ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜
(今思えば、あれが最後のダンスだった。舞踏会当日は、ダンスどころかエスコートすらなかったから……)
婚約破棄されたあの日のことを思い出し、エリスは顔を曇らせる。
ここが舞踏会場だからだろうか。
最近はすっかり思い出さなくなっていたあの夜の辛い記憶が、急に鮮明に蘇ってくる。
会場のざわめきが、女性たちのヒソヒソという話し声が、シャンデリアの眩い灯りが、この広い空間が、自分を蔑むように見下ろす沢山の目が……「君との婚約を破棄する」と冷たく言い渡されたときのあの声が、耳の奥でこだまする。
「――っ」
――怖い。
ここにいるのが怖い。今すぐ逃げだしてしまいたい。
ここはあのときの場所ではないのに、隣にいるのはユリウスではなくアレクシスだと理解しているのに、手足が急激に体温を失っていく。
(どうしましょう……。わたし、踊れそうにない)
踊れない。こんな状態で踊れるわけがない。
でも、踊らなくては。……踊らなくては。
(だってわたしは、皇子妃なのだから)
けれどそんな思いとは裏腹に、どんどんと冷えていく指先。無くなっていく手足の感覚。
いつの間にか始まっていた皇帝と皇后のダンスを前にしても、自分の踊っているイメージが少しも湧いてこなかった。
美しい弦楽器の音色も、好きだったはずの三拍子のリズムも、今はただ、耳を塞いでしまいたいものでしかなくて。
それでも、否応なしにダンスの順番は回ってくる。
エリスは真っ白な頭のままアレクシスに手を引かれ、気付いたときには他の皇子や妃らと共に、ホールの中央に立っていた。
「――っ」
(待って……まだ、踊れない)
手足に震えが走る。
怖くて怖くて、足が竦んでしまう。
人の視線が痛い。注目されるのが、どうしようもなく怖い。