ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜
「……なぜ、こんなに遅くまで。夕方報せを出したはずだが……読まなかったのか?」
「いえ、ちゃんと読みましたわ。ただ、わたくしが待ちたかっただけで……。もしかして、もう夕食は済まされてしまいましたか?」
「いや……、まだだ。まだ……何も」
「良かった。でしたら、今から一緒に召しあがりませんか?」
「……っ」
(ああ……なぜだ? どうして俺はこんなにも動揺している?)
朝食のときは、彼女を見てもこんな気持ちにはならなかったはずなのに――。
アレクシスの心に芽生える未知の感情。
温かくて、むずがゆくて、けれど同時に、胸を締め付けられるような不思議な感覚。
苦しいのに、嫌ではない。
悲しくないのに、泣きたくなる。
そんな初めての感情に、アレクシスは化粧箱を持つ手にぎゅっと力を込めた。
緊張に、冷や汗が滲む。
「食事の前に、君に渡したいものがある。側に寄ってもかまわないか?」
アレクシスは、普段は決してエリスに近づかない。
食事を一緒にするようになっても、二人の物理的な距離は離れたままだ。
それはアレクシスが自分の女嫌いを自覚しているからであり、また、エリスが自分のことを恐れていると思っているからだった。
近づけばエリスを怯えさせてしまうかもしれない。
咄嗟に突き飛ばしてしまうかもしれない。
アレクシスの中には、常にそんな恐れが存在していた。
だが、贈り物くらいは自分の手で渡したい。
侍従や侍女の手を介さず、自分の手で……。
アレクシスはそんな気持ちで、エリスの返事を待つ。
するとエリスは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふわりと微笑んだ。
「はい、もちろんです、殿下」――と。