ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜

 ◇


 エリスは走った。一刻も早くアデルに追いつこうと。
 けれど、人の波が邪魔をしてなかなか前に進めない。

 そもそも、エリスは少なくともここ十年、まともに走ったことがないのだ。
 そんな彼女が、アデルに追いつくというのは無謀な話だった。

(これでは見失ってしまうわ……!)

 今はまだ、シーラ、アデル共に直線上に見えているが、もし角を曲がったりしたら……。

 だが悪い予感というものは当たるもので、桃色の風船は、二つ先の角を左に曲がってしまった。
 その後ろを、アデルが十秒ほど遅れて曲がり、エリスもそれを追いかける。――が、その刹那。


 ――ドンッ!


 と全身に衝撃が走り、エリスは後方によろめいた。
 人とぶつかったのだ。
 
「……っ」

(倒れる――!)

 瞬間、エリスは身体を強張らせ、ぎゅっと瞼を閉じた。
 だがどういうわけだろうか。いつまで経っても身体を打ち付ける感覚がない。

「……?」

 いったいなぜ――と恐る恐る目を開けると、そこにあったのは、どこか既視感のある顔だった。

「これは失礼を。先を急いでいたもので。お怪我はございませんか?」

 エリスが転ばぬよう、咄嗟に支えたであろう腕を何事もなかったかのように放し、申し訳なさそうに微笑んだその顔に、エリスは確かに見覚えがあった。

 ラベンダーブラウンの澄んだ瞳と、それと同じ色の艶のある髪。
 女性受け抜群であろう眉目秀麗な顔だちに、柔らかな微笑み。
 モスグリーンの軍服を纏っていることから、アレクシスと同じ陸軍所属であることがわかる。

(あら。この方、どこかで……)

 エリスは素早く記憶を回顧する。
 けれどそれより早く、相手の方が思い出したようだ。

「おや。あなたは図書館でお会いした」と。

 その言葉を聞き、エリスもはた、と思い出した。
 二週間と少し前、帝国図書館で声をかけてきた紳士のことを。

 そう、名前は確か――。

「リアム・ルクレール様、でしたかしら」
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