買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
朝、自分専用の執務室でメールのチェックをしていた海翔は、ノックの音に顔を上げた。
ノックの音には各々癖があるもので、ココンッとテンポよく叩く控えめな音を聞けば誰が来たのかわかる。
その証拠に、入室を促すと秘書の実音が顔を見せた。
「失礼いたします。午後の会議の資料になります。それと、明日からのアメリカ出張ですが、気象状況が悪いので、フライト時刻の変更が生じる可能性があります。その際、立ち寄り先の変更が求められるかも知れませんので……」
海翔専用のタンブラーをエグゼクティブデスクの邪魔にならない場所に置いた実音は、現地への到着時間が大幅に遅れた場合に備えて数パターンの行程表を提出する。
今回の出張の最大の目的は、最近買収したホテルの視察だが、そのついでにいくつかの企業を訪問することになっている。
かなりタイトなスケジュールになっているため、不測の事態に備えた工程表を作っておいてくれたらしい。
「ありがとう。有坂君は、指示を出さなくても、こちらが必要とすることを察して動いてくれるから助かるよ」
礼を言う海翔に実音は、はにかんだように笑う。
気取ることない実音の笑い方は、不思議なほど海翔の心をなごませる。
それは一種の才能のようなものなのかもしれない。
「そこまで褒めていただけることはにも……」
本人はあまり意識せずにそれをおこなっているからか、褒められると彼女はいつも驚いた顔をする。だけど海翔としては、彼女のさりげない気配りは、高い評価に値すると考えている。
先ほどのコーヒーの置き位置もそうだが、彼女は相手をよく観察し、その動きを考えて、邪魔にならないけど取りやすい絶妙な場所を選んでタンブラーを置くといった配慮を欠かさないのだ。
彼女の働き方を好ましく思っているので、今後も自分の下で仕事を続けたいと言ってもらえて嬉しかった。
「それと、昨夜はありがとうございました」
一通りの業務連絡を終えた実音に、改めて昨日の礼を言われて、海翔は彼女を見上げたう。
椅子に座っているうので、いつもは見下ろすことの多い彼女を見上げる姿勢となる。
見る角度の違いからか、彼女の横顔にいつもとは異なる印象を覚えた。
それに……
「昨日は大丈夫だったか?」
「え?」
海翔の問いかけに、実音はひどく驚いた顔で瞬きをする。
想定外の反応に、多少戸惑いつつ言葉をたす。
「昨日、タクシーの中で有坂君がこちらをふり返っていたから、なにか言いたいことがあったのかと気になっただけだ」
その説明に、実音が苦笑する。
「それは……タクシーで……」
「タクシー?」
「その…………えっと、あれです。昨日は酔っていて、促されるままにタクシーに乗り込んでしまいましたが、本来なら私がCEOを見送ってから帰るべきでした。申し訳ありませんでした」
少し言葉を探してから話す彼女の言葉に、そんなことかと笑ってしまう。
「昨日は、俺が有坂君をもてなしていたんだ。あれでいいんだよ」
海翔がそう言っても、彼女の表情には申し訳なさが残っている。
その律儀さを微笑ましく思いつつ、海翔は話題を変える。
「今日の夕方の会食に同席してもらってのいいか? 袴田君に同席してもらう予定だったが、明日からの出張を前に、別件で頼みたい仕事ができた」
「私なんかがお共させていただいて問題ないんでしょうか? 町村さんの方が適任では?」
咄嗟に緊張の表情を浮かべるのは、今日の会食相手が、海外の大手自動車メーカーの重役で、そういった席には、先輩秘書のどちらか、もしくはその二人が同席することが常だったからだ。
