ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜
「貴様……エリスに何をした」
戦場で沢山の兵士が命を散らせたときも、砦が丸ごと敵の手に落ちたときでさえ、これほど心を乱すことはなかった。
少なくとも表面上は、いつだって冷静であるように努めていた。
そうでなければ、十歳のとき母親を事故で亡くし、後ろ盾を失ったアレクシスが王宮で生き残ることはできなかったからだ。
他人に決して弱みを見せてはならない。隙を与えてはならない。感情を読まれるなどもっての外。
笑うことも、涙を流すことも、アレクシスには禁忌だった。
相手に恐れを与えるための荘厳な態度を、決して崩してはならならない――そのはずだった。
だが今のアレクシスは、それを忘れてしまったとでもいうように、怒りに身を打ち震わせている。
仲間が目の前で吹き飛ぼうが、冷静さを崩さなかったアレクシスが、今、明確な殺意に囚われていた。
――目の前の男を殺さなければ、と。
右手が無意識に腰へと伸びる。
だが当然そこに剣はなく、そこでようやく、彼は自身が丸腰であることを思い出した。
「――!」
ああ、そうだ。今夜は舞踏会である。剣がないのは当然だ。
こんなことならセドリックの言うように、剣を取りに戻るべきだった。
アレクシスは大きく舌打ちし、再び男に向き直る。
(頭を冷やせ。エリスは人質だ。ここで隙を見せれば相手の思う壺だぞ)
いつも部下に口酸っぱく言っていることを自分自身に言い聞かせ、彼は冷静さを取り繕おうとした。
するとそんなアレクシスを前に、男はようやく口を開く。
「まるで姉さんを心配しているかのような口ぶりですね。安心してください。眠っているだけですから」――と。
刹那、アレクシスは顔をしかめた。
姉さん――その言葉に、大きな違和感を覚えて。