アカシアの雨に
「人魚姫って、どうしてそんなに王子さまがよかったのかな」

彼は唐突にぽつりとつぶやいた。夏の風に、レースのカーテンが揺れる。

「それは、その、やっぱり王子さまだからでしょう」

言われてみれば分からなかったので、自分でも意味不明な返答をした。

「なんだそれ」

興味があるのかないのか、彼は窓の外、遠くを見つめていた。


高校も2年目の夏休み。私は残念ながら彼氏という存在もおらず、こうして幼なじみの家に入り浸っていた。
この幼稚園時代からの男友達も、悲しいかな、これまで恋人はいなかった。
私たちは休みとなれば、いつもこうしてどちらかの家でくつろいでいた。
そんな仲だ。
「男女の友情は有り得るのか?」なんてよく言うけれど、そんなもの考えるのも面倒だ。要するに、そんな感情を抱けないのが、彼という存在だった。そう、そのはずだった。

…ところが、そんな関係も今日でおしまいなのだ。私たちが付き合う、というわけではない。
彼に、ある日突然彼女という存在ができたのだ。

相手は私のクラスメイトである。夏休み前、終業式の日に告白されたそうだ。

なぜそれで私たちの関係がおしまいかと言えば、その彼女が嫌だと言ったからだ。

「どうにも嫌なんだってさ」

緩みきった顔で彼からそう告げられた私に、選択肢はない。

そうして、今日を最後にこの彼の家に来ることもなくなるのだった。

「悪いな」

何気なく謝られ、私は虚しさが増す。どうしてこんな気持ちになるんだろう、なんて考えてしまうほど、私はばかじゃない。

カーテンが揺れる。

私は立ち上がって、黙って部屋を出た。

きょとんとして、追いかけてこないだろう。その顔がはっきり目に浮かぶから、厄介だ。

うつむいて、ずんずん歩いていく。胸の中がどうしようもなく苦しい。

思い切り首を振った、そのときだった。
彼の声がして、身体がこわばった。
だけどこわばったのは一瞬で、直後に身体は不思議なくらい軽くなった。
なぜだろう、彼の香りが、した。



目が覚めると、私は自分の部屋にいた。
さっきまで、どこにいたのだろうと、ぼんやりする頭で考える。
確か、彼の家に行って、いたたまれなくなって、帰ろうとして…帰ってきたのだろうか。
階下の母親を呼んだ。返事がない。出かけているのだろうか。
階段を降りていく。兄も、父親もいない。少し不安になって、玄関からそっと外へ出た。

おかしい、何かおかしい。そう思ったのも当然だった。人がいないのだ。犬も猫もいなければ、セミの声もしない。

混乱する頭で、なぜか彼の家に向かった。ぬるい空気がどうしようもなく不安をあおる。

彼の家の玄関の前に、誰かいた。ようやく人がいると、ほっとして駆け寄る。
見たこともない女の子だった。

「ようこそ」

にっこりと少女は微笑んだ。

意味がわからず、呆然と立ち尽くす私に、少女は告げる。

「ここは、死ぬ間際の世界よ。ここに来れば、もう死んだも同然ね」

今度こそ意味がわからず、くちびるがひきつる。

だがそんなことはおかまいなしに、少女は話を続ける。

「つまりあなたは、もう死にそうなの」

「死…」

汗が止まらない。暑いのかわからない。

「でもねえ、もうひとり来るはずなのに、なかなかしぶといからまだ来れないのよ」

見た目にそぐわない話し方で、少女は難しい顔をする。

「もうひとり…?」

まさか、まさか。
直感が警報音をならす。

「正解よ」

彼女はまたにっこりと微笑んだ。

「あなたの幼なじみが、もうすぐ来てくれるわ」




一気に記憶が押し寄せた。あのとき、身体が軽くなったのは、私が車にはねられたんだ。でも、彼は?どうして、彼まで?

今にも叫びだしそうな程混乱を極めた私に、少女は涼しい顔で告げる。

「その彼、あなたをかばおうとしたのね。でも2人とも、もうすぐ死んじゃうのね」

「あいつは死なない」

反射的に叫んだ。
少女はきょとんとして、けれどはっきりとした声音で私に言った。

「助けられるけど」

そしてにやりと笑う。

「命の取り引き、必要なんだけどね」




それから数日後、彼は病院で目を覚ました。
付き合ったばかりの恋人はずっと泣いていたらしく、真っ赤に腫れた目をしていた。
でも彼は開口一番、私の名前をつぶやいてくれた。
…それだけで、もう、いい。
十分だよ。


「本当に良かったの?これで」

にっこりと微笑んで、少女は言う。

「彼が死んだら、逆にあなたが生き返れたのに」

「いいのよ、これで」

少女はひょうひょうとした様子で、長い髪の毛をもてあそぶ。

「人間って不思議」

そうつぶやいて、少女は消えた。



「人魚姫、か」

ひとり私はつぶやいた。

王子さまのどこがいいのかな、なんて彼は言っていた。

どこがいいのかなんて、私にもわからない。
でも、人魚姫の気持ちは、知っている。今なら、分かる。
この想いを、知ってしまったのだ、人魚姫も。

後悔はしていない。彼に私の痕跡を残せた。他の誰を忘れても、私だけは忘れないだろう。
…手に入らない恋を、こんなひどいかたちで手に入れた。

涙が溢れた。
神様、これも愛ですか。
こんなに苦しい。

振り切るように、私は新たな居場所へ向かおうとする。
そこでは、想いも何もかも消えてなくなる。
私が初めて知った、この痛みすら。

「さよなら」

振り向いてそっと囁いた。


その日私がかつていた世界は、雨に包まれていた。
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