買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 その日の夜、実音は海翔より一足早く、会食がおこなわれるレストランに赴いていた。
 今日の会食のために先輩秘書である袴田が押さえた店は、老舗高級ホテルにある日本料理店だった。
 途中、百貨店に立ち寄り、袴田が手配しておいた手土産に渡す江戸切子のぐい飲みセットを受け取り、一足先に入店して座席や提供される料理に不備がないかの確認をしていく。
 会食の場所は偶然にも、昨日海翔と食事をした商業施設に隣接していて、ホテルに入る際、遼介が女性と抱き合っていた場所を通る必要があった。
 だからといって、それはたいした問題ではない。
 婚約解消の件については後日話合うことにして、今は、この会食を無事に終わらせようと、実音は仕事に意識を集中させる。
 海翔の秘書になって一年、これまでも実音が彼の打ち合わせや会食の席に同伴することはあった。でも今までは、先輩秘書のおまけといった感じで、万が一の粗相があって許してもらえる関係性が築けている相手とのものに限られていた。
 袴田に急用ができたためとはいえ、海翔は自分が認めていない人間をわざわざ同伴させたりはしない。
 つまり彼は、実音の仕事ぶりを認めてくれているということだ。
 そのことを誇らしく思いつつ事前確認を済ませた実音は、海翔と合流すべく一階ラウンジに向かっていた。
 ホテルのフロントを通り過ぎようとした時、前方から歩いてきたカップルの男性が「あっ」と声を漏らした。
 聞き覚えのある声に反応して視線を向けた実音は、驚いて足を止める。
「遼介……さん?」
 目を丸くして自分を凝視しているのは、許嫁である小松崎遼介だ。
 一瞬停止していた思考が再起動したのか、遼介は急に女性の腰に回していた腕を解き、突き放すようにして距離を取る。
 そんなふうに雑に扱われたことに怒りを覚えたのか、突き放された女性は、再度遼介の腕に手を触れさせて実音を睨む。
「この女、誰?」
 実音に攻撃的な視線を向ける女性は、彼は自分のものだと主張するように「早く部屋に行きましょうよ」と、背伸びをして遼介の耳元で囁く。
 その女性の顔が、昨日と違って見えるのは実音の記憶違いなのだろうか。
(この人、遼介さんに許嫁がいること知らないんだ)
 でなければ、こんなに堂々と自己主張するはずない。
「お前……、なんで……こんなところに?」
 声を絞り出すようにして問いかける遼介に、実音は笑顔で「仕事です」と返した。
 遼介が、なにか言葉を探すように口をパクパクさせていると、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「有坂君?」
 声のボリューム自体は控えめなものなのに、低く通る声に、一気に体の緊張が解ける。
 声のした方を見ると、少し離れた場所に立つ海翔の姿が見えた。
「上司が呼んでおりますので」
 彼と話したことはあるけど、今はそのタイミングではない。実音は一礼してその場を離れた。
「なにかトラブルか?」
 歩み寄る実音に、海翔が聞く。
 その眼差しは、まだ遼介たちの方へと向けられている。
 チラリと背後を確認すると、彼は女性と二人、こちらに背を向け歩み去るところだった。
「いえ。偶然知人に遭遇して挨拶をしていただけです」
 そう説明すると、遼介さんに興味を失ったのか、海翔が実音へと視線を移す。
 並んで歩きながら、実音は業務連絡を始めた。

 第一秘書の袴田の代わりに同伴した食事会は終始和やかで、食事を楽しみつつの会話も弾んでいた。
 帰り際に手渡したお土産に満足しもらえらようで、客人を乗せたハイヤーが遠ざかるのを見届けた実音は、先輩の代役を無事にやり遂げた充足感に満たされていた。
 でもその直後、業務連絡が入っていないか確認するためにスマホ画面をチェックして、小さく息を呑んだ。
