとなく他人事のような言い方になってしまうのは、彼とは数ヶ月に一回会う程度の関係でしかないからだ。
正直に言うと、実音は、自分の許嫁が苦手だ。
年齢差があるためか、向こうも実音に関心がない様子なので、できればこのまま親が決めた許嫁のことなど忘れてほしいと願っている。
とはいえ両家の親が乗り気なので、さすがにそれは難しいのかもしれないけど。
「婚約者は、どんな人なんだ?」
軽い口調で海翔が聞く。
興味があるというより、手持ち無沙汰の雑談として聞いた感じだ。
相手が軽い感じなので、実音も深く考えることなく、思ったことをそのまま言葉にする。
「私の兄より、私の父に似たタイプの人です」
実音の実家である有坂テクトは、今年で創業百年を迎える歴史ある企業だ。古くは織機製造を生業としていたが、戦時中、戦闘機の旋盤製造を任されたことを足掛かりに大手精密機器メーカーへと成長し、国内外に工場を構えている。
創業家に生まれたという理由だけで社長の座に着いた父は、虚栄心が強く、理想主義な割に苦労を嫌う。逆に実音の六歳年上の兄は、現実主義の努力家だ。
許嫁の遼介も、どちらかと言えば、父に似た感じがある。
「それは、褒め言葉なのか?」
「秘密です」
本人のいない場所で、好き勝手に悪口を言うのは好きじゃない。
実音がそう言って言葉を濁すと、海翔は追及することなく「のろけか?」と笑う。
全然違うのだけど、この空気を崩したくないので、そういうことにしておく。