買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
牧村に教えられたシティーホテルのラウンジなら、海翔も利用したことがある。
ホテルに駆けつた海翔は、自身の記憶を頼りに、そのままの勢いで店へと向かった。
ラウンジはホテルの二階にあり、一階フロア正面に見える階段を一気に駆け上がった海翔がそちらへと足を向けると、目ざとく来店に気付いたスタッフが歩み寄り柔和な笑みを浮かべる。
「お一人様でのおこし……お客さまっ!」
「失礼っ」
席へと案内しようとするスタッフの脇をすりぬけるようにして、海翔は店内へと歩みを進める。
秋とは思えない陽気の下全力で走り、息が乱れるし汗が流れる。ついでに言えば、皮靴で走ったせいで、アキレス腱に痛みを感じる。
でもそんなこと全部どうでもいいと、海翔は、首筋を伝う汗を袖で乱暴に拭い、店内に視線を巡らせた。
(いたっ!)
店内の奥まった席に、海翔は自分が探していた人の姿を見付けて息を飲む。
微かにピアノが流れる店内は場所柄もあり、ビジネスマンと思われる客がほとんどで、上品なデザインではあるがオフホワイトのワンピースにジャケットを合わせている実音の姿は目立っていた。
相手の顔は、観葉植物が邪魔をして確認することはできないが、腕を組み横柄にソファーに背中をあずける態度と、その向かいで膝に手を乗せ萎縮している実音の姿を見れば、自分が彼女を救い出すべき状況なのだと判断にできる。
足早に実音の側へと近づいた海翔の存在に、先に男性の方が気付いた。
てっきりもと許嫁と会っているのだと思っていたけど、相手は海翔の知らない男性だった。
でもそんなことはどうでもいい。
相手が誰であれ、彼女を困らせる存在がいるのなら、自分が対峙するまでだ。
男性の反応に遅れること数秒、実音が海翔の方を見ようとした。
だけどそれより早く、海翔はソファーに座る彼女の背後に立つと、前屈みになって左手をソファーのひじ掛けに乗せる。そして右手で、華奢な彼女の肩を包み込み、相手の男を威嚇する。
「彼女は俺の妻だ。他の誰かに渡す気もないし、彼女を傷付けるような振る舞いをするなら、それ相応の覚悟をしてもらいたい」
気迫を込めた海翔の眼差しを受けて、相手の男は一瞬ぽかんとした表情みせたが、すぐに怪訝な表情を見せた。
「お前は、伝統ある血筋の嫁がほしくて実音に契約結婚を持ち掛けたんじゃないのか?」
淡々とした口調で、それでいて何処か戸惑いを感じさせる声で男が言う。
彼女を平然と呼び捨てにする男に苛立ちが増す。
そのせいでよけい、言葉を選べなくなる。
「そんなの、ただの口実に決まっているだろ。自分の人生に誇りを持っているのに、伝統や家柄なんて気にするか」
丁寧に生きる彼女の所作を美しいと思い、見惚れていたことは何度もある。でもそれは、相手が実音だからだ。
吐き捨てる海翔の言葉に、何故だか相手がふっと表情を緩めた。
「だそうだ、実音」
彼女の名前を呼び捨てにする彼の声に、慈愛のようなものを感じ取ってたじろぐ。
奇妙に思い、実音へと視線を向けると彼女は口元を両手で隠し、大きく目を見開いている。
その瞳が涙に潤んでいるのは、どういうことだ。
「?」
理解できずに実音と男性を見比べていて、海翔はハッとした。
男と実音の顔の作りが、どこか似ているのだ。性別差や、実音が化粧をしていることあり、なんとなくという程度なのだけど、耳の形にいたってはほぼ同じと言っていい。
海翔があることを察したのを見計らったようなタイミングで、男が口を開く。
「家のためにお前が無理しているのかと思って、別れさせるために急遽帰国したが、取り越し苦労だったようだ」
不器用に笑う彼の言葉に、実音は目尻に浮かんだ涙を拭いながら返事をする。
「お兄様、ありがとう」
つまり彼は、実音の実の兄で、家のために契約結婚した妹の身を案じて、彼女と話し合っている最中だったのだ。
さっきまでとは違う種類の汗がどっと溢れ出す。
「有坂奏太……氏」
混乱しつつも記憶を探り、有坂テクトの経営陣に名を連ねている実音の兄の名前を口にすると、相手は軽くうなづいて立ち上がる。
「愚妹がお世話になっているようで」
