ヴィスタリア帝国の花嫁 〜婚約破棄された小国の公爵令嬢は帝国の皇子に溺愛される〜

「本当に、俺は君のことを何も知らないな」

 アレクシスは長い指で、エリスの瞼にかかった亜麻色の前髪をそっとはらう。

 早く目覚めてくれと思う反面、まだ眠っていてほしいと願ってしまう自分がいる。

 エリスとシオンが何を話したのか知らないアレクシスは、エリスの口から『シオンと共に暮らしたい』と告げられることを、心のどこかで恐れていた。

 聡明なエリスのことだから、国家間のことを考えて、たとえそう思っていても自分からは言い出さないだろう。
 けれど万が一にもそう言われたら、エリスの意思を無視してまで引き留めることはできない。――アレクシスはそう考えていた。

 幼い頃から虐待を受けていたらしき彼女を、これ以上苦しめてはいけない。
 正直言うと、シオンのエリスに向ける感情は姉に対するものとして不適切だと思っていたが、エリスが弟と生きることを望むのならば致し方ない、と。

 そんな、臆病な正義感と同情心、あるいはもっと別の何かが、アレクシスの心を(さいな)んでいた。


 すると、そんなときだ。

 不意にエリスの瞼がぴくりと動き、「ん」と小さく呻き声を上げる。

 ハッと息を呑むアレクシスの前で、三秒ほど遅れてようやく瞼が開き、瑠璃色の美しい瞳が、ぱちぱちと数回瞬いた。

「エリス」と、なるべく優しい声になるよう努めて声をかけると、彼女はゆっくりと視線をこちらに向ける。

 刹那、その瞳が驚いたように見開かれた。

「……殿下? どうして、こちらに……」
「どうって……覚えていないのか? 君は舞踏会場から、ジークフリートに連れ出されただろう?」

 まだ薬が抜けきっていないのだろうか。などと心配に思いながら問うと、エリスは思い出した様にハッとする。
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