「どうかしたか?」
 共に客人の見送りをしていた海翔が、目ざとく実音の変化に気付いて声をかける。
「なんでもありません。今日はこれで帰宅してよろしいでしょうか?」
 表情を取り繕い問いかけると、海翔がうなずく。
「問題ない。今日は遅くまで付き合わせて悪かった」
 時間はまだ二十一時前、そこまで遅い時間でもない。
「では、車の手配を……」
 そう言ってスマホを操作しようとした実音の手を押さえて、海翔は首を横に振る。
「上のラウンジで少し飲んでから帰るから、俺の分の車の手配は必要ない。有坂君の車だけ呼んでくれ」
 このホテルの最上階にあるバーラウンジには、カクテルの世界大会での優勝経験もある腕のいいバーテンダーがいて、その味を気に入っている海翔は、プライベートでちょくちょく立ち寄っているのだという。
 世界チャンピオンの味という者に実音が興味を示すと、彼は飲んでいくかと誘ってくれたけど、この後人に会う予定があるので、丁重にお断りさせてもらった。
「まだ早い時間ですし、私は電車で帰ります」
 実音はそう言って、スマホをバッグにしまう。
「有坂君」
 優しい声色で名前を呼ばれて、実音は顔を上げた。
「どうかしたか?」
 そう問いかけながら、背の高い海翔は、少し背を丸めなるべく目線を近い位置に持ってくる。そうやって、実音の些細な機微を見逃さないよう注意を払い、実音の言葉を待つ。
 彼はよく自分のことを『叩き上げの野良』と評して、雑な性格をしていると話すけど、その実、他人をよく見ていて、細やかに気遣いをする人だ。
 そして本人が意識しているのかは謎だが、実音とふたりで話す時、いつもより少しだけ砕けた口調になる。
「ずっと緊張しっぱなしで、少し疲れました。そんなことより、明日から出張なんですから、ほどほどにしてくださいね」
 自分が抱えている問題は彼に話すようなことではないと判断して、さりげなく話題を変える実音に、海翔は悪戯っ子のような笑みを浮かべて肩をすくめる。
「心配なら、見張りに来るか?」
「八神さんは大人の慎みを忘れない方と信じています」
 海翔は軽い口調で再度一緒に飲むことを誘ってくれたけど、そう言うわけにもいかない。
 実音が困り顔を見せると、海翔は残念そうに肩をすくめる。
「部下の期待を裏切らないよう、ほどほどにして帰るよ」
 魅力的な笑顔で軽口をたたく海翔をエレベーターまで見送った実音は、彼を乗せたエレベーターが上昇していくのを確認してから、自分も別のエレベーターに乗り込んだ。
 そして上昇していくエレベーターの中で、先ほど受信したメッセージを読み返し、眉根を寄せる。
『仕事が終わったら、部屋まで来い』
 そんな命令口調のメッセージの後には、ホテルの部屋番号が記載されていた。
 メッセージの送信者は、先ほど偶然ロビーで遭遇した遼介だ。
 乱暴な文面に、女性と一緒にいるところを見られた気不味さから、逆ギレされているような気分になる。
 とはいえ、彼と話をしなくてはいけないと思っていたのでちょうどいい。
 指定された部屋の扉をノックすると、やや間があって遼介が顔を出した。
 服は着ているが髪に乱れが残っている彼は、なかなかに不機嫌そうだ。
「とりあえず入れよ」
 体をずらしてドアを押さえる彼の横をすり抜けて部屋に入った実音は、視界に飛び込んできた寝乱れたベッドや甘酸っぱいすえた匂いに胃がざら付くのを感じた。
「先程の方は帰られたんですか?」
 嫉妬しているわけじゃないけど、艶かしい男女の交わりの名残を感じさせる室内の雰囲気に、不快な気持ちが抑えきれない。
 つい尖った声になってしまう。
「用が済んだから帰したよ」
 遼介は、気怠げ動きでソファーに腰を下ろし、首の動きで、実音に向かいのソファーに腰掛けるよう指示する。
 その指示に従い腰を下した実音は、さっそく本題を切り出す。
「遼介さんは、あの人と結婚したいんですよね?」
