物分かりのいい私、本当は
送別会。あなたの、送別会。来週の月曜日に出社しても、もうあなたに会えない。転職すると人伝に聞いた時、あなたの人生に何も関われない自分が、実はこの世界にいない存在なのではないかと錯覚するほど虚しかった。今夜が最後。それでもどうせ何も伝えることは出来ない。



「草加部さんは、入社して何年経つんだっけ。」

あなたに声を掛けられて我に返った。レモンサワーのジョッキに口をつけて、喉を潤してから答える。

「もう、9年経ちました。あっという間ですよ。」

そんなにか、と苦笑するあなたをちらりと見て目線を落とした。あなたと出会って9年でもある、と内心考えながら本当は知っていることを聞いた。

「石野課長は勤続何年で転職なさるんですか。」

あなたは少し唸ってから笑って、

「14年だよ。あと1年居れば、社長表彰で金一封もらえたのにな。」

居てくれればいいのに、と冗談めかして言おうと思ったけれどやめた。笑って言える気がしなかった。返事をしない私にあなたは続けた。

「草加部さんは、入社当時から本当に頼りになる部下で助かったよ。ありがとう。」

大好きな優しい笑みを向けられて、私は今どんな顔をしているのだろう。見られたくなくて、お辞儀する振りをして「こちらこそ」と絞り出した。



「石野さん、三次会も行きましょうよ。」

酔って真っ赤な顔の部下たちに誘われているあなたをぼんやりと見つめた。やっぱり好きだなあ、あなたのことが本当に好きなんだ、私。

「ごめん、そろそろ帰らないと。終電逃すとさすがにまずいからさ。」

最後なんだし、と渋られたものの、断りきったのを見計らって私は手を挙げた。

「すみません、私もこれで。石野課長、山の手線ですよね。駅までご一緒していいですか。」



夜道を並んで歩く。あなたはスーツの上着の前ボタンを開けていて、風が吹くとひらりとなびいた。背が高いなあと見上げた。細身で、眼鏡がよく似合って、仕事中はワイシャツの袖をいつもまくっていて、どんな時でも温厚で、聞き上手で、頭の回転が速くて、それで、それで…。どう考えても好きだった。こんな恋情を、どうして我慢していられるだろうか。

「…石野課長、実はお話があって。すぐ済みますので、聞いてもらえませんか。」

心臓がうるさくて、耳が熱い。だけど、宙に浮いているような高揚感。

「いいけど、ここでいいのかな。人が多いから、どこか別の場所にしようか。」

私は頷いて、あなたと近くのビルの脇に移動した。大通りからひとつ裏の道だから、程よく人気もなかった。私は、あなたに向き合って立ち、あなたを見上げた。

「課長、最後にお願いがあるんです。」

あなたは少し目を見開いた。何かを言われる前に、私は続けた。

「今、1度だけでいいんです。…抱き締めてもらえませんか。」

でも、と困ったような声であなたが動揺しているのを見て、私は言い訳する。

「恋愛とかじゃないんです、安心してください。私ずっと課長に憧れてて、ファンっていうか…。だからファンサービスとでも思って、ハグして欲しいだけというか…。」

早口で捲し立てて、俯いた。我ながら酷い嘘だ。でもこれが、精一杯だった。恋情を我慢できなかった私に出来る、精一杯の嘘。でも訪れた沈黙が苦しくて、もう駄目だった。

「…そんなの、変ですよね。ごめんなさい、気持ち悪いことお願いして、困らせて。」

見上げたあなたは、真剣な顔をしていた。

「草加部さん、本当にハグしていいの?」

怒っているのか、分からなくて瞳が揺らいでしまった。でも必死で頷いた。

俯く私をそっと、あなたが抱き締めてくれた。私は一瞬びくりと身体を震わせて、少し身を固くした。あなたの香りがして、少し顔を上げる。いつもすれ違う時にしか分からなかった、少しの煙草の香り。抱き締められて、ほんのり洗濯洗剤の香りがする。恐る恐るあなたの背中に手を回した。すると、あなたはぎゅっと私を抱きすくめた。幸せで、嘘みたいに好きで、あなたの首筋に頬を寄せ、愛しさのあまりそのままするりと頬を擦り付けた。



ーーーあ、だめ。



我に返って、やってしまったと青ざめた。恋愛感情ではないと、嘘をついたというのに。分かってしまう、ばれてしまう、あなたにこの気持ちが。あなたの肩に手を添えると、あなたはそっと私を離した。胸の前で手をぎゅっと握りしめて立ち尽くす私は、もうあなたの顔を見られなかった。何か、何か言わなくてはと必死で顔を上げた瞬間。



顔が離れて、呆然とする私をあなたはまた抱き締めた。きつく、痛いほどに。

しばらくそうした後、あなたは耳元で一言「ごめん」と囁いて、私の手を引いて駅へ歩き出した。

ーーーどうして?なぜ?何が起きたの?

手を引かれ歩きながら、私の指先は唇をなぞっていた。





…こんなに好きで、どうしようもなくても、私はあなたの人生に関われない。例え抱き締めてもらっても、例え、キスをされても。だってそうでしょう。

ーーーあなたは、結婚しているのだから。
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