まずは経験を積むところからと、新人の実音には、この一年、先輩秘書の指示を仰ぎながらメールのチェックや航空機の手配といった雑務を任せることが多かった。
だが彼女の細やかな気配りや丁寧な仕事ぶりは、確かなものなのでそろそろ次のステップを踏ませて問題ない。
「誰を同席させるかを決めるのは、俺の仕事だ」
「でも……」
実音がなおも躊躇いの色を見せる。
消極的なその姿勢を、悪いものだとは感じていない。
新しいタスクを前に尻込みするのは、仕事と真剣に向き合おうとしているからこその反応だ。
だから上司として海翔がすべきことは、不安な部下の背中を押すことだ。
「問題ないと思ったから、声をかけたんだ」
彼女の目をまっすぐに見上げてそう言うと、実音の表情が引き締まる。
覚悟を決めた瞬間、人は纏う空気も変わるもだが、素直な実音は、その変化がわかりやすい。
「ありがとうございます。では先方の情報に関しましては袴田さんから引き継いでおきますので、勉強のためにも是非ご一緒させてください」
「よろしく頼む」
仕事に向き合う彼女の姿勢を清々しく思いつつ、海翔が軽く手を挙げると、それを合図に実音は一礼して部屋を出て行く。
その背中を見送った海翔は、そっと息を吐いた。
電話対応などの声に邪魔をされないよう、海翔の執務室は秘書たちのワークスペースと区切られた個室になっている。
誰かの目を気にする必要がないのをいいことに、海翔は椅子に背中をあずけて目頭を揉む。
「その程度のことか……」
昨夜、タクシーの中からふり向いた彼女が、自分になにか言いたそうに見えたのは、こちらの錯覚だったよだ。
一応、今朝、彼女より先にオフィスに顔を出した秘書の袴田と町村にそれとなく様子を確認した時にも、仲のいい同僚とじゃれていたと話していたから、昨日感じた胸のざわめきは海翔の思い過ごしだったのだろう。
そう納得すれば終わる話なのに、らしくないほど彼女を気に掛けてしまう自分がいる。
「有坂君相手だと、どうも調子が狂うな」
昨日だってそうだ。『月が綺麗ですね』と呟いた彼女の声を耳にした時、思わず心に浮かんだ言葉をしまったが、普段の自分は決してそんなキザな言葉を口にする男ではない。
正直に言えば、かの文豪が英語の授業の際、そのような訳し方をしたという逸話を聞いた際には『ちゃんと英語教師の仕事をしろよ』と、心の中でツッコミを入れてしまったくらいだ。
でも何故かあの時は、ごく自然にその言葉が漏れてしまった。
「はぁっ」
らしくない自分を持て余し、海翔はデスクのパソコンで有坂テクトの名前を検索する。
彼女の実家である有坂テクトは名の知れた会社だ。
最近株価が下がり気味ではあるが、長い歴史があり、その歴史に裏打ちされた信用がある手堅い企業であることには変わりない。
時流に乗り、他社を吸収合併することで一気に拡大したヤガミにはない風格を感じさせる。
彼女を自分直属の秘書に迎え入れる際、本人からそんな一流企業の社長令嬢と聞かされて驚いた反面、妙に腑に落ちるものもあった。
それは彼女の何気ない所作に、育ちの良さを感じていたからだ。
例をあげるとすれば、昨日の食事の際、海翔は無意識に箸を取り適当に手を合わせてしまったが、実音は違う。
丁寧に右手で箸を取り上げると、それを左手で受け止め、右指を滑らせるようにして箸を持つ。
扇を開くような滑らかな動きを、彼女は意識せずにやる。
ものの考え方にしても素直で、感情の棘といったものがない。自分と他人を比べて卑下したり妬んだりすることなく、正当に相手を評価して称えることができる。
ろくでもない親に捨てられたのではなく、自分から捨ててやったのだと嘯いて、それを反骨精神にのしあがってきた自分とは大違いだ。
そんな彼女を相手にしていると、こちらの感情も解され、いつもと違う一面を出してしまったのだろう。