彼は淡々とした口調でそう述べて右手を差し出す。
こちらに対する怒りといった感情は微塵も感じさせないので、おそらく普段からこういう話方をする人なのだろう。
「自己紹介が後になりましたが、実音さんと結婚させていただいた八神海翔といいます」
無理矢理感情を立て直し、差し出された手を握る。
握手の手を解いた奏太は、冷めた視線を向けて実音に聞く。
「僕と会うことを、彼に伝えていなかったのか?」
実音は、悪さを叱られた小さな子供のように、身を小さくして返す。
「だって離婚しろとか言うし、本当に突然帰って来るし……」
小さな声で話す彼女に、奏太は呆れたように言う。
「一度帰国すると伝えただろ。それに僕は、先日の電話で『離婚しろ』と言った覚えはない。兄として『幸せな結婚じゃないなら離婚しろ』と助言したんだ」
その言葉で、先日の実音の電話の相手が彼であったことが理解できた。
実音の兄は、有坂テクトの裁判の後始末の為、長期の海外出張中と聞いていたが、妹の身を案じて一時帰国したようだ。
それなら話し合いの場所を空港へのアクセスがよいシティーホテルにしたことにも、彼女を呼び捨てにして厳しい表情で話をしていたことにも納得がいく。
希薄な家庭環境に育った海翔は、その辺の配慮が欠けていたが、もし自分に妹がいて、許嫁との婚約解消をするなりよくわからな男と突然結婚したと聞かされれば、心配して離婚を勧めただろう。
面倒くさそうにため息を吐く奏太は、海翔の頭から足下へと視線を巡らせ、微かに表情を緩める。
「ずいぶん急いで、この場に駆け付けたようですね。妹が、何処かに行ってしまうとでも思いましたか?」
彼のその言葉に、海翔は手櫛で自分の髪を整え、スーツの襟に指を滑らせて乱れを整えた。
普段は身だしなみに気をやっている方だが、ここまで全力で駆けてきたため、かなり残念な状態になっているのがわかる。
冷静になると、周囲から向けられる視線も痛い。
「まあ、なんというか……」
気恥ずかしさから、意味もなく咳払いをしてしまう。
奏太は、少し腰を曲げてテーブルに置かれていた伝票を手に取る。
「とりあえず、話の続きは日を改めてしよう。有坂テクト創立百周年の式典までには、また日本に戻ってくるから」
実家に帰っても父親と口論になるのを避けるためこのホテルを利用していると話す奏太は、帰国したついでに幾つかの用を済ませたら、また向こうに戻るのだと言う。
兄の動きに合わせて実音もおずおずと立ち上がると、奏太は、自分の妹と海翔を見比べて言う。
「兄として、有坂テクトの社員として、それぞれに話したいことはあるけど、とりあえずは二人で話合うべきだ」
そう言ってその場を離れる奏太は、最後に『妹をよろしく』とでも言いたげに、海翔に頭を下げて店を出ていった。
チラリと視線を向ければ、実音が目を潤ませてこちらを見ている。
そんな彼女に引き寄せられるようにして彼女の手を握ると、実音が嬉しそうに微笑む。
そんな顔を見せられると、彼女が自分に対してどんな感情を抱いているのかを知りたくなってしまう。
そしてそれと同じくらい、自分がなにを思っているかを知ってほしい。
相手を知りたい、自分を知ってほしいと想うのは、愛情と同列の感情なのだ。
「実音、君に聞いてほしいことがたくさんある。それに、教えてほしいことも」
とはいえ、それは今ではない。
周囲の視線に気恥ずかしさを覚えつつ、海翔は実音の手を引いて歩いた。
ホテルに駆けつた海翔は、自身の記憶を頼りに、そのままの勢いで店へと向かった。
ラウンジはホテルの二階にあり、一階フロア正面に見える階段を一気に駆け上がった海翔がそちらへと足を向けると、目ざとく来店に気付いたスタッフが歩み寄り柔和な笑みを浮かべる。
「お一人様でのおこし……お客さまっ!」
「失礼っ」
席へと案内しようとするスタッフの脇をすりぬけるようにして、海翔は店内へと歩みを進める。
秋とは思えない陽気の下全力で走り、息が乱れるし汗が流れる。ついでに言えば、皮靴で走ったせいで、アキレス腱に痛みを感じる。
でもそんなこと全部どうでもいいと、海翔は、首筋を伝う汗を袖で乱暴に拭い、店内に視線を巡らせた。
(いたっ!)