 彼の側から、この話を切り出しにくいかと思い実音から話しかけると、遼介さんは鼻を鳴らした。
「誰があんなアバズレと結婚するかよ」
「え?」
 一瞬、自分の聞き間違えかと思った。
 経験がないだけで、実音だって大人の女性だ。
 彼の腕に甘えていた女性の態度や、この部屋の荒れようを見れば、二人がどんな関係なのかは理解できる。
 許嫁がいてなお、彼が他の女性とそういった行為に及んだのは、押さえようのない愛情があってのことだと考えていたのに……
「顔と体は好みだけど、あんな派手でバカな女を公の場で連れて歩いたら、俺が恥をかくじゃねえか」
「でも、だって……」
 無意識に、乱れたベッドに視線が行く。
「これだから、ガキはっ。だから触れる気にもなれなかったんだよ」
 状況が飲み込めず目をパチクリさせる実音を見て、遼介が吐き捨てる。
 大袈裟にため息を吐く遼介は、実音に視線を向けて「でも……」と、下卑た笑みを浮かべて言う。
「スーツ姿ってのは、意外にそそるな」
「――っ!」
 下品な言葉と共に向けられた眼差しに、実音は肌が粟立つのを感じた。
 これまで彼とそういった関係にならなかったのは、単にお互い婚前交渉を求めていないだけと考えていたからだ。
 だけどそれは、実音の勘違いだったらしい。
「今日の件を父に報告させていただきます」
 それだけ言って、実音は勢いよく立ち上がる。
 昨日は実音の話に聞く耳を持たなかった父も、彼の不誠実さを知れば、考えを変えてくれるだろう。
「小松崎のおじさまには、父を介して、この件を伝えてもらった上で婚約解消する旨を伝えさせていただきます」
 先までとは違う意味で、彼との結婚なんてありえない。
 最低限のマナーとして、一礼して部屋を出て行こうとする実音の手首を、戸口まで追いかけてきた遼介が掴んだ。
「おい、待てよっ! お前、何様のつもりだよ」
 これまで知らなかった彼の粗暴な一面に驚く実音は、手首を引かれたことで、体勢を崩してしまう。
 咄嗟に彼に掴まれていない方の手を棚につくことで、転倒を免れる。
 そんな実音の体に覆い被さるように体を密着させて遼介が囁く。
「そんなことしたら、お前の会社や家がどうなるかわかってるのか?」
「え?」
 どういうことだろうと実音はふり返ると、遼介は、こちらが聞く耳を持ったのを理解して掴んでいた手を離した。
 乱暴に掴まれ痛みの残る手首を摩っていると、遼介が言う。
「有坂テクトの経営状況がかなりヤバいってわかっるのか?」
「それ、どういうことですか?」
 初めて耳にする情報に実音が愕然としていると、遼介が意地悪く笑って話を続ける。
「日本で大きなニュースとして扱われていないが、先日、有坂テクトは特許技術を巡る裁判で、海外の法廷で敗訴した。これまでの裁判でかなり体力を消耗していた上に、賠償金を支払う必要もある。海外工場の生産ラインも止まったままだし、既に製造しちまった製品を出荷することもできない。新工場を建てた直後ということもあって、資金繰りがかなり大変らしいな」
 海外資本の証券会社で働く友人から聞いた話として、遼介はそんなことを話した。
「そ、そんな話、父から聞いていません」
「世間知らずのガキに話しても意味ないからだろ」
 驚く実音を、遼介がバカにする。
「――っ」
「社会人ごっこして、大人になったつもりでいるガキに話してなんになる?」
 あまりの物言いに、実音が悔しさから下唇を噛むと、遼介は愉快そうに口角を持ち上げる。
「ああ、ごめん。言い過ぎたな。一応、価値はあるわ」
 ククッと喉を鳴らして笑う彼は、実音の髪を一房指にからめてそれを引っぱりながら言う。
「お前を俺に売り飛ばして、小松メディカルからの資金援助をしてもらおうと思っているんだった」
「え……?」
 髪を下に引かれたことで、いつも以上に低い位置から彼を見上げる姿勢になる。
 驚いて目を丸くする実音に、遼介は勝ち誇ったように笑う。
