買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 雑談を交えつつ、この一年彼の下で働いた感想を話、今後も今の仕事を続けていきたいという希望を実音が伝えると、海翔も「これからもよろしく」と請け合ってくれた。
 そうやって面談を兼ねた食事が終わり店を出ると、海翔はタクシー乗り場まで実音送ると言って譲らなかった。
 一度は申し訳ないと辞退したのだけど、商業施設の外に出れば、すぐにタクシーは拾えるので、無駄な押し問答をするより送ってもらった方が時間のロスが少ない。
 そう判断した実音は、素直に彼の好意に甘えることにした。
「明日からもよろしく頼むな」
 タクシー待ちの列に並ぶ海翔が言う。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 彼を見上げ、改めて今日の食事のお礼を伝える実音は、海翔の後ろに見える月に目をとめた。
 先ほどより高い位置に昇っている月は、薄い雲の中で燐光を放つように淡く輝いている。
 それを眺めていると、実音の視線をたどるように自分の背後を確認した海翔がそっと息を吐く。
「月が綺麗ですね」
 月を見上げる彼に、実音は声をかけた。
 その言葉に、こちらへと視線を戻した海翔が、緩く笑って言う。
「I love you……ずっと昔に、その言葉を、そんなふうに訳した作家がいたな」
 海翔としては、胸に浮かんだ言葉をそのまま口にしただけのことなのだろう。
 だけど、彼のような魅力的な男性が、美しい月を背に『I love you』なんて台詞を口にすると、それだけで映画のワンシーンのような特別感がある。
 そのせいで、胸の奥がざわついてしまう。
「……」
 初めて感じる胸のざわめきを押さえたくて実音がブラウスの上に手を添えていると、ちょうどタクシー待ちの番がきた。
 軽く手を挙げて運転手に合図を送る海翔は、ドアが開くと実音に乗車を促す。
「気を付けて帰れよ」
 タクシーに乗れば、後は家に帰るだけなのに、海翔はそんなことを言う。
 その気遣いにお礼を言って車に乗り込んだ実音は、運転手に行き先を告げて後部座席のシートに背中をあずけた。
(さっき見た綺麗な月をもう一度見たいな)
 そう思い車外へと視線を向けた実音は、ちょうど視界に入ったカップルの姿に、「エッ」と小さな声を漏らした。
(遼介さん?)
 体のラインを強調するようなセクシーなワンピースに薄手のジャケットを羽織った女性は、連れの男性に腕を絡めて甘えている。
 そんな女性に満足げな眼差しを向け、軽いキスを交わしているのは、実音の許嫁である遼介だ。
 タクシーはまだ徐行と呼べる速度なので、自分の許嫁の顔を見間違えということはない。
 思わず腰を浮かして後ろの窓から背後を確認すると、こちらを見送る海翔と目が合った。
 突然後ろを振り返った実音に、海翔な怪訝な表情を浮かべるのが遠目にもわかる。
 そんな彼から視線を逸らし、遼介の姿を確認しようとしたけど、人混みに紛れて見えなくなっていた。
 タクシーが左折すると、実音は後部座席に座り直して気持ちを落ち着けようとした。
 だけど突然のことに驚いて、胸の鼓動が収まる気配はない。
 胸に手を当ててそっと窓を見上げると、空にはさっき海翔と一緒に見た月が浮かんでいる。
 ――月が綺麗ですね。
 ――I love you……ずっと昔に、その言葉を、そんなふうに訳した作家がいたな。
 脳内で勝手に再生された彼の声に、フッと体が楽になる。
 月の下、人目を憚ることなく女性とキスをする遼介は、きっと彼女のことが好きなのだ。
 もともと自分たちの間には、恋愛感情などないのだから、彼にそこまで好きな人がいるのであれば、婚約を解消すればいいだけだ。
 そのことに気づいた実音は、気持ちを落ち着けて綺麗な月を見上げた。
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