店内の奥まった席に、海翔は自分が探していた人の姿を見付けて息を飲む。
微かにピアノが流れる店内は場所柄もあり、ビジネスマンと思われる客がほとんどで、上品なデザインではあるがオフホワイトのワンピースにジャケットを合わせている実音の姿は目立っていた。
相手の顔は、観葉植物が邪魔をして確認することはできないが、腕を組み横柄にソファーに背中をあずける態度と、その向かいで膝に手を乗せ萎縮している実音の姿を見れば、自分が彼女を救い出すべき状況なのだと判断にできる。
足早に実音の側へと近づいた海翔の存在に、先に男性の方が気付いた。
てっきりもと許嫁と会っているのだと思っていたけど、相手は海翔の知らない男性だった。
でもそんなことはどうでもいい。
相手が誰であれ、彼女を困らせる存在がいるのなら、自分が対峙するまでだ。
男性の反応に遅れること数秒、実音が海翔の方を見ようとした。
だけどそれより早く、海翔はソファーに座る彼女の背後に立つと、前屈みになって左手をソファーのひじ掛けに乗せる。そして右手で、華奢な彼女の肩を包み込み、相手の男を威嚇する。
「彼女は俺の妻だ。他の誰かに渡す気もないし、彼女を傷付けるような振る舞いをするなら、それ相応の覚悟をしてもらいたい」
気迫を込めた海翔の眼差しを受けて、相手の男は一瞬ぽかんとした表情みせたが、すぐに怪訝な表情を見せた。
「お前は、伝統ある血筋の嫁がほしくて実音に契約結婚を持ち掛けたんじゃないのか?」
淡々とした口調で、それでいて何処か戸惑いを感じさせる声で男が言う。
彼女を平然と呼び捨てにする男に苛立ちが増す。
そのせいでよけい、言葉を選べなくなる。
「そんなの、ただの口実に決まっているだろ。自分の人生に誇りを持っているのに、伝統や家柄なんて気にするか」
丁寧に生きる彼女の所作を美しいと思い、見惚れていたことは何度もある。でもそれは、相手が実音だからだ。
吐き捨てる海翔の言葉に、何故だか相手がふっと表情を緩めた。
「だそうだ、実音」
彼女の名前を呼び捨てにする彼の声に、慈愛のようなものを感じ取ってたじろぐ。
奇妙に思い、実音へと視線を向けると彼女は口元を両手で隠し、大きく目を見開いている。
その瞳が涙に潤んでいるのは、どういうことだ。
「?」
理解できずに実音と男性を見比べていて、海翔はハッとした。
男と実音の顔の作りが、どこか似ているのだ。性別差や、実音が化粧をしていることあり、なんとなくという程度なのだけど、耳の形にいたってはほぼ同じと言っていい。
海翔があることを察したのを見計らったようなタイミングで、男が口を開く。
「家のためにお前が無理しているのかと思って、別れさせるために急遽帰国したが、取り越し苦労だったようだ」
不器用に笑う彼の言葉に、実音は目尻に浮かんだ涙を拭いながら返事をする。
「お兄様、ありがとう」
つまり彼は、実音の実の兄で、家のために契約結婚した妹の身を案じて、彼女と話し合っている最中だったのだ。
さっきまでとは違う種類の汗がどっと溢れ出す。
「有坂奏太……氏」
混乱しつつも記憶を探り、有坂テクトの経営陣に名を連ねている実音の兄の名前を口にすると、相手は軽くうなづいて立ち上がる。
「愚妹がお世話になっているようで」
彼は淡々とした口調でそう述べて右手を差し出す。