ただそれだけのことと、自分に言い聞かせ、海翔は意識をビジネスモードに切り替えた。
ノックの音には各々癖があるもので、ココンッとテンポよく叩く控えめな音を聞けば誰が来たのかわかる。
その証拠に、入室を促すと秘書の実音が顔を見せた。
「失礼いたします。午後の会議の資料になります。それと、明日からのアメリカ出張ですが、気象状況が悪いので、フライト時刻の変更が生じる可能性があります。その際、立ち寄り先の変更が求められるかも知れませんので……」
海翔専用のタンブラーをエグゼクティブデスクの邪魔にならない場所に置いた実音は、現地への到着時間が大幅に遅れた場合に備えて数パターンの行程表を提出する。
今回の出張の最大の目的は、最近買収したホテルの視察だが、そのついでにいくつかの企業を訪問することになっている。
かなりタイトなスケジュールになっているため、不測の事態に備えた工程表を作っておいてくれたらしい。
「ありがとう。有坂君は、指示を出さなくても、こちらが必要とすることを察して動いてくれるから助かるよ」
礼を言う海翔に実音は、はにかんだように笑う。
気取ることない実音の笑い方は、不思議なほど海翔の心をなごませる。
それは一種の才能のようなものなのかもしれない。
「そこまで褒めていただけることはにも……」
本人はあまり意識せずにそれをおこなっているからか、褒められると彼女はいつも驚いた顔をする。だけど海翔としては、彼女のさりげない気配りは、高い評価に値すると考えている。
先ほどのコーヒーの置き位置もそうだが、彼女は相手をよく観察し、その動きを考えて、邪魔にならないけど取りやすい絶妙な場所を選んでタンブラーを置くといった配慮を欠かさないのだ。
彼女の働き方を好ましく思っているので、今後も自分の下で仕事を続けたいと言ってもらえて嬉しかった。
「それと、昨夜はありがとうございました」
一通りの業務連絡を終えた実音に、改めて昨日の礼を言われて、海翔は彼女を見上げたう。
椅子に座っているうので、いつもは見下ろすことの多い彼女を見上げる姿勢となる。
見る角度の違いからか、彼女の横顔にいつもとは異なる印象を覚えた。
それに……
「昨日は大丈夫だったか?」
「え?」
海翔の問いかけに、実音はひどく驚いた顔で瞬きをする。
想定外の反応に、多少戸惑いつつ言葉をたす。
「昨日、タクシーの中で有坂君がこちらをふり返っていたから、なにか言いたいことがあったのかと気になっただけだ」
その説明に、実音が苦笑する。
「それは……タクシーで……」
「タクシー?」
「その…………えっと、あれです。昨日は酔っていて、促されるままにタクシーに乗り込んでしまいましたが、本来なら私がCEOを見送ってから帰るべきでした。申し訳ありませんでした」
少し言葉を探してから話す彼女の言葉に、そんなことかと笑ってしまう。
「昨日は、俺が有坂君をもてなしていたんだ。あれでいいんだよ」
海翔がそう言っても、彼女の表情には申し訳なさが残っている。
その律儀さを微笑ましく思いつつ、海翔は話題を変える。
「今日の夕方の会食に同席してもらってのいいか? 袴田君に同席してもらう予定だったが、明日からの出張を前に、別件で頼みたい仕事ができた」
「私なんかがお共させていただいて問題ないんでしょうか? 町村さんの方が適任では?」
咄嗟に緊張の表情を浮かべるのは、今日の会食相手が、海外の大手自動車メーカーの重役で、そういった席には、先輩秘書のどちらか、もしくはその二人が同席することが常だったからだ。
まずは経験を積むところからと、新人の実音には、この一年、先輩秘書の指示を仰ぎながらメールのチェックや航空機の手配といった雑務を任せることが多かった。