「お前も知っているだろ? 伝統を重んじるうちの親父は、高貴な血筋というものに強い憧れを持っている。だから、旧華族の血を引くお前を息子の嫁に迎えて、その流れを組む孫がほしいと考えているんだよ」
 言葉にするのは失礼かと思い発言を控えたけど、遼介の父は、彼の言うとおり歴史ある家の血筋というものへの憧れの強い人である。
 実音が嫁入りする際、花嫁道具として持参することになる、母方の女子が代々引き継いでいる絵巻物や、家紋入りの茶道具に目を輝かせる姿を前に、内心、自分はこの花嫁道具のおまけぐらいに思われているのではないかと感じたぐらいだ。
「あの親父のことだ、もし結婚した後で嫁の実家が倒産するとなれば体裁が悪いから資金援助を申し出る。……お前の親父は、それを狙って結婚を急かしているんだよ」
 最近、やたらと結婚を急かしている父に、そんな思惑があるとは知らなかった。
「それを不快に思い、破談にしたいと仰るのでしたら、それで結構です」
 自分の不貞を理由に破談にされはて困るというのであれば、有坂テクトの経営不振を理由にしてもらってかまわない。
 実音としては、彼と結婚しないで済むのなら、世間体なんてどうでもいいことだ。
 でも遼介は、そうではないと首を横に振る。
「そうじゃなくて、結婚してやるって言ってるんだよ」
「はい?」
「真面目でガキ臭いお前と結婚して、浮気がバレたら面倒だ。そう思ってたから、結婚を先送りにしてきた。だけど俺の女癖の悪さもバレたことだし、逆に結婚して、親父のご機嫌取りに使うのも悪くないと思ってな」
 壁に片手をつく遼介は、実音に顔を寄せ「ちょっとは大人の女に成長したみたいだし」と笑う。
 先ほど目にした乱れたベッドが頭に蘇り、彼への拒絶感が増す。
 遼介は、実音の思いを察することなく、彼女の髪に絡めていた指を解いて拳を作る。
「俺が出す結婚の条件は二つ。一つは、俺の女遊びに口を出すな」
 人さし指を立てて言うと、次に中指を立てて続ける。
「もう一つは、仕事を辞めて、親父が喜ぶような貞淑な妻を演じろ。そうすれば結婚してやるし、有坂テクトへの融資もしてやる」
 そう言って、実音の顔の前でピースサインを揺らして笑う。
 それはつまり、実音に仮面夫婦を演じろということだ。
「結婚は、もっと神聖なものです。それに、仕事を辞める気はありません」
「金で買われる嫁が、なに言ってるんだ?」
 実音の言葉を鼻であしらい、顔を覗き込んで言う。
「対等な関係での結婚は面倒だが、金で買って好きにできるなら悪くないな」
 心ない言葉に、無意識に手が震えた。
 相手にそれを悟られないよう、かたく拳を握りしめたのだけど、そのくらいのことではうまく隠せていないのだろう。
 実音の手元に視線を向けて、遼介が笑うのが息遣いでわかる。
「安心しろ。ついでに体も愛してやるよ。親父のご機嫌を取るのに、孫はいた方がいいだろうしな」
「ヤッ」
 思わず彼の胸を押して距離を取る。
 泣きそうな顔で相手を睨む実音を見て、遼介はククッと喉を鳴らす。
 実音をなぶって楽しんでいるのだとわかっていても、抗う術がわからない。
「選択権があると思ってるのか? 帰ってお前の親父さんに話してみろよ。喜んで縁談を進めるだろうさ」
 軽く顎を上げ、見下したような眼差しを向けつつ、遼介がドアを開けてくれる。
 震える脚を強引に動かし、実音は部屋を飛び出した。
 逃げるようにエレベーター前まで駆けてきた実音は、ちょうどその階に停まっていたエレベーターに乗り込んだ。
 階数指定のボタンに伸ばした指が、一瞬、バーのある階を押しそうになる。
 無性に海翔の顔を見たいと思うのだけど、忙しい彼に不要な心配をかけてはいけないと、湧き上がる感情を振り切るように一階の階数ボタンを押した。
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