こちらに対する怒りといった感情は微塵も感じさせないので、おそらく普段からこういう話方をする人なのだろう。
「自己紹介が後になりましたが、実音さんと結婚させていただいた八神海翔といいます」
無理矢理感情を立て直し、差し出された手を握る。
握手の手を解いた奏太は、冷めた視線を向けて実音に聞く。
「僕と会うことを、彼に伝えていなかったのか?」
実音は、悪さを叱られた小さな子供のように、身を小さくして返す。
「だって離婚しろとか言うし、本当に突然帰って来るし……」
小さな声で話す彼女に、奏太は呆れたように言う。
「一度帰国すると伝えただろ。それに僕は、先日の電話で『離婚しろ』と言った覚えはない。兄として『幸せな結婚じゃないなら離婚しろ』と助言したんだ」
その言葉で、先日の実音の電話の相手が彼であったことが理解できた。
実音の兄は、有坂テクトの裁判の後始末の為、長期の海外出張中と聞いていたが、妹の身を案じて一時帰国したようだ。
それなら話し合いの場所を空港へのアクセスがよいシティーホテルにしたことにも、彼女を呼び捨てにして厳しい表情で話をしていたことにも納得がいく。
希薄な家庭環境に育った海翔は、その辺の配慮が欠けていたが、もし自分に妹がいて、許嫁との婚約解消をするなりよくわからな男と突然結婚したと聞かされれば、心配して離婚を勧めただろう。
面倒くさそうにため息を吐く奏太は、海翔の頭から足下へと視線を巡らせ、微かに表情を緩める。
「ずいぶん急いで、この場に駆け付けたようですね。妹が、何処かに行ってしまうとでも思いましたか?」
彼のその言葉に、海翔は手櫛で自分の髪を整え、スーツの襟に指を滑らせて乱れを整えた。
普段は身だしなみに気をやっている方だが、ここまで全力で駆けてきたため、かなり残念な状態になっているのがわかる。
冷静になると、周囲から向けられる視線も痛い。
「まあ、なんというか……」
気恥ずかしさから、意味もなく咳払いをしてしまう。
奏太は、少し腰を曲げてテーブルに置かれていた伝票を手に取る。
「とりあえず、話の続きは日を改めてしよう。有坂テクト創立百周年の式典までには、また日本に戻ってくるから」
実家に帰っても父親と口論になるのを避けるためこのホテルを利用していると話す奏太は、帰国したついでに幾つかの用を済ませたら、また向こうに戻るのだと言う。
兄の動きに合わせて実音もおずおずと立ち上がると、奏太は、自分の妹と海翔を見比べて言う。
「兄として、有坂テクトの社員として、それぞれに話したいことはあるけど、とりあえずは二人で話合うべきだ」
そう言ってその場を離れる奏太は、最後に『妹をよろしく』とでも言いたげに、海翔に頭を下げて店を出ていった。
チラリと視線を向ければ、実音が目を潤ませてこちらを見ている。
そんな彼女に引き寄せられるようにして彼女の手を握ると、実音が嬉しそうに微笑む。
そんな顔を見せられると、彼女が自分に対してどんな感情を抱いているのかを知りたくなってしまう。
そしてそれと同じくらい、自分がなにを思っているかを知ってほしい。
相手を知りたい、自分を知ってほしいと想うのは、愛情と同列の感情なのだ。
「実音、君に聞いてほしいことがたくさんある。それに、教えてほしいことも」
とはいえ、それは今ではない。
周囲の視線に気恥ずかしさを覚えつつ、海翔は実音の手を引いて歩いた。