だが彼女の細やかな気配りや丁寧な仕事ぶりは、確かなものなのでそろそろ次のステップを踏ませて問題ない。
「誰を同席させるかを決めるのは、俺の仕事だ」
「でも……」
実音がなおも躊躇いの色を見せる。
消極的なその姿勢を、悪いものだとは感じていない。
新しいタスクを前に尻込みするのは、仕事と真剣に向き合おうとしているからこその反応だ。
だから上司として海翔がすべきことは、不安な部下の背中を押すことだ。
「問題ないと思ったから、声をかけたんだ」
彼女の目をまっすぐに見上げてそう言うと、実音の表情が引き締まる。
覚悟を決めた瞬間、人は纏う空気も変わるもだが、素直な実音は、その変化がわかりやすい。
「ありがとうございます。では先方の情報に関しましては袴田さんから引き継いでおきますので、勉強のためにも是非ご一緒させてください」
「よろしく頼む」
仕事に向き合う彼女の姿勢を清々しく思いつつ、海翔が軽く手を挙げると、それを合図に実音は一礼して部屋を出て行く。
その背中を見送った海翔は、そっと息を吐いた。
電話対応などの声に邪魔をされないよう、海翔の執務室は秘書たちのワークスペースと区切られた個室になっている。
誰かの目を気にする必要がないのをいいことに、海翔は椅子に背中をあずけて目頭を揉む。
「その程度のことか……」
昨夜、タクシーの中からふり向いた彼女が、自分になにか言いたそうに見えたのは、こちらの錯覚だったよだ。
一応、今朝、彼女より先にオフィスに顔を出した秘書の袴田と町村にそれとなく様子を確認した時にも、仲のいい同僚とじゃれていたと話していたから、昨日感じた胸のざわめきは海翔の思い過ごしだったのだろう。
そう納得すれば終わる話なのに、らしくないほど彼女を気に掛けてしまう自分がいる。
「有坂君相手だと、どうも調子が狂うな」
昨日だってそうだ。『月が綺麗ですね』と呟いた彼女の声を耳にした時、思わず心に浮かんだ言葉をしまったが、普段の自分は決してそんなキザな言葉を口にする男ではない。
正直に言えば、かの文豪が英語の授業の際、そのような訳し方をしたという逸話を聞いた際には『ちゃんと英語教師の仕事をしろよ』と、心の中でツッコミを入れてしまったくらいだ。
でも何故かあの時は、ごく自然にその言葉が漏れてしまった。
「はぁっ」
らしくない自分を持て余し、海翔はデスクのパソコンで有坂テクトの名前を検索する。
彼女の実家である有坂テクトは名の知れた会社だ。
最近株価が下がり気味ではあるが、長い歴史があり、その歴史に裏打ちされた信用がある手堅い企業であることには変わりない。
時流に乗り、他社を吸収合併することで一気に拡大したヤガミにはない風格を感じさせる。
彼女を自分直属の秘書に迎え入れる際、本人からそんな一流企業の社長令嬢と聞かされて驚いた反面、妙に腑に落ちるものもあった。
それは彼女の何気ない所作に、育ちの良さを感じていたからだ。
例をあげるとすれば、昨日の食事の際、海翔は無意識に箸を取り適当に手を合わせてしまったが、実音は違う。
丁寧に右手で箸を取り上げると、それを左手で受け止め、右指を滑らせるようにして箸を持つ。
扇を開くような滑らかな動きを、彼女は意識せずにやる。
ものの考え方にしても素直で、感情の棘といったものがない。自分と他人を比べて卑下したり妬んだりすることなく、正当に相手を評価して称えることができる。
ろくでもない親に捨てられたのではなく、自分から捨ててやったのだと嘯いて、それを反骨精神にのしあがってきた自分とは大違いだ。
そんな彼女を相手にしていると、こちらの感情も解され、いつもと違う一面を出してしまったのだろう。
ただそれだけのことと、自分に言い聞かせ、海翔は意識をビジネスモードに切り替えた。