あなたが待っていてくれる

ーーーあなたには、帰りたい場所がありますか。

雪が降った。この街には珍しいほど積もってしまった。電車の運行状況が気になる所だ。今日は少し遠出するというのに。
もっとも、私が育ったあの田舎町に比べたら、まったく積もっていない部類の積もり方ではある。

押し入れの奥にしまい込んだ長靴を引っ張り出し、外に出た。一面銀世界だ。空の青との対比が幻想的ですらある。小気味よい音を立てて雪の上を進み、私は駅に向かった。

雪を踏んでいると、何だか懐かしさが込み上げた。私の地元のあの土地は、今でも雪が降るだろうか。
懐かしさと共に、寂しさもあった。昔は楽しかったな、と独り呟く。雪だるまもかまくらもたくさん作って、友だちとかまくらの中でお汁粉を飲んだ。飼っていた犬も童謡の通り、一緒にまっさらな雪の上を駆け回った。雪合戦も近所の子ども達で賑わって、楽しいことしかなかった。今日は何をして遊ぶかばかり考えていた。

今は、毎日の中で楽しいことがどれだけあるだろうか。あんなに輝かしい楽しさには、久しく出会えていない。それが大人になるということなのだろうか。

ああ、気づいたら大人になって、大人になってからさらに時間が過ぎてしまった。盛大なため息をつく。

時間は優しい。色々な感情を、薄れさせる。悲しみも、怒りも。そして時間は残酷だ。忘れたくない思い出も、記憶も、薄れさせるからだ。容赦はなく、為す術はない。
ーーーあなたの事すら、通り過ぎる日常の中で、薄らとした記憶になりつつある。はじめの頃は、忘れるわけない、忘れるものかと意地にすらなっていたように思う。でも、時間がそれを許してくれなかった。

今でも何とか覚えているのは、あなたが私を好いていると、伝えてくれた事だ。あなたの顔は真っ赤だったと思う。学生服の良く似合う優しい青年だった。私も女学生だったから、祝言もなにもない、言葉だけの約束。いつか、一緒になろう。叶わなかったと、当時は泣いた。写真の1つでも、もらっておけば良かった。もうあなたと過した他愛ない日々も、その顔すらも、ぼんやりとしている。

ーーー私の大好きだった地元は、もう無い。かの戦争の空襲で、私の大好きなものはみんな燃やされた。地図上には今でもあるだろう。でも、私の中には、もう無いのだ。会いたい人たちも、帰りたい家も、あなたと見た景色も、何もかも、あそこに無い。

ああ、おばあさんになるほど、時間が経ったんだなぁとまたため息をつく。この胸に込み上げる感情は、何だろうか。悲しみは薄れても、寂しさは癒えない。そうだ、これは寂しさだ。
雪が積もった街を覆う青空を見上げ、持っていた菊の花束をそっと抱き締めた。
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