買われた花嫁は冷徹CEOに息もつけぬほど愛される
 実音の家は、都内の高級住宅地といわれる場所にある。
 祖先より受け継いだ屋敷は広く、高級住宅地の中でもかなりの存在感を放っている。
 近隣には、代替わりの際に相続税が払えず、土地を切り売りしてしまう家もある中、有坂家はなに一つ欠けることなく大きな屋敷を維持してきた。
 それは、これまで有坂テクトの商売が順調であったことを物語っている。
 洋室もあるが家の造りは和風様式で、純和風の日本庭園には、明治の歌人の宅から移築したという茶室がある。茶室の横には垂れ桜が植えられており、実音は子供の頃からその桜が大好きだった。
 父の書斎の窓からは、その桜の木を眺めることができる。
 九月のこの時期、花ではなく葉を茂らせた桜は、昨日より少しだけ欠けた月の下で風に枝を揺らしている。
 自分とは違い、まさに深窓のご令嬢といった感じの母に心配をかけないよう、実音は、この書斎で遼介のことをかいつまんで父に話した。
 乱れたベッドを目にしたことや、彼の失礼な言動の数々、その詳細まで語らなくても、彼の女性関係や、結婚の条件として浮気を黙認するように言われたことなどを話せ話せば、彼との縁談を破談にしてくれると信じてのことだ。
「そうか、遼介君は、実音と結婚してくれると言ってくれたのか」
 書斎のソファーセットに向かい合って座る父は、実音の話しに安堵の息を吐いた。
「えっ?」
 こちらを完全に見下した遼介の振る舞いや言動だけでも悔しいのに、浮気が前提条件の結婚なんてありえない。しかもこちらの都合や思いを確認することもなく、実音に仕事を辞めて専業主婦になり貞淑な妻を演じろと言ってきたのだ。
 実音としては、その全てが受け入れがたいものだと思ったのに、父の考えは違うようらしい。
「お父様は、遼介さんのことを不誠実だとは思わないんですか?」
「男はそんなものだ。よそで子供を造らなければ、それで良しと思ってやれ」
 聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような父の物言いに、実音は一瞬言葉を失う。
 そのすきに、父は言葉を続ける。
「小松メディカルの融資があれば、今を乗り切って、体勢を立て直すことができるんだぞ。それなのにお前一人のワガママで、ウチが倒産してかまわないのか?」
 ワガママ……と、なじられるようなことを言った覚えはない。
「でも……」
「父さん、いい加減いしろ」
 実音が反論しようとした時、ノックの音もなく扉が開き、冷めた声と共に兄の奏太が書斎に入ってきた。
「自分の判断ミスの責任を、実音に押し付けるのはやめろよ」
「奏太、お前は黙ってろっ!」
 怒鳴られるとつい萎縮してしまう実音とは違い、兄の奏太は、思ったことを遠慮なく口にするので、父が一喝したくらいで黙るわけがない。
「今回の件、僕は特許申請をしておくべきだって言ったはずだよ。それなのに父さんがその手間を惜しみ、たいした技術ではないからと高をくくって特許申請をしなかった。その結果、同じ技術を持つ現地企業から権利の侵害と訴えられ、最初その事実を僕に隠していたせいで裁判が後手に回った。その結果がこれだ」
 淡々とした口調で話す兄の言葉で、おおよその流れは掴めた。
 特許権は原則、属地主義といって、権利を取得した国でのみ保護される。
 そのため特別に守りたい技術や発明がある場合、必要な国毎に特許申請する必要があるし、そうすることで、その国で既に他の企業が使いたい技術の特許権を有していないかが確認できる。
 どうやら今回の裁判は、父がその手間をはぶいたことが発端となっているらしい。
「奏太、お前はそうやって、すぐに私にたてつくが……」
「たてつくつもりはないよ。正論を述べているだけだ」
 どこまでも冷めた口調で兄が言う。
 兄である奏太は、有坂テクトに就職し専務の地位に就いている。論理的でリスクマネジメントを欠かさない兄と、苦労を嫌い、虚勢を張りたがる父では、根本的な考え方が違うので仕事での衝突が日々絶えないと聞いている。
 父がこめかみを震わせて黙りこむと、奏太は二人が向かい合って座っているソファーの間にあるテーブルにA4サイズの茶封筒を投げ出す。
 投げられた勢いで封筒から微かに除く書類には、細かな項目に分けられた数字が記載されている。
 資産表らしき書類に気を取られていると、奏太が腕を引いて実音を立たせて言う。
「実音、お前は家を出ろ」
「奏太、なにを言ってるんだっ!」
 父が声を荒らげるけど、奏太はそれを無視して続ける。
「上半期の決算はどうにか乗り越えられた。だけど下半期の決算を乗り越えられなければ、有坂テクトは一回目の不渡りを出すことになる」
 そうなれば、どういう流れになるか理解できているな? ――そう問いかけるように、奏太が実音の目を見る。
