忘れたと思いたかった

懐かしい街に来た。理由などなく、ただの思いつきだ。けれど、彼に会えるかもしれない。そんな期待だけは、捨てきれなかった。

改札を出て、右。そのまま坂道を下ると、信号の向こうに懐かしい郵便局。まだそのままの姿に、どこかでほっとする。郵便局を通り過ぎ、川沿いの道を行く。橋が見えてくると、私は立ち止まった。
いつもこの橋を渡って、川沿いの道を歩いて、私の来た道を辿って彼は駅に通ったのだろう。私はその姿を見たことはない。話に聞いていただけだ。ただ、あの頃、休みの日は、彼と偶然にでも会えるのではないかと、この道を辿っていたものだ。…会えたことは、なかったけれど。

私は来た道を引き返し、郵便局の隣にある祖母の家に行った。祖母は相変わらずの笑顔で私を迎えてくれた。近況を報告して、ひと息つく。この笑顔に会えただけでも十分じゃないか。そう思う。

日が暮れる頃、名残惜しそうな祖母に別れを告げて駅に向かった。郵便局の信号前、私を追い抜いた男性にどきりとする。…違う、彼はこんなに背は高くない。まだ期待しているのかと自分に呆れた。

駅のホーム、彼が帰る方面に視線がいってしまう。振り返って改札を何度も見た。もう言い訳は効かなかった。会いたい、彼に会いたい。天然パーマで、細くて、いつもお気に入りの眼鏡をかけていて、照れやすいのに私には気さくに笑う、彼に会いたい…。
気がつくと私はその場にしゃがみこんで泣いていた。会って、想いを伝えたかった。ただの知り合い程度でしかなくて、私がこの街を引っ越すと繋がりも失ってしまう程度の関係だった。でも私は好きだった。好きだったのだ。

「どうしたんですか」

びくりと肩を揺らす。そうだ、ここは駅で、泣いてしゃがみこむなんてことをしていては当然声もかけられる。

顔も上げずにその場を離れようとして、私は固まった。改札に釘付けになる。まさか、まさか。駆け出していた。人違いでももうかまわなかった。

「鏡介くん」

叫ぶように名前を呼んで、腕にしがみついた。振り向いて驚いたように見開かれた眼鏡の奥の眼が、さらに驚きの色を見せた。

会いたかったと、一言。言えたらどんなにいいか。でも、私の口から出たのは、「久しぶり」だった。
…私は、彼の担任教師だったから。言ってはならない、最後の一線。守ることは、できているのだろうか。
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