世界から僕が消えても
『ミツキ、今幸せ、ですか?』

もちろんだった。私はあの頃、幸せでしか無かった。
彼に満面の笑みで、私は言ったものだ。
『あなたがいればね』

そうしたときにするあなたの嬉しそうな困ったような顔。愛しくて仕方なかった。

気がつくと私はベッドから落ちていた。何か幸せな夢を見ていた気がするなぁと思いながら時計を見た。
まだ明け方だった。ゆっくり立ち上がって、カーテンをそっと開ける。
薄明るい外の世界。
私は窓の外のこの街を、知らない。

私は少し前に交通事故で頭を強く打ったそうで、それ以前の記憶をすっかり無くしてしまった、らしい。
確かに覚えていない。家族だ、という人たち。友だちだ、という人たち。申し訳ないけれど未だ思い出せず、2年が経ってしまった。

恋人はいなかったのか?それが、分からない。友だちという人たちにも、そういう話は無かったらしく、しかも恋人がいたとしたら普通駆けつけるだろう…ということで、私に恋人はいなかったという結論に至った。

しかしそこで1つ問題があった。
私は事故に会った時、妊婦だったのだ。父親は誰なのか、結婚の予定もなかったのか、何も分からない。
強く打ったのは頭だけだったのか、お腹の子は助かった。今や元気な2歳児だ。

息子は『壮太』と名付けた。今は甘えん坊真っ盛りだ。
ただ、壮太を見ていると、意味もなく涙が出ることがあった。壮太に誰かの面影があるような気がして、胸がじんわりじくじく熱くなって、寂しいとも似たような感覚になる。これは何なのだろうと常々疑問だった。

そんなこともありながら、幼児を育てる毎日は大騒ぎのドタバタだったけれど、平和に毎日が過ぎていた。
それなのに。

壮太が事故にあった。
私に次いで、壮太まで。

頭の中が半狂乱になりながら病院へ駆けつけた。
小さな身体を、たくさんの機械と管が囲んでいた。
誰のことも分からないこの世界で、たったひとりの、私の家族ーーー。
私はその場で気を失ってしまった。



『おーい』
『おーいミツキ』

誰かに呼ばれて、目を覚ました。

『やっと起きたか』

知らない男の人だった。
そして、周囲は真っ暗だ。

『わかるよ、暗いよな、ここ。
ところで、時間が無いんだよ。』

時間?
私があっけに取られていると、男は話し始めた。

『今、ミツキの大切な壮太が危ないだろ?』

私は一気に青ざめた。そうだ、なんて大切なことを忘れていたんだ。こんな所にいないで、早く壮太のそばにいてやらなきゃ。

どこへとも無く走り出そうとすると、男に制された。

『話を最後まで聞いてくれ、このままそばにいてやるだけじゃ、壮太は助からないんだ』

また、気を失いそうになった。
男に両肩を支えられる。

『ただ、ここである取引をすれば、壮太は助かるんだ』

私は男に掴みかかった。

『なんでもするから壮太を助けて!』

男は一瞬寂しそうな顔をした。

けれどすぐに真剣な表情になり、私に告げた。

『取引をすると、壮太は、ミツキのことを忘れる。まだ小さな子とはいえ、母親のおまえの記憶を、失うんだ。そして、周りの人間も、ミツキのことを忘れる。』

『壮太はどうやって生きていくの?』

涙が止まらなかった。私の、大切な、たったひとりの家族。それは、壮太にも変わらないはずだ。

『ミツキのことはみんなが忘れるが、都合よく事は進むから安心しろ。俺の見た未来では、壮太はミツキの両親に育てられるんだ。』

『お父さんと、お母さんに…』

思い出してあげられなかったけれど、優しいあの人たちのことだ、大切に育ててくれるだろう…。

『取引をしないと、壮太は死んでしまうのよね…?』

男は頷いた。
そして涙を流す私を抱きしめた。

『ごめんな、ミツキ…』

私にはこの人が誰なのか、少し分かったような気がした。

『取引を、させて』

涙を拭いながら、私はその一言を告げた。

『さあ、取引終了の前に、壮太に会いに行くよ。これが、最後になる』

目を閉じて、開く。そこは、さっき倒れた壮太のベッドの前だった。
壮太は眠っていた。そっと前髪を払い、頬に触れた。愛しくて仕方なかった。
『ごめんね…大好きだよ』
傍に、いたかったよ…。



『ーーーミツキ、1人にしてごめん、ごめんな…』
妊婦のミツキ。お腹が重くて、あの日も速く歩けないと笑っていたね。お願いだ、僕を許して。
あの日あの事故で、君とお腹の子どもを、取り引きをしてでも、僕は助けたかった。
君の世界の記憶から、僕が消えても、君の記憶まで、奪われても、それでも。


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