 もちろん、その先はわかっている。
 一度不渡りを出しただけでは、即倒産とはならない。
 ただその情報が出れば、会社の信用が一気に落ちて、新たな融資を受けられなくなり、既に融資をしている金融機関は債権の回収へと舵を切る。
 そうやって持久力を削がれた企業が二度目の不渡りを出せば、倒産は確実なものとなる。
 実音が小さくうなずくと、兄も軽く首を動かして話を続ける。
「社員の暮らしを守るためにも、家族として有坂テクトの歴史を守るためにも、倒産だけは絶対に回避してみせる。だけど今の資産状況だと、資金調達のために、ある程度の人員削減とこの家を手放す必要が出てくると思う。そうでなくても、これからしばらくウチはごたつく。その面倒ごとに、実音が付き合う必要はない」
「奏太っ! 勝手なことを言うなっ!」
 父の怒鳴り声を無視して、奏太は実音の背中を押す。
「家にいても、父さんの八つ当たりに合うだけだ。就職して、自分一人くらい養う術を身に着けているんだから、お前まで泥船に残る必要はない」
 実音に書斎を出て行くよう促す兄の『泥船』という言葉で、有坂テクトはかなり危険な状況にあるのだとわかる。
 知らない間に、会社がそんなことになっていたことに驚き、動揺する実音に、奏太は不器用に笑って首を横に振る。
「会社と社員の暮らしを守るのは、長男である僕の仕事だ」
「お兄様……」
 奏太が中学から全寮制の進学校に通っていたこともあり、兄妹とはいえ、異性で年の離れている兄とはあまり接点がなく育った。
 そのため、いつも淡々としている兄がどういう人なのか、理解できずにいたけど、彼の方は、実音のことを妹として気にかけてくれていたようだ。
「お前まで、家の犠牲になる必要はないさ」
 なにげないその一言で、奏太自身は、家の犠牲になる覚悟でいることが伝わってくる。
 兄のその思いに胸が苦しくなるのだけど、すぐには言葉が出てこない。
 その隙に、奏太は、実音の背中を押して書斎を出て行かせようとする。
 おそらくこれから、父と今後の経営方針について話し合うつもりなのだろう。
 奏太がドアノブに手をかけた時、背後でドサリッと重たい音がした。
 音に反応してふたりがふり返ると、そこにはソファーを下りて、床で土下座する父の姿があった。
「お父様」
「父さん」
 突然の状況に驚き、実音と奏太の声が重なる。
「頼む。家を守るためにも、遼介君と結婚してくれっ!」
 二人が動くより早く、床に額をこすりつけて父が言う。
 厳格でプライドの高い父が見せる初めての姿に驚き、慌てて駆け寄ろうとした。だけど、実音の腕を掴んでいた奏太により、そのまま部屋から出されてしまった。
 パタンッと閉じたドアの向こうで、施錠する音が聞こえる。
 微かに兄がなにか言っている声は聞こえるけど、その内容までは聞き取ることができない。ためしにドアノブを回してみたけど、やはり鍵がかけられていた。
「実音……」
 扉の前で途方に暮れていると、弱々しい声が自分の名前を呼んだ。
 見ると、母の茜が、不安げな表情でこちらの様子を窺っている。
「お母様、どうしたの?」
 笑顔を取り繕い、母に歩み寄る。
「お父様と、なんのお話をしていたの? それに奏太は最近、お父様となにを揉めているの?」
 茜は胸の前で両手を組み合わせて、今にも泣き出しそうな顔をしている。
 専業主婦としてずっと家にいる母は、父や兄の雰囲気から会社がただならぬ状況にあることを察しているのだろう。
 活動的な実音と違い控えめな性格の母は、時代の違いもあり、一度も社会に出ることなく、社長夫人としてこの歳まで暮らしてきた。
 もし会社が倒産し、この屋敷を手放すことになれば、かなりのショックを受けるだろう。
「会社を経営していれば、色々あるよ。でもお兄様が支えてくれているから、きっと大丈夫よ」
 実音がそう言って肩を摩ると、母の表情が和らぐ。
 意見が合わず対立することが多くても、父が兄を会社に引き止めているのは、彼が頼りになることを知っているからだ。
 海翔のような豪胆さや、問答無用で人を引き付けるようなカリスマ性はないけど、生真面目で正しい手順を踏む手間を惜しまない人柄は、基礎がで上がっている有坂テクトのような会社を持続させることには適している。
 奏太を自慢の息子と思っている母も、そのことは承知しているのだろう。
「そうよね。奏太に任せておけば、大丈夫よね」
「うん」
 母に合わせて実音もぎこちなく微笑んだけど、ひどく胸が軋む。
 母を安心させるために放った言葉は、兄一人に家の問題を押し付けているようなものだ。
 家族として、それがひどく苦しい。
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