ただ傍にいることが出来たなら
ーーーーごめんね、そばに、いたかったよ。

溺れるように空を掴んだ。行かないで、行かないでと泣きながら目が覚める。
深呼吸して、目をぎゅっと閉じ、毛布を頭から被り直す。大きくため息をついた。何度見たことだろう、この夢を。
もういないあの人の、夢を。

彼は、登山に行くと言って、そのまま帰らなかった。急斜面を滑落して、だそうだ。
そして失ったものは、私が泣いても叫んでも暴れても、当然戻ることはなかった。喪失感は、私を押しつぶしていった。心が悲鳴をあげるのを、毎日感じていたけれど、機械的に一日を過ごして毎日を通り過ぎていた。

ふと気がつくと、悲しい顔で立ち尽くす彼が目の前にいた。
『ーーーごめん…』
また、謝るの?また、あの夢だ。
もう見たくない、でも夢でもいいから会いたい…。
『君のマグカップ、落として割ってしまった…』
窓の外、セミの鳴き声が沈黙の部屋に響く。
『え…?』
いつもの夢と違う。いつも、私に謝って、どこかへ彼が消えてしまう展開なのに。混乱し、返事を出来ないでいると、彼が恐る恐る発言した。
『新しいカップ、買ってこようと思うんだけど…』
これは、夢?彼が目の前で、普段のような話をしている。今まで、私が怖い夢を見ていたんだろうか。彼は死んでなどいなくて、手を伸ばせば、抱きしめられる距離にいる…。
気がつくと私は、彼に抱きついていた。そして、子どものようにおいおいと泣き出した。今度は彼が困惑していたが、優しく抱き返してくれた。
よかった、よかった、失っていなかった。それだけで、もう何もいらなかった。

悪い夢を見ていたと気づいてから、3日が経った。
私と彼はソファに並んで映画鑑賞をし、お互いの好きなマンガをプレゼンして、読みふけり、一緒に台所に立って料理もした。今はなんの連休だったか?思い出せなかったが、仕事も休みのようだし、彼は珍しいほどよく喋るし、楽しいから、気にするのをやめることにした。

『Bean to barって知ってる?』
『なにそれ、初めて聞いた』
彼はくすくすと笑い、
『君の大好きなおいしいチョコレートには欠かせない言葉』
『チョコレート!食べたい!』
『…君らしいね』

この数日の何もかもが、何かを埋め合わせるようだった。でも、気づかないようにした。

その日の夕方、彼が不可解なことを言った。
『そろそろ、帰らなくていいの?』
帰る?どこに?私の家はここなのに。
『なんの冗談…?』
笑い飛ばそうとしたけれど、冷や汗が背中を伝った。
『私は、ずっとここにいるよ』
かすかに震える声でそう答え、彼の眼を見ようとした。涙で霞んで、見えなかった。やめて、もう少しでいいから、あなたといたいよ…。しかし私のぼんやりとした視界の中で、彼は言った。

『だめだよ、帰らなきゃだめだ』

その瞬間、世界は暗転し、崩れ落ちた。

落ちていく。真っ暗な世界を、どこまでも。さっきまで彼がいた方へ手を伸ばそうとして、やめた。落ちていく向こうに灯りが見える。あそこまで落ちたらいいんでしょう。なかばどうでもよかった。でも涙が溢れた。
『最期に、抱きしめてよ…ホントに気が利かないなぁ…』
精一杯の憎まれ口は、果たして届いたのだろうか。


目を開けると、たくさんの人に囲まれて、私は真っ白なベッドに横たわっていた。
『何ごと?』
そう呟くつもりが、口が上手く動かない。
母が泣いている。父も泣いていて、本当に何ごとだろうか…。

両親が代わる代わる説明してくれた。
私は通勤途中に交通事故に遭ったらしい。意識不明の重体というやつで、3日も眠っていた。医者からは、『覚悟しておいて下さい』と言われた夜もあったそうだけど、無事、乗り越えた。
それらを聞いても、私は驚かなかった。そして、ぽつりと呟いた。

『彼が…帰してくれたの』

母は一瞬言葉につまり、そして私を抱きしめてわんわん泣いた。
「私は帰らなくてもよかった」と、思わなかったと言えば嘘になる。でも、どこか私の心は晴れていた。いつか追い返されなくなる日まで、「おかえり」と言って迎えてもらえるその日まで、何とか生きてやってみれば、いいんでしょう。



それからしばらくして退院し、体力が戻った頃、私は仕事に復帰した。通勤途中、ふと寄ったコンビニの、チョコレートコーナーでふいに立ち止まる。
何か思い出しかけたけれど、なぜか涙が滲むから、私はあわててコーヒーを買って、通勤者の波に戻